その笑顔は神か悪魔か幻か 10

 切れた携帯電話を三秒見つめ、俺は思わずクソ、と呟いた。
「誰に電話してたんですか?」
 笑いを含んだ声が背後からそう訊ねた。分かっているのに訊いている口ぶりだった。携帯を閉じてポケットに突っ込みながら、俺はグラスを持ち上げた。
「佐宗」
「──何て?」
 スツールを引き出す音に質問がかぶる。
「今レンジで白米をチンしてるところで、あんたと話してる時間はない、だとさ」
「白米」
「そんなもん放っとけっつったら、米には一粒に七人の神様が宿ってて、無駄にしたら神様が大挙して俺を呪い殺しに来るんだとよ」
「嘉瀬さんにそこまで言えるのは流石佐宗ですね」
「お前だって結構言いたいこと言ってるじゃねぇか」
「俺は年も近いし、付き合いも長いですから。あの、愛されてるから許されるなんて微塵も思ってないのに毒舌全開なところが、堪りませんね。ね?」
「ね、じゃねえよ──何だ、愛されてるって」
 沖田は多分気付いていると佐宗が前に言っていた。そうは言っても確かではないからとぼけてみる。
 沖田さん、いつものでいいの。寄ってきた若いバーテンダーが気軽に話しかけてくる。話があると言って俺を呼び出したのは沖田で、ここは沖田の行きつけの店だ。沖田は頷き、バーテンダーが離れていくのを確認してこちらを向いた。
「そのまんまの意味ですよ。別に嘉瀬さんが誰を好きだろうと男女どっちだろうと、対象が自分でなきゃ俺は気にしません。……それに、遊びじゃないみたいだし」
 沖田はにっこり笑って俺を見つめた。
「……」
「世間一般では沈黙は肯定と判断しますけど」
 俺は何を言っていいか悩んだ挙句、勢いよくグラスの中身を喉の奥に放り込む。沖田は笑い、照れないで下さいよ、と付け足した。

「話ってなんだ」
 沖田はレッド・アイのグラスの表面を指でなぞった。別に迎え酒というわけではない。沖田はトマトジュースが好きなのだ。
「話っていうか……俺、結婚しようと思います」
 思わぬ台詞に、俺は思わず沖田の横顔を見た。先ほどの会話から、てっきり俺と佐宗のことかと思ったのだ。
 沖田には数年前から付き合っている女がいる。何度か会ったことがあるが、彼女は写真の仕事で世界中を飛び回っており、沖田とは遠距離恋愛に近い。結婚する気はなさそうだと勝手に思っていたし、以前沖田もそんなことを言っていたから尚更だった。
「彼女、写真止めるのか?」
「止めませんよ。半年後には南米です」
「ってお前、結婚するっつったろ」
「よく、自然写真家が事故で亡くなったりしますよね。雪崩とか、動物に襲われたりとか」
 血のように真っ赤なレッド・アイを見つめながら沖田は淡々と語を継いだ。
「結構こたえますよ、ああいうの聞くとね。今回の南米は長いんで……俺が彼女の錨になればいいなあと」
「……そうか」
「実際のところ今までと何も変わりませんけどね」
「不満はねえのか」
「ありますよ。そりゃあね」
 沖田はゆっくりこちらを向く。仕事帰りの沖田は少しだけ疲れた顔をして、ネクタイが僅かに左に曲がっていた。
「子供も欲しいなあとは思うし……でも、俺は彼女以外の女性に興味はないから。相手に対する不満をね、リストアップしてお互い見せたんですよ」
「すげえな、お前ら」
「だって、黙ってたら禍根を残すでしょう。それで話し合って、結婚することにしました。取り敢えずの処置って言ったら変ですけど、危ないところに行く前に、左手の薬指を見て何か思い出してくれたらいいなと思って」
 俺自身、過去に結婚しようと思ったことがある。今思えば些細なことがきっかけでその話は流れたが、あの時結婚していたら俺はどんな人生を歩んだのかと思うことも、時にある。今頃は子供の一人や二人いて、それなりに父親が板についていたかも知れない。
「おめでとう」
「有難うございます」
「結婚すりゃ、彼女の仕事のやり方も変わるかも知れねえしな。人間、まるで変わらねえってことはねえんだから」
「そうですね」
「泣かされんなよ」
「普通、泣かすなよ、では」
「お前はそういうことはしねえだろ。多分」
「あ、確かに俺は嘉瀬さんとは違いますから」
「うるせえよ」
 笑う沖田の顔は、普段と特に変わらない。バーの照明は薄暗く、細かな表情のあやまでは俺の目には映らず消える。
「嘉瀬さんはどうするんですか?」
「何が」
 言いたいことはすぐに察しがついたが、再度とぼけた。
「……まあ、どうするって言われても、でしょうけど」
 沖田は僅かに微笑み、レッド・アイを口にして、酒瓶の並ぶ棚に視線を向けた。

 

「白米は残さず食ったか」
「お陰様で一粒残らず食いました。あんたを呪うのは今のところ俺だけみたいです」
 佐宗はドアを開けたまま言い、俺を見上げて突っ立っている。入れとも帰れとも言わない仏頂面から胸の内は読み切れない。
「何してたんだ」
「飯食って風呂入って」
「髪乾いてる」
「乾かしましたから」
「そうかよ」
「その後、ずっとテレビ観てました」
「そりゃ邪魔したな」
「……別に、邪魔ってわけじゃないですよ」
 かなりの間の後、佐宗は言って身体をずらす。隙間から玄関に入り、鍵をかけた。
 狭くて殺風景な玄関は、かつて訪れたどの恋人の家のそれとも違う。玄関に勝るとも劣らず愛想のない面をした佐宗は振り返りもせず居間に消えた。
「沖田さんと飲んでたんじゃないんですか。早いですね」
「飲んできた。あいつ、これから女のとこだっつーから」
「そうですか」
 乾かしっぱなしの髪の佐宗は普段よりずっと子供に見える。膝に穴の開いたジーンズ、襟がよれよれになったTシャツ。テレビ画面には数年前に流行った映画の吹き替え版が映っている。
「結婚すんだってよ」
「沖田さんが? 彼女、写真やめるんですか」
「俺も同じこと訊いたけど、違うってよ」
「そうですか……」
 佐宗は僅かに眉を寄せながらグラスを取り出し、氷を入れる。ペットボトルの緑茶を取り出しグラスに注ぐと、途端にグラスの表面に露がつく。差し出されたグラスごと佐宗の手を掴んで引き寄せた。
 たたらを踏む佐宗を右手で抱きとめ、左手でグラスを持ち上げ口に運んだ。グラスと一緒に掴んだままの佐宗の手ごと持ち上げて、グラスの縁から佐宗を見下ろす。
「何でそんなツラしてんだ」
「いや……結婚したからって、彼女があちこち行くのは変わりないんでしょうし、結構勇気いるなと思って。好きなだけで全部がうまくいくわけじゃないですから」
 沖田と同じことを言う。
 好きってだけで解決するのは高校生くらいまでですかね。俺とあいつもそうだし、嘉瀬さんと佐宗もそうだし。
 グラスの中身を半分飲み干す。真っ直ぐに戻したグラスの中で氷がからりと音を立て、佐宗の目が音につられて僅かに動いた。
 身を捩り、腕の中から佐宗が抜け出す。グラスを台所に戻しに行く背中はどちらかと言わなくても素っ気ない。
 嫌がるふりで焦らす思惑など佐宗にはない。女と違って、抱き締めて愛を囁いても佐宗はちっとも喜ばない。そのくせ本気で俺に惚れているのだというのだから可愛くてたまらないと思う自分は、やはり真正の馬鹿なのか。
「なあ、俺んとこ来るか」
「は?」
 間抜けに声を裏返して、佐宗が訊く。
「今からですか? 嫌ですよ、明日も仕事なのに」
「そうじゃねえ、馬鹿」
 まったく、正直にも程がある。
「結婚ってのが出来ないなら、俺はどうやってお前に誠意を示せばいいのかと思ってな。部屋はあるし」
 思いつきで言うわけではない。
 沖田に言われずとも、どうしたらいいかというのは考えていた。どうしたら、佐宗は安心するのだろう。どうしたら、真剣だと伝わるだろう。それはものなのか、ことばなのか。一緒に暮らさないかと誘いながら、果たしてそれが一番いいのかどうか俺には正直分からない。
 佐宗は僅かに吊り上がった目を見開いて瞬きする。まるで俺がくだらない冗談を口にしたみたいに眉を顰めて、口を開いた。
「嫌です」
 まさか快諾されると思ってはいなかったが、迷いのない即答に流石に眉間に縦皺が寄る。
「少しは悩めよ」
「悩むようなことじゃありません。何ふざけたこと言ってるんですか」
「ふざけちゃいねえよ、俺はいついかなるときも真剣だ」
「物凄く信じ難いですが」
「少なくとも今は真剣だ」
「とにかく嫌です。大体、意味が分かりません」
 冷たくさえある仏頂面に、流石にかちんと来たのは否めない。幾らなんでも躊躇がなさすぎやしないのか。そんなに俺はどうでもいいのか。
「意味が分からないってことねえだろ、お前な」
「分からないですよ」
「日本語分かんねえのか」
「同じ部で同じ部屋に住んでるって、怪しすぎるでしょうが」
「ここは契約しておきゃいい。現住所はそのままで」
 流石に俺も緊急連絡先に同じ住所を並べておく勇気はない。佐宗は何とか断る理由を探そうとしているのか、何も浮いてはいない宙に視線を彷徨わせた。
「それに、一日中会社で顔突き合わせてるじゃないですか。十分じゃないですか」
「そりゃお前沖田だって里中だって同じじゃねえか」
 言うと、佐宗は言葉に詰まった。ザマアミロ、なんて一瞬思うが、それではガキの喧嘩と変わりない。
「佐宗」
 佐宗が前髪の間からこちらを見上げる。きつい目つきは相変わらず。普段着のせいか妙に子供っぽいのが訳もなく腹立たしい。
「会社終わって部屋帰ったって、飯食って風呂入って寝るだけですよ。別に一緒じゃなくたっていいでしょう」
 そりゃそうだ。お前の言うとおり。
 女じゃあるまいし、俺だって別に新婚さんごっこがしたいわけではない。
「んなことは分かってる。だけど、じゃあどうすれば俺は証明できるんだ?」
「何をですか」
「言ったろうが。お前の人生引き受けるって決めたんだ」
「……」
 佐宗が一歩後ずさる。まるで怖いものを見たかのように怯んだ表情が貼りついた顔は、妙に強張って少し白い。
「結婚できりゃ簡単かも知れないけど、そうもいかねえんだから考えるだろ。どうすれば信用される。一体何が一番いい? 戸籍か、指輪か? 何が欲しい? お前がそんなもん欲しがらねえのは俺が一番よく知ってる。確実なものなんかないのも知ってる。けど、だからってじゃあ何もしませんで、それでお前は安心か? 俺に飽きられるのが怖いって離れようとしたくせに、俺が差し出すものは何一つ欲しくないってそう言うのか!!」
 最後は、いつの間にか怒鳴っていた。
 佐宗の目が、瞬きもせず俺を見つめている。可愛らしくなどない、まるで失敗を咎めるかのような厳しい目。何も言わずに見つめられていると、何だか喚き散らしたくなってきた。踵を返し、大股で玄関に向かう。
 邪魔なわけではないというが、そもそも歓迎されたわけでもない。卑屈な気分でそう思い、自分に腹が立って舌打ちした。
 何かが引っかかったような感覚に、俺はその場に立ち止まる。上着のサイドベンツの右側の裾を、佐宗の指が掴んでいた。
「嘉瀬さん」
 低い声が、小さく名前を呟いた。
「……すみません」
「別に──」
「でも、やっぱり嫌です」
 頑固な部下が一歩近寄る気配がする。背中に、多分佐宗の頭が軽く当たった。微かな声が背骨を揺らす。スーツにワイシャツ、アンダーシャツ。更に皮膚と肉を通して佐宗の声が滲みてくる。
「そんな嫌なら無理強いしねえよ」
「これ以上」
「何?」
「これ以上は、ちょっと勘弁してください」
 何を言いたいのかよく分からない。
「急に、一遍には無理です。今だっていっぱいいっぱいなのに」
 振り返ろうとしたら佐宗の手に阻まれた。肩越しに佐宗の頭を見下ろす。洗いっぱなしの髪が肩の下に見えている。
 迷惑ってことなのか。訊ねる前に佐宗は益々落とした声で語を継いだ。
「これ以上もらったら──いつもあんたが目の前にいたら、俺、頭に血が昇って死んじまいます」
 掠れた声に、目眩がする。
「……ゆっくり、ください」

 

 証を立てるとか、誓いを交わすとか。嘘くさくてわざとらしくて滑稽だと思っていた。正直今もそう思う。だから何も約束しないし、誓わない。
 お前が望まないなら尚の事。
「ジジイになる前には貰ってくれ」
 佐宗の頭がぴくりと動き、堪え切れずに吹き出した。
「鋭意努力します」

 

 安堵したような声を出す佐宗に、俺は内心で呟いた。

 要らないって相手に売りつけるのが営業だ。お前、第二営業部長様を舐めるなよ。