その笑顔は神か悪魔か幻か 9

 ダンボールで出来た小箱が一斉に落下し、保奈美ちゃんの歓声が上がった。
「残念ですー、ぶちょー!」
「マジかよ」
 嘉瀬さんが舌打ちし、隣の沖田さんがまあまあ、と嘉瀬さんの肩を叩いた。

 第二営業部の少々早めの忘年会は、既に三次会である。
 一次会は全員参加、一次会の三分の二で始まった二次会だったが、終わった時点で更に半数以上が脱落し、ここに残っているのは僅かである。
 部長である嘉瀬さん、沖田さん、清水さん、そして保奈美ちゃんと俺という面子。
 沖田さんは嘉瀬さんの一期下。同じく気楽な独り身だ。清水さんは俺と嘉瀬さんの丁度間の年齢で、新婚ほやほや。それなのに急いで帰らないのは、奥さんも今日は友達と、これも早めのクリスマス会なんだそうだ。
 テーブルの上で崩れたダンボール箱はこの店のママが貸してくれたもので、パーティー用のゲームである。小箱の中に罰ゲームを書いた紙が入っていて、最初は小箱を山のように積んでおく。順番に山から箱をひとつずつ抜いていき、山を崩した人が、最後に抜いた箱の中の罰ゲームをするという単純な遊び。
 数年前に客の頼みで買ったとかで、ママが保奈美ちゃんと話をしていて思い出し、引っ張り出してきたものだった。中の紙もその時のままで、何が入っているか、ママも覚えていないとか。
 保奈美ちゃんがバランスを悪くしてしまったせいもあり、隣に座る嘉瀬さんの番でついに崩れた。
 嘉瀬さんは銜えた煙草の先を揺らしながら、箱を開ける。
「えー、年齢順で自分から二番下の人にお小遣い五千円?」
「あ、俺だ、俺!」
「清水、お前なあ、綺麗な嫁さん貰って更に上司から搾取か、この野郎」
「部長、だってそれは俺のせいじゃないっすよ」
「そうそう、嘉瀬さん。日頃の行いが物を言うんですよ、こういうとき」
「沖田、お前に言われたかねぇぞ」
 言いながら、嘉瀬さんは鞄を引き寄せ、財布を覗く。どうやら五千円札がなかったらしく、千円札を数枚取り出し、慣れた手つきで縦勘した。
 どうせ、銀行に勤める女性か、そうでなければ小口現金を扱う経理の女性と付き合っていて覚えたに違いない。多分俺だけでなくその場の全員がそう思ったが、いちいち口に出していたら、常に何か喋っていなくてはならなくなる。
 最後にぱちん、といい音を立てて札を弾くと、嘉瀬さんは保奈美ちゃん越しに手を伸ばし、清水さんのワイシャツのポケットに札を押し込んだ。
「ほら、今月の分だよ」
「やだぁ、嘉瀬さんったらぁ」
「ものすごく気持ち悪いですっ、清水さん!」
「あら、そう?」
「保奈美ちゃん、はっきり言いすぎ」
「佐宗さん、だってぇ」
「言っておくけど、保奈美ちゃん、佐宗くんより俺のほうが女装は似合うと思うね!」
「清水、そんなのちっとも威張れねえぞ」
「奥さんの服借りて着てみたら?」
「沖田さん、真顔で怖いっすよ……」
 わあわあ言いながら、誰からともなくダンボールを積み上げて、今度は逆回りにゲームが始まった。
 嘉瀬さんが天井に煙を吹き上げながら、沖田さんの惚けた冗談に笑う。そうして顎を戻す一瞬に、嘉瀬さんは強い視線を俺に投げた。

 清水さんが焦がしたワインのコルクで漫画のような髭と眉毛を描かれ、途中から参加したママが沖田さんにデコピンされた。酔いもそろそろいい頃合、はしゃぎ疲れてあと一回で止めにしようと誰かが言った。
 そんなこんなで、みんな気が抜けていたに違いない。乱暴に抜かれていくダンボールの箱。ママが客を送りに席を立ち、向こうの隅のボックス席で、なぜか女の子が泣いている。
 注意力散漫もいいところで俺が箱を抜き取ると、瞬時に山は倒壊した。
「うわ」
「今度は佐宗か。最後を飾るにふさわしい罰だといいな」
「沖田さん、何気に酷くないですか」
「で、佐宗さん、どんな罰ゲームですか!」
 俺は箱の蓋を開け、よれた白い紙を取り出した。
 何となく、物凄く不吉な予感がした。
「佐宗、何固まってんだ、お前」
「どうしたんですかぁ?」
「……クリスマスも近いというのに、この世は神も仏もありません……」
「どれどれ」
 清水さんが右から身体を寄せ、俺の手元を覗き込む。
「左側の隣の隣の人にキスされる……隣の隣っていうと」
「嘉瀬さんだな」
 沖田さんの冷静な声が、俺には死刑宣告に等しく聞こえる。
「きゃー!」
 保奈美ちゃんが嬉しそうに笑い転げる。女の子は、こういう冗談が割と好きだ。だけど、俺にはちっともおかしくない。
「最悪です」
「確かに」
 清水さんが深く頷く。
 そこへママが戻ってきた。三十代後半のママは、元モデルだとかで流石に垢抜けている。
「あら、佐宗くんが崩しちゃったの? 罰ゲームなに?」
「これ」
 俺の手から紙片を取り上げ、清水さんがママに渡す。ママは吹き出し、きれいにネイルした手を叩いて喜んだ。
「やだ、可哀相! あとひとりずれてたら保奈美ちゃんだったのにねえ」
「それは困ります。私、彼氏に叱られます」
「部長、お願いします」
「沖田さん、乾杯の音頭じゃないんですから~」
「さて、じゃあやりますか」
 それまで一言も発しなかった嘉瀬さんがゆっくりと立ち上がった。
「よっ、部長!」
 と、清水さんが訳の分からない掛け声をかける。
「マジですか……」
「往生際が悪いわよ~、佐宗くん」
「犬に噛まれたと思え、佐宗」
「沖田さん、そんな、他人事だからって。頑張れよ佐宗!」
「清水さんのほうがよっぽど他人事じゃないですか!」
 俺は正直泣きそうだった。
 嘉瀬さんが好きだ。
 嘉瀬さんのキスも好きだ。
 だが、これはまったく嬉しくない。
 こんなことで嘉瀬さんは動じないだろう。どうせ適当に笑いを取って終わらせるに違いないけど、そういうのは好きじゃない。だからと言って照れたり不機嫌になられても困るから、何ともしてもらいようがないのだが。
 俺は本気で困り果て、立ったまま呆然と嘉瀬さんを見るしかない。
「おい、佐宗。そこじゃテーブル邪魔で届かねえだろ。突っ立ってねえで、そっち出ろ」
 案の定、嘉瀬さんはにやにや笑っている。ボックス席で泣いていた女の子が顔を上げ、嘉瀬さんを見た途端、うっとりした顔になった。
 仕方がないから席を離れ、嘉瀬さんと壁際に立つ。店内からは死角になる位置だったが、それでも第二営業の面々からは当然ながら丸見えだ。
「嬉しくない」
 思わず呟く俺に、沖田さんがおかしそうに言う。
「罰ゲームなのに嬉しかったら駄目だろ」
「そうですけどねえ……」
 言いかけた俺の顎に、嘉瀬さんの指が伸びた。

 顎を掴まれ、仰向かされて思わず口が開く。
 なんと、尊敬する我が部長は、思い切り普段どおりのキスを仕掛けてきやがった。
 女声の歓声は保奈美ちゃんとママ。残りの二人も爆笑している。
 冗談じゃないよ。
 終わったと思って息を吸ったら角度を変えて塞がれた。息継ぎもろくに出来ないで、差し込まれる舌を押し戻そうと俺は躍起になる。
 スーツの上着の下から掌が潜り込み、ワイシャツの上から背中を強く抱き寄せた。
 胸と腹に感じる嘉瀬さんの体温、口蓋を撫でていく舌の先。押し退けようともがいていた俺の手が、今は引き寄せてはならないという自戒に震えているのに多分誰も気づかない。
 嘉瀬さんは俺に口付けたまま四歩歩いて俺を壁に押し付けた。腿に嘉瀬さんの硬くなったものが当たり、本気で卒倒しそうになる。
 俺がこんな目に遭っているのに、第二営業部とママはやんやの喝采だ。
「帰り、寄れよ」
 離れた唇を繋ぐ唾液の糸をべろりと舌で舐め取って、嘉瀬さんは低く囁く。
 にんまりと笑った顔にこの人は酔っているのかいないのかと考える間もあらばこそ、俺は思い切りその腹に膝蹴りを食らわせた。

 

「災難って言えばお前が一番災難だなあ」
 沖田さんは苦笑しながら俺の肩をぽんぽん叩いた。
「もう放っといてください」
「まあまあ」
 怒るなって、と言って、沖田さんは肩を竦めた。
 保奈美ちゃんは彼氏が迎えにくるとかで、嬉しそうに去って行った。清水さんも奥さんからメールが来て、タクシーに乗り込んだ。
 沖田さんも俺も嘉瀬さんも方向は違うのだが、手洗いに行くと行って店に戻った嘉瀬さんを、ビルの一階で何となく待っているのである。嘉瀬さんは全員先に帰ってもまったく気にもしないだろうが、そこはやっぱり会社の飲みだ。部長を一人置いてはおけない。
 勿論、俺が部長の家に寄るかどうかとは、まったく次元の違う問題である。
「沖田さんは、クリスマスはどうするんですか? 彼女と会うんですか」
「うーん、遠距離みたいなもんだからなあ。正月帰ってくるまで会えないし、クリスマスは何もない」
「そうなんですか」
 沖田さんの彼女は結構名の売れたカメラマンなのである。彼女の写真は自然を撮影したものが多く、ポストカードなどにされているのをたまに見かける。
 取材だとか、写真集のための撮影旅行だとかで、あちらこちらを飛び回っているらしい。
「佐宗は、部長とか?」
「何がです?」
 何を言われているのかまったく理解できなかった。俺は多分、世界一間抜けな笑顔で沖田さんの顔を見た。
 沖田さんはいつもながら飄々としていて何を考えているのか容易に読めない。穏やかな顔で、沖田さんはもう一度、まったく同じ台詞を吐く。
「佐宗は、部長とか?」
「俺が、部長とですか?」
「鸚鵡返しって言うんだよ、そういうの」
「オウム? はい」
「クリスマスは嘉瀬さんと一緒?」
「別に約束してませんけど?」
「そうなんだ」
「なんで」
 俺が部長とクリスマスを過ごさなきゃならないんです。
 本気で尋ねかけ、男女であればそれはすなわち恋人同士を意味するのだと思い当たる。つまり。
「——ええと……」
「何だ、勘違いかな」
「何がです」
「お前、そればっかり」
 沖田さんはおかしそうに笑い、コートのポケットに手を突っ込んだ。
 繁華街のネオンは煌々と空を照らす。クリスマスの電飾も、居酒屋の看板も、消費する電力に違いはない。きれいなものもそうでないものの、一緒くたに夜空の底を白く染め、どこまでが本当の闇なのか、俺にはもう判断できない。
「あの人、あれで結構顔に出るだろ。仕事以外は」
 沖田さんがゆっくりと言い、身体を縮めてベージュのマフラーを引っ張り上げた。風は冷たく、どこから来たのか乾燥した落ち葉がかさかさと、虫のようにアスファルトを這っていく。
「お前、相当想われてると思うよ」
「…………」
「そんなの、言うまでもないのかも知れないけどな」
 自分の靴の先に視線を落とした俺の肩を、沖田さんは再度叩いた。優しい、宥めるようなそれは、まるで俺を哀れんでいるかのように温かい。
「俺、酔ってるから大丈夫。多分明日には忘れてるよ。じゃあな、おやすみ」
 沖田さんは身を翻し、タクシー列の先頭に向かって歩き出した。俺はどうしていいか分からずに、沖田さんの背中を黙って見送る。
 タクシーに乗り込む寸前、沖田さんは振り返って、にっこり笑うと大きく手を振った。

「あれ、沖田は?」
 嘉瀬さんは、沖田さんを乗せたタクシーが角を曲がって消えた直後に、煙草を銜えて現れた。
「帰りました。たった今」
「ふうん」
 嘉瀬さんは首を傾げ、俺をまじまじと見つめて頬を歪める。
 酔っ払って何度もかき上げたからか、髪が乱れて若く見えた。崩れた襟元がコートからちらりと覗いて、さっきのことを思い出す。
「怒ってんのか、佐宗」
「怒ってません」
「怒ってる」
「怒っては、いません」
 そう吐き出すと、嘉瀬さんは面白がるような目の色をして、片方の眉を持ち上げた。
 本当に、怒ってはいなかった。ただ、この聡い人が、どうしてあんなことをしたのかがよく分からないというだけで。
 嘉瀬さんが幾ら遊び人といったって、男の俺と関係していることなんて誰にも知られたくないはずだ。オープンにしたいという人ならば、多分俺がついていけない。
 あんなことをしたばかりに、沖田さんには多分確信を与えたに違いなかった。沖田さんは脅威でも、敵でもないからよかっただけだ。たまたま勘付いたのが分別ある沖田さんだったから、だから俺はこうして平静を保って立っていられるだけなのだ。
 ビルのロビーの明かりを背に、嘉瀬さんは真っ直ぐ立っている。
 黒いコートに包まれた嘉瀬さんの長身は、泣いていた女の子も泣き止ませるほど色気があった。
「ごめん」
 素直な謝罪に、俺の減らず口は不発に終わる。
「やり過ぎた。分かってる」
「あんた、意外に馬鹿なんですか。それとも酔っ払いなんですか」
「両方、じゃねえかなあ」
 そう言う嘉瀬さんの足元は、しっかりしていた。酔っているとは思えない足取りで、長い脚は歩を進める。俺は三歩後ろを歩きながら、嘉瀬さんのコートの裾をぼんやり見ていた。
「沖田さん、気付いてますよ」
 ぴたり、と嘉瀬さんの足が止まる。二秒止まって、また歩き出す。嘉瀬さんは何も言わず、俺から見える頭の向こうの煙が、少し濃くなっただけだった。
「クリスマス、嘉瀬さんと過ごすのかって、訊かれました。約束してないって言いましたけど」
「誘ったって、嫌って言うだろ」
「何でそう思うんですか」
 俺の台詞に、嘉瀬さんは今度は止まるだけでなく振り向いた。
「男二人寄って、クリスマスに何したらいいのか分かりませんけどね。気が向けば、うんっていうかも知れませんよ」
 お前、相当想われてると思うよ。
 沖田さんの声が耳に甦る。それが本当かどうか、俺に知る術はない。どれだけ思ってもらっているかなんて、量れない。どんなプレゼントともわけが違う。感情とか心情とか、曖昧すぎるそれらのものに、値段の基準なんかないのだから。
「——何か、欲しいものあるか」
 俺はいい子じゃないから、サンタさんは来ないだろう。だったら、望みを口に出したところで、仕方がない。
「さあ?」
「何かあるだろ」
「サンタさんなら、言わなくてもきっと分かってくれます」
 三歩の距離を詰めて隣に並ぶ。
「寒いとこで突っ立って話してても仕方ないでしょう。さっさとタクシー乗りましょう」
「一緒に?」
 嘉瀬さんが、にやりと笑う。崩れた髪と襟元から、俺はゆっくりと目を逸らす。逸らした視線のその先で、サンタの形のイルミネーションが、眩いばかりに点滅していた。
「寄れって、あんたがそう言ったんでしょうが」
「命令はしてないつもりだけどな」
「そんなこと、言われなくても知ってます」

 電球とコードで出来たサンタの優しい笑みに、俺は胸のうちだけで、こっそり問う。
 いつか、俺の欲しいものを届けてくれますか。
 サンタの笑顔のその上を、ひらりとひとひら、雪が掠めて舞い落ちた。