その笑顔は神か悪魔か幻か ホワイトデーSS

 俺たちは、所謂恋人同士、なんだろう。
 ——多分。
 他人事のように言ってしまうが、恋人、という言葉がぴんと来ないというか、我が身のこととは思えない。嘉瀬さんの裸の背中を見ながらそんなことを考える俺は、嘉瀬さんにふられた女性に三回くらい刺されても文句は言えないのかも知れないが、実際そうなのだから仕方がないのだ。
 さっきまで俺の上にいた嘉瀬さんは、ベッドの縁に腰掛け、煙草をふかしながらテレビを観ている。嘉瀬さんの担当クライアントの某外資系会社、そこの親会社が特集された、どちらかというと固い経済番組だ。
 俺の上から退いた後、嘉瀬さんは時計に目をやりテレビを点けた。録画しているようだったが、たまたま間に合ったから観始めた、といったところ。
 これを、女性にやると酷く嫌がられるのは俺も知っている。
 セックスの直後にテレビを観たりすると私は大事にされていない、と感じるのだそうで、昔付き合っていた彼女に文句を言われたことがある。
「終わったあとこそ、ぎゅっとしてて欲しいの! 高橋くん分かってない!」
 そう言って頬を膨らませた彼女にごめんごめんと言いながら、女の子が気にすることはよく分からないと思ったものだ。
 好きだから抱いているのに。
 大事だから、自分の時間と感情を傾けているのに。
 抱くという事実ではなく事後が大事だというその論理は、男には正直理解し難い。それでも、女性が喜ぶなら言われた通りにするのだが、要は、言われたからその通りにしている、に過ぎないのである。
 そんな女性心理を知らない嘉瀬さんではないだろうから、やはりこれが自然体、なのだろう。
 嘉瀬さんは男で、俺も男だ。
 俺は、セックスの後ぎゅっとして欲しくなんかないし、嘉瀬さんはそれもよく分かっているに違いない。

「佐宗、お前何か欲しいもの、ないのか」
 いきなり言われ、俺は何のことかと首を捻った。嘉瀬さんは相変わらずテレビ画面を見つめたままだ。乱れた髪とすっきりした頬の輪郭が画面の光にうっすらと浮かび上がる。腕の付け根の窪みが影になり、嘉瀬さんが身じろぐと、影が僅かに形を変えた。
「……ちょっと前にも聞いた気がします、その台詞」
「クリスマスじゃねえか?」
「そうでしたっけ?」
 俺は寝転がったまま腕を組み、本気で記憶を探る。そう言われればクリスマス前にそんなことを言われたような気がしないでもない。結局そんなことは忘れてしまって、年末年始はばたばたと過ぎ、気付けばもう春がすぐそこまで迫ってきている。ということは期末ということで、俺はあー、と間抜けな声を上げた。
「数字がほしい……」
「人から数字もらってどうする、この半人前が!」
 嘉瀬さんは俺の頭を勢いよく平手で叩いた。
「痛っ! 何すんですか!」
「うるさい、馬鹿」
 こういうところは俺とどうにかなったからと言って、変わらないのが嘉瀬さんだ。
「くだらねえこと言いやがるからじゃねえか。そうじゃなくて、欲しいものねえのかって」
「だから、何で俺の欲しいものを聞きたいんですかって訊いてんです」
「そりゃあ、あったらやろうと思ってるからだろ」
「んなこと訊いてませんよ。じゃなくて、俺は誕生日でもないし、クリスマスでもないし、あんたはボランティアでもサンタさんでもないでしょうが」
「今日はホワイトデーだから」
 リモコンを取ってテレビを消し、嘉瀬さんはそう言うと煙を吐いた。テレビが消えてまた薄暗くなった部屋は、完全な闇ではない。目が慣れただけなのか、月明かりがやる気を出してでもいるのか。輪郭が滲んだ嘉瀬さんは、現実味がないくらい男前で、夢の中のような気分になる。
「……バレンタインデーに男にチョコレートを渡した経験は人生において嘗て一度もありませんが」
「よく舌噛まねぇな、お前」
「あげてもいないのに、何でホワイトデーにお返しが貰えるんですか」
 嘉瀬さんは、起き上がった俺に煙草の箱を放ってきた。嘉瀬さんと違って俺は、煙草は吸えれば何でもいい。例えタールが多かろうが少なかろうが、メンソールだろうが違おうが。
 有難く一本頂戴して銜えると、手が伸びてきてうなじを掴まれた。引き寄せられ、バランスを崩しそうになって右手で嘉瀬さんの背に縋る。差し出されたライターの火が俺の銜えた煙草の穂先を赤くして、嘉瀬さんの手も離れていった。
「馬鹿、意味なんかねえよ。何となく」
「……どっちにしてもホワイトデーはあと一時間もしないうちに終わりますけど」
「いちいちうるせえ奴だなお前は!」
 嘉瀬さんは笑いながらそう言って、俺の額を思い切り押す。俺は煙草を銜えたまま、ベッドに仰向けに転がった。
 白い天井も、光源のない今は薄い灰色だ。立ち上る薄青い煙が灰色に溶けて白く霞みながら消えていく。煙草の先に、俺が息を吸うその一瞬、朝焼けのような透明な赤が明るく灯った。手を伸ばし、灰皿にまだ長い煙草を放り込んで目を瞬く。
 嘉瀬さんもベッドサイドの灰皿で煙草を揉み消し、立ち上がった。脱ぎ捨てた服を拾い上げる衣擦れの音。そういえば、俺のスーツの上着は一体どこへ行ったんだろう。明日は土曜で休みだが、済ませておく用事はなかっただろうか。どうでもいいことを考えているうちに、知らず瞼が落ちてくる。そうして、ホワイトデーはいつの間にか終わっていた。

 

「これ……何ですか」
「何って、見りゃ分かんだろうが」
「見て分からないから聞いてんでしょうが」
 嘉瀬さんは呆れたように溜息を吐き、俺の頭をばしりと叩いた。
「お前なあ……。林檎だよ、り、ん、ご」
 林檎の芯をスプーンかナイフでくりぬき、そこにバターと砂糖を入れる。深めの器に入れ、ラップをかけてレンジで七、八分。
「で、似非焼き林檎、だ。オーブンがなくても、ガキでも出来る」
 嘉瀬さんはそう言いながら、新聞をばさりと広げた。今広げているのはスポーツ新聞。
 だが、普通の朝刊を三紙に日経まで、読み終えた後である。
 よく知らないで言うのだが、普通、日経なんか読む人は、スポーツ紙なんか馬鹿にするものではないのだろうか。それともそれ自体が偏見だろうか。いずれにしても、この人の頭の構造が俺にはいまひとつよく分からない。
「朝から、何でその、焼き林檎なんですか」
「ああ?」
 嘉瀬さんは、新聞をテーブルの上に放り出して俺を見た。
 いつの間にか寝入っていて、目を覚ましたのは翌日の朝だった。下着とTシャツを着ていたが、着た覚えがまるでない。どうやら着せられたらしいのだが、嬉しくないどころか、何と言うか腹立たしい。仏頂面をする俺に、嘉瀬さんは意地悪く笑ってみせた。
 飯を食え、と叩き起こされ、洒落たホテルで出るような朝飯を食わされた。そして出てきた林檎を前に、着せられたTシャツと借り物の、長すぎて裾を捲ったワークパンツのいかさない俺は、間抜け面を晒して座っている。
「世話好きな叔父がいてな、果物やら何やら、実家に山ほど送ってくるんだよ。それをまたうちのお袋が子供に送るっていう」
「……嘉瀬さん林檎好きなんですか」
「特別好きじゃねえよ。お袋も一人で食いきれねえから送ってくるんだ。俺もいつもは適当にそのへんに配ってたんだけどな、今回は余っちまって」
 そうですか、と俺は目の前の焼き林檎をフォークで切り分け、口に運んだ。林檎の香りがふわりと立ち上る。甘いものは進んで食べるほど好きというわけではないけれど、これは美味しい、かも知れない。
「俺、」
「林檎の歯ざわりが好きじゃねえんだろ。これなら食えるか」
 嘉瀬さんの台詞に驚いて、俺は口の中の林檎をそのままに顔を上げた。
 実は、そうなのである。
 味は決して嫌いではないのだが、あのしゃりしゃり感が苦手なのだ。梨は平気なのだから自分でもよく分からないが、冷えた林檎が特に駄目だ。齧った瞬間に鳥肌が立つ。しかし、嘉瀬さんにそんな話をしたことがあったろうか。
 嘉瀬さんは、俺の驚いた顔に驚いたように、首を傾げた。
「何つー面だ、佐宗。前に出張先のホテルの朝飯がブッフェだったときに言ってたろ。何だったかな、ヨーグルトかなんかに入ってて……ポテトサラダか? そこは覚えてねえけど」
 俺は、口の中の柔らかい林檎を咀嚼して、何とか飲み込んだ。
 正直、まったく覚えていなかった。嘉瀬さんと出張に行ったことは数回あるし、ブッフェスタイルの朝食だったことも何度かある。
 あの頃、俺は嘉瀬さんに単純に憧れ尊敬するばかりで、そして、本当にそれだけだった。嘉瀬さんの言動について記憶にないことなんて山ほどある。
 この人がそうでないのは単に記憶力がいいからなのか——……違うのか。
「何難しい顔してんだよ。不味いのか」
「いえ」
「おかしなやつだな」
 目を細め、嘉瀬さんは煙草を銜えてちょっと笑う。
「……余計なお世話です」
 返した俺の減らず口には、少々勢いが足りていなかった。
「ホワイトデー、は終わっちまったけどな」
「…………」
 唇を笑みの形に歪め、嘉瀬さんは俺を真正面から見据えて言う。
「物のやり取りしたからどうだってことじゃなくて、お前に何かしてやりたいと思うだけだ」
 そんな、まともなことを言わないでくれ。
 開いたシャツの襟元から覗く首筋に、眩暈がする。煙と林檎の香りが交じり合い、俺は目をしばたたく。
「こんな、林檎ひとつ取ってもよ」
 テーブル越しに身を乗り出し、嘉瀬さんは俺の頬に手を伸ばす。大きくて指の長い手が、頬を包む。掌が頬を撫で、一旦離れて手の甲でこめかみに触れた。斜めに滑り降り、唇の上で数秒止まる。たったそれだけのことなのに、俺はもう動けない。
「食わせてやろうか?」
 低い、色気のある声が耳朶を打つ。間違っても頷いたりしてはいけない。だから、俺は必死で首を横に振る。
「何だよ、遠慮すんなよ。ホワイトデーだろうが」
「それは昨日の話でしょうが」
「細かいことを気にすんなよ。なあ、佐宗」
「昨日と今日じゃ雲泥の差です。大晦日と正月くらい違います」
 俺の手からフォークを奪い取り、嘉瀬さんは林檎の皿を引き寄せた。一口大に切り取られた林檎が差し出され、俺は已む無く口を開いた。
 ほのかに温かく、やわらかい甘い果実が、舌の上で溶けていく。
 嘉瀬さんは可笑しそうに笑ってまた林檎を切り、フォークに載せて、俺の唇に強引に押し当てる。
「いちいちうるさいのはこの口か、え?」
「そうですよ、何か文句ありますか」
「食わせるのって妙にエロいな。何か別なことを想像しちまう」
「阿呆ですか。自分で食いますよ、返してください。妄想の世界へはお一人でどうぞ」
「何だ、照れることねえだろう。食ったら俺のも舐めてくれ」
「一遍死んだほうがよくないですか、あんたって人は」
「口が減らねえなぁ、お前は」
「俺の売りは減らず口ですから」
「俺以外に売るなよ、許さねえぞ」

 セックスの後優しく抱き締める腕も、ホワイトデーのプレゼントも何も要らない。
 煙草の穂先に灯る小さな火のように、あんたの中に俺の何かがあるなら、それだけで。