その笑顔は神か悪魔か幻か 8-2

  怪我はなかったし、幸い鞭打ちになるような揺れ方はしなかったから、肉体的にはまったく無傷だ。病院に行ったのだって、事故後のマニュアルというものに従っただけでしかない。
 機械的に病院に行き、会社に電話を入れ、診察を受ける。その間、俺はまだ、ぼんやりしていたんだろう。
 だから恐怖を明確に感じたのは、嘉瀬さんに肘を掴まれたまま歩いている最中だった。
「嘉瀬さん」
 耐え切れなくて、名前を呼んだ。
「嘉瀬さん」
 嘉瀬さんは、返事をせずに振り返る。
「——昨日はすみませんでした」
 美形と呼んでもいい顔が歪み、こんな時に何だ、と声に出さずに眉が語る。
「おしぼりぶつけたり、送ってもらったり」
「何なんだお前。調子狂うじゃねえか。礼なんか言うな」
「死んだら言えませんから」
「つまんねえ冗談も言うな」
 低い声が、掠れて震えた。
 そう思ったのは、俺の願望なのかも知れなかった。隙のないスーツ姿に、俺を抱いた後のように乱れた髪。顔色は悪くて、目はまだ血走っている。
 充血した目にかかる前髪が色っぽい、と愚にもつかないことを俺は真剣に考える。
「電車乗って帰れ」
 俺の肘を掴んでいたのを、ようやく思い出したらしかった。嘉瀬さんは握り締めていた指を解くように一本ずつ外し、一歩下がって俺を見た。
 いつの間にか、日が沈む時刻になっている。
「今日は」
 もう帰れ、と呟く嘉瀬さんの顔に斜め後ろから当たる西日。
 この人がどうしようもなく好きだった。
 愛とか何とか、そんな言葉で括れるのかどうかは分からない。将来を考えたら不安になる。好きなだけではどうにもならない、そういうことが世の中には沢山あって、それを分かっていてもそれでもたまらなく好きだった。
「嫌です」
「佐宗、お前な」
 イラついたのか、嘉瀬さんのこめかみにぴくりと血管が浮く。この期に及んで駄々をこねる部下を張り倒したいと思っていることだろう。
「何でもなかったつっても事故ったんじゃねえか。駅はすぐそこだ。もう今日の仕事はいい。何とでもなる」
 タクシーに乗れと言わないのは気遣いなのだろう。
「帰れ」
「嫌です」
「高橋、いい加減に」
「嫌だ」
 口を突いて出た言葉に自分で驚き、頬を伝う涙に仰天した。俺は道の真ん中で、何で泣いているんだろう。昨日から俺は泣いてばかりのような気がする。
「嘉瀬さん」
「おい、泣くなよ。何ともなかったんだから」
 的外れな慰めを口にした嘉瀬さんはハンカチを取り出して俺に差し出した。
「……ハンカチくらい持ってますよ、俺だって。失礼ですね」
「そういうことじゃねえだろうが」
「置いていかないで下さい」
 沈む太陽の色で空が染まる。ピンクから紫へ、水色へと変わる美しいグラデーションは、まるで神の吐息か何かに思える。神々しいほど美しい夕焼けが、嘉瀬さんの顔に怖いくらいきれいに映えた。
「すいません」
 何に謝っているのか、自分自身、定かでなかった。
 陽が落ちきらない空とビルの境目は曖昧で、白っぽいコートは浮かんで見え、黒っぽいスーツは背景に溶けて見えた。どことなく風景が歪んで見えるのは、僅かに残る夕陽の反射のせいだろう。
 嘉瀬さんをそういうふうに意識するようになってから、俺の世界はどこか歪んだ。
 好意とか愛情とか、以前は素直に受け取り差し出せたそれらのものを、俺は今、恐々両手で包んでいる。掴んでしまえ、と嘉瀬さんは言う。掴んでしまって、後でやっぱり返せと言われたらどうしたらいいんだろう。そんなことばかり考えて、ずっと受け入れきれずにいる掌の中のもの。
 顔を上げたら、嘉瀬さんと目が合った。端正な顔が歪んで、今にも怒鳴りだしそうに唇が微かに震えた。
 嘉瀬さんが、多分手の中の迷いごと、俺の手をきつく掴んだ。

 その後の数時間、片付けたはずの仕事のことは殆ど覚えていない。
 心配そうに声をかけてくる同僚に何を言ったのかも覚えていない。米内さんから入った連絡を聞き、結局お互い痛いところがなくてよかったと言い合った。タテカンの見本は幾つか駄目になったらしいが、事情が事情だけに、そのまま見せることにしたと米内さんは明るく笑った。迫力あっていいだろ、と冗談を飛ばす米内さんは、切り際に元気出せよと励ましてくれる事も忘れなかった。
 嘉瀬さんが俺の何処を気に入ったかは知らないし、これから先ずっとそうだという保証もない。だけど、例え俺が納得できない理由だろうと違おうと、あの人が惚れたと言うならそうなのだろう。米内さんの言うとおり、嘉瀬さんの理由を、俺が必ずしも理解する必要は多分ないのだ。
 嘉瀬さんを受け入れないまま死んでしまったら、俺は多分死ぬ程後悔する。
 死んだら死ぬ程も何もないが、とにかくそうなんだとしたら、抵抗は諦めるしかないんじゃないか。あの時夕陽に染まった嘉瀬さんの歪んだ顔にそう思った。
 もしも今日の事故で死んでいたら、俺は多分、おばちゃんを呪い殺したに違いなかった。だが無傷でここに座る今、俺は花柄ブラウスのおばちゃんに内心で頭を下げた。

 昨日もこうやって無言でタクシーに乗ったんだった、とぼんやりと思った。
 昨日と同じ居酒屋で、昨日と違うものを食った。こちらを見てあ、と声を上げた金髪の店員に嘉瀬さんがありがとう、と礼を言った意味が俺にはよく分からなかった。
 食欲はあまりなかった。嘉瀬さんも同じなのか、箸は進んでいなかったように思う。
「出るか」
「はい」
 仕事の話に終始した食事は、まるで打ち合わせのようだった。
「もう一軒、行くかな……お前、どうする」
 店の外で立ち止まり、嘉瀬さんはそう訊いてきた。
「もう一軒って?」
「さあ? 生還祝いに行きたいとこに連れてってやるぞ」
「…………」
「辛かったら、帰ってもいいしな」
 顔を背け、嘉瀬さんは呟いた。
「何で、そこで怖気づくんですか」
 俺だって怖いんだ、とこの人はそう言った。俺に惚れろ、とも言った。いつだって嘉瀬さんに嘘はない。そんなことは最初から分かっていたはずなのに、なぜか今、改めてそう思った。
「俺が事故ったから、気を遣ってるつもりですか。そんなの必要ありません」
 首を傾げて俺を見ていた嘉瀬さんは、結局そのまま何も言わず、タクシー乗り場に足を向けた。
 昨日ずぶ濡れで辿り着いた部屋は、昨日と何も変わっていなかった。
 本当の意味で、変わっていない。
 嘉瀬さんが脱ぎ捨て放り投げた上着がそのままソファにかかっている。テーブルの上の灰皿には吸殻が山になり、匂いが籠っていがらっぽかった。俺を送る前に嘉瀬さんが飲んだ水のボトルが、そのまま灰皿の横に置いてある。キャップも空いたままで、中身は殆ど残っていない。
 いつ来ても、脱いだ服がそのままなんてことはない部屋だった。俺がそこから推し量るものが正しいとは限らない。限らないが、切なくなった。
「痛いとこねえか」
 急に声を掛けられ、俺はゆっくり振り返る。
 嘉瀬さんがすぐそこに立っていて、ポケットに手を突っ込んで俺を見ていた。
「ないですよ」
 預けられたのだと思う。
 選択権は、俺にある。
「みっともなかったですよ、部長」
「何が」
「病院で」
「嬉しかったろ、取り乱した俺が見られて」
「本気で言ってますか、それ? 冗談じゃないですよ、恥ずかしくて死ぬかと思いました」
「交通事故では死んでも恥ずかしくては死なねえよ、馬鹿」
 手を伸ばし、嘉瀬さんのネクタイを撫で下ろす。指先が荒れていたのか、光沢のあるシルクの表面に皮膚が引っかかり、ちりちりと微かな音がした。

 ソファの背凭れに、幾筋か細かい傷がついている。俺が柔らかい革に無意識に爪を立て、引っ掻いた痕だった。
 嘉瀬さんの頭を抱き、額を擦り付けて整髪料の微かな匂いを嗅ぐ。低い含み笑いに、腹が立つと同時に煽られた。ソファに腰掛けた嘉瀬さんの腿の上に跨った状態は、自分が主導権を握っているようにも思えるが、実際はそうではないのだと思う。譲られたのは選択権で、主導権では決してない。
「佐宗」
 俺の顎を舐めながら、嘉瀬さんは掠れた声で囁いた。
 まだ上着も着たままの嘉瀬さんの膝の上、俺は片脚に引っかかったままの下着とズボンも、頭の中も、何もかもねじれてぐしゃぐしゃだった。
「嘉瀬さん、無理です、無理……!」
 舌がもつれる。腰を抱かれ、揺らされた。
「何が無理だ」
 しわがれた嘉瀬さんの声もまた、どこか安定感を欠いていた。低くはっきりと発音されたその言葉に、それでも危うさを感じて俺は眼をしばたたく。
「佐宗、昨日言ったこと、お前ちゃんと聞いてたな?」
 俺の後頭部を大きな掌で押さえつけ、嘉瀬さんは俺を見上げた。そこに笑みはなく、あるのは真剣な何かと僅かな恐怖、それだけだ。
「佐宗」
 嘉瀬さんは仰け反った俺の喉をあま噛みし、舐め上げた。繋がった部分を指先で何度も撫でられて、慄くように身体が震え、体中の皮膚が粟立った。だらしなく声が漏れ、そんな自分に腹が立って毒づいた。
「何怒ってんだよ」
 喉の奥で笑い、嘉瀬さんは呆れたようにそう呟く。
「怒ってません」
「怒ってんじゃねぇか」
「あんたが好きです」
 大きな両手が俺の尻を掴んで揉み、本当か、と小さく低い声がした。
「こんなときに嘘ついて、どうすんです……」
「こんなときだからな」
 事故で弱っているからだと思うのなら、それこそ勘違いも甚だしい。
 セックスで盛り上がっているからだと思うのなら、俺の乏しい感受性を買いかぶりすぎだ。
 上がる呼吸に言葉が出ず、引き攣った喉から息を吐き出し、俺は懸命に口を開いた。
「好きです」
 嘉瀬さんの指に力が籠る。正直に質量を増したものが、俺の中で脈動した。
「……悔しいけど、白状します」
 低い唸り声が、嘉瀬さんの軋る歯の間から押し出された。俺の胸に押し当てられて、顔は見えない。喘ぐ合間に切れ切れに紡ぐ言葉が、後戻りするための道に積み重なり、少しずつ埋めていく。
「あんたに、惚れてます。人生最大の間違いだと思うけど……仕方ない」
「佐宗」
「すげえ、好き」

 

 突然嘉瀬さんが身体を入れ替え、目が回ったと思ったら俺はソファに押し倒されていた。
「文句は後で聞く」
 右の足首を掴まれる。開かされた脚の間、嘉瀬さんが更に身体を密着させ、心臓が一際大きく、波打つように震えるのを実感した。
「先に謝っとく。手加減出来ない。すまん」
 まるで得意先に頭を下げるときのように。
 毅然と、俺の目を見て、そして真摯に嘉瀬さんは謝罪した。多分、本当は違う何かを指して謝った。
 ネクタイを解いて襟を寛げた以外、勤務中そのままの格好の嘉瀬さんは、眩暈がするほど男前だ。佐宗、と何度も俺の名前を呼ぶ低い声。
「お前に惚れてる。理屈もプライドも恥もなんにもねえ。全部やるから、だから、お前も俺に全部くれ」
 血も肉も骨も心臓も、頭蓋の中に詰まったいかれた脳も。
 嘉瀬さんに犯されて、侵され融けてしまえばいい。
 握ったままの俺の足首に、嘉瀬さんが歯を立てた。飛び跳ねる俺の身体を押さえ込み、アキレス腱を唇で挟むように口に含んで丹念に舐める。踵から足の裏まで舌が這う。
 何が何だか分からなくなり、許しを乞い、解放を乞い、乞われるままあんたが好きだと何遍も繰り返した。
 身体の中に、心臓を突っ込まれているような気がしてならなかった。別の器官だと分かっているのに、血流に脈打つそれが押し入るたび、同じことを考える。
 全部って、心臓までくれるのか。
 まるで、契約を迫る悪魔のようだ。
 それならそれで構わない、と飛びかける意識の片隅で俺は諦めの溜息を吐く。
 目を開けたらそこには、いつもの嘉瀬さんの笑みがある。もう、いくとか駄目とか、安っぽい喘ぎ声しか出てこない。枯れた喉を引き剥がすように名前を呼んで、嘉瀬さんの肩口に爪を立てた。
 激しく突かれ、達して足の爪の先まで痺れて震えた。すっと目の前が暗くなり、死ぬかと思う。内臓の中に感じる他人の拍動に、そうではないのだとまた意識が戻る。
 べったりと濡れた腹に布地が貼りつく感覚に目を開けた。
 高級なワイシャツが汚れますよと指摘したら、嘉瀬さんはにたりと笑う。
「……汚してくれよ。興奮する」
 綺麗な顔で、わざとらしく下品に囁くあんたが憎たらしい。

 

 抵抗できない事など、最初から明白だった。常識はずれな関係が、本気になってしまうことが、飽きられることが怖くて足掻いたけれど、最初に抱かれたあの日から、俺は嘉瀬さんの手の中に落ちていた。
 神でも悪魔でも幻でも何でもない。
 嘉瀬さんという、ただの男の手の中に。

 お前が好きだ、と低い声が耳元であやすように呟き続ける。
 嘉瀬さんの少し早くなった心臓の音に、俺は目を閉じ聞き入った。