その笑顔は神か悪魔か幻か 8-1

 何か言うべきだったのかも知れない。
 そうは思うが、では何をと考えたら思いつくことなんか何もなかった。頭の中はどちらかというと空白で、嘉瀬さんの言葉をどっと思い返したのは部屋に入って少ししてからだ。
 車の中では、何を考えることもなく普通にしていられた。それなのに、今になってかっと胃の底が熱くなって、掌が汗ばんだ。
 髪をかき上げようと腕を上げた拍子に、嘉瀬さんに借りた上着の袖が目に入る。たった五センチの身長差なのに長すぎて捲った袖をじっと見つめ、俺は暫し呆けたように突っ立っていた。
 膝が笑う。
 立っていられなくなり、床にへたりこんで子供みたいに俺は泣いた。
 馬鹿みたいだ。情けない。男のくせに、みっともない。
 冷静な一部分が自分を詰る。分かっていたが、誰も見ていないから止まらなかった。

 

「佐宗さん、どうしたんですかぁ!?」
 保奈美ちゃんの大声に、他所の部署の人間まで首を伸ばしてこちらを見る。思わず自分の顔に手をやりかけて、俺は慌てて手を下ろした。
「何がって何が?」
「だって……」
 保奈美ちゃんは口を開きかけ、やっと自分の失言と声の大きさに気が付いたらしかった。尻すぼみに消えた続きを探すように視線を彷徨わせ、最後には自分のベージュのパンプスの爪先に視線を落とす。
「何でもないです! 気にしないで下さいっ」
「うん」
 苦笑した俺に済まなそうな顔を見せ、保奈美ちゃんは総務のほうへ逃げるように走って行った。
「ほっそいのにでけぇ声だな、保奈美は」
 嘉瀬さんの呆れたような声がしたが、俺の顔はパソコンの液晶画面を向いたままだ。デスクトップに幾つかのアイコンが並んでいるだけで、楽しいものは見当たらない。ただ、嘉瀬さんの顔をどうやって見ればいいのか分からないというだけだ。
 単純に、相思相愛でよかったなんて喜べないのは何故だろう。
 多分、甘い夢を見るには男同士は茨の道で、ちょっと楽しんでみようとはとても思えないくらい、俺が嘉瀬さんに本気だからなんだろう。
 起き出して顔を洗い、朝飯を食べて歯を磨き、ネクタイを締めて髪の毛をセットしたから自分の顔は何度も見た。
 冷凍庫に入っていた保冷剤を総動員したおかげで瞼の腫れこそ引いていたが、充血した白目は昨日散々泣いた事を雄弁に物語る。涙はとうに止まったはずなのに、目尻が濡れているような気がするのはもはや幻覚の域だろうか。
 悲しいわけでは勿論ない。どうしていいのか分からない、それだけだ。
「佐宗」
 嘉瀬さんが屈託なく名前を呼ぶ。
「はい」
 そりゃ、気を遣われても困るけど。
「エムワイ販売の件、これな…………佐宗」
 顔を上げたら正面から視線が合った。
 俺の真っ赤な眼に気付かないはずがない。それでも、嘉瀬さんは何も言わなかったし、眼を逸らしもしなかった。仕事の話を続けながら、いつもどおりの顔で俺を見て、いつもどおりの彼だった。

「高橋くん、どうしたのその顔」
 米内さんは素っ頓狂な声を上げて、俺を上から下まで眺め直した。
「ちょっと、寝不足で」
「遊びすぎはよくないよ、幾ら若いからってねえ」
 苦しい言い訳にそれ以上突っ込んでこようとはせず、米内さんは駐車場のほうに向かいながらこっちこっちと手招きをした。
ヨナイ企画という会社の社長、米内さんとは、前の会社の時からの付き合いだ。頼んであったPOPのデータを受け取りに行こうと出先から電話をかけたら、ついでがあるから会社まで送ってやるという。
 公共交通機関を使ったほうが早く戻れるような気もしたが、どちらかというとあまり帰りたくはない。戻り時間を引き延ばす格好のネタに、米内さんを使わせてもらおうと思った。
 半白髪の米内さんは、確かもう還暦目前のはずだった。陽に焼けた痩せた体と小柄さが相まって、田舎の子供がそのまま歳を取ったように見える。
 ヨナイ企画のロゴの入った白いワンボックスの運転席に身軽に乗り込み、彼は中から助手席のドアを開けてくれた。
「米内さん、何かあるなら俺持っていきますよ」
「タテカンの見本だよ? 抱えて歩くのなんて無理無理。いいから乗んな!」
 タテカンというのは立て看板のことで、木枠に紙や布なんかを張ったものをよく目にする。神社の催事とか、スーパーとか、オープンハウスへの道順に立っていたりとか。かつては学生運動中の大学の前にも立っていた、とは米内さんの談。
 確かに、振り返れば後部座席に寝かせてあるのは幾つものタテカンだった。
「若い子とドライブってのはいいねえ」
「何言ってるんですか、米内さん。何も出ませんよ」
「いやーエムワイさん、次の四半期はお宅に決めたって話じゃないの」
「うわ、早耳だなあ……俺だってさっき出がけに聞いたんですよ」
「あそこの専務がさあ、俺の大学の同期なのよ。週末の麻雀仲間でさあ」
 にやにやしてそう言い、米内さんは駐車場から道路に出た。車通りは多くも少なくもない、いつもどおりだ。
「高橋くんの上司のほれ、なんてったっけ、あの男前は」
「…………嘉瀬、ですか」
 米内さんが知っている俺の上司で男前と言えば一人しかいない。というか、そもそも部には部長の下には平しかいない。なのに長々と空いた間をどう思ったのか、視線が怪訝そうにこちらを向いた。
「あ、そうそうカセ部長さん。あの人と話したってさっきそいつから電話来たんだよ」
「そうですか」
 俺は硬くなった表情を読まれまいと窓の外に首を向けたが、動きが余程ぎこちなかったのか米内さんは心配そうな声を出す。
「何だ、上司とうまくいってないのか? もしかしていじめられてるとか」
「いえ、そんなことないです。すごくよくしてくれるんですけど」
「けど?」
 自分の手元をもじもじといじってしまう。馬鹿みたいだと思いながら鞄の持ち手を引っ張ったり放してみたり、我ながら結構挙動不審だった。
「……目をかけて貰う価値が自分にあるのかな、とか」
「ええ?」
 米内さんはウィンカーを上げて右車線に入ると、前を見たまま首を傾げた。
「仕事もすごいし、なんていうか、気後れするっていうか——いや、ちょっと違うんですけど」
「何だよ、若い悩みだなあ。俺くらいの歳になるとさあ、もう褒めたり優しくされたりしたら全部額面どおり受け取っちゃうもんね。後であれは世辞だったとか言ったってもう遅いってえの」
 ガハガハ笑う米内さんの目尻のカラスの足跡に、俺は何故かとても切ない気分になった。
「そんなのさ、あんまり気にしないほうがいいよ」
 米内さんは優しく言う。確か俺とそう違わない年の子供がいると言っていた。ちらりと横目で俺に微笑みかけ、また前方に視線を戻す。
「部長さんがよくしてくれるってんなら、高橋くんのいいところを部長さんはちゃんと知ってるってことなんだからさあ。そのいいところって言うのが、高橋くんには分かんなくてもだよ」
「……俺」
 何を言いかけたのか。
 前方の信号が黄色になった。ブレーキを踏んだ米内さんの車はゆっくりと減速する。
 いきなり襲った衝撃に、俺は吐き出しかけた言葉を悲鳴と一緒に飲み込んだ。

「佐宗っ!!」
 怒声に、会計カウンターに立っていた俺も、受付前の椅子に座っている人たちも一斉にそちらを向いた。
 身体にぴったりあったスーツに包まれた広い肩が忙しなく上下している。前髪が乱れて息を荒げている顔を見て、俺はあろうことかセックスの最中の嘉瀬さんを思い出し、何だかまた辛くなった。
「お前……!」
 脇見運転のおばちゃんの車が米内さんの車にもろに突っ込まなかったのは、米内さんの運動神経に縁るところが大きい。
 交差点で余所見をしたまま直進しかけ、赤信号に気付いて慌ててハンドルを左に切ったおばちゃんの車が視界の端に入った瞬間、米内さんは咄嗟にこれまた左に避けた。隣の車線に車がいなかったのが幸いして正面衝突は回避され、おばちゃんの車はヨナイ企画のロゴを削り取るようにぶつかって止まった。米内さんのワンボックスはドアが開かなくなってしまったが、幸い俺達に怪我はなかった。
「話はさっき電話で沖田さんに……」
 嘉瀬さんは外出していて社におらず、俺は沖田さんに事情を話して病院に寄った。米内さんはおばちゃんと警察を待っていたが、高橋くんは病院に行きなさいと言ってくれたのだ。
「おい、あんた」
 嘉瀬さんは俺の話をまるで聞かず、目を瞠っている会計の女の子に向き直った。
「はいっ」
 すごい形相だが、相変わらず嫌味なほど男前なのに変わりはない。女の子がちょっと頬骨の上を赤くする。
「こいつ、どっか怪我してるのか」
「部長」
「え、あの、私は受付なので」
「だから何だっ!」
 嘉瀬さんがカウンターを拳で殴った。女の子はすっかり怯えて、クリアフォルダに入った俺のカルテを慌てて繰る。日本語でないカルテの中身が読めないことに気付いたのか、彼女はおろおろと左右を見回した。
 長身で端正な容貌の嘉瀬さんが本気で怒ると凄い迫力になる。テキ屋を泣かせたというのは多分嘘じゃない。
「ええと、お薬は処方されてないですし、あの……」
「医者はどいつだ医者は! 連れて来い!!」
「部長、止めてください、何言ってんですか! すいません、気にしないで!」
 俺は咄嗟に嘉瀬さんの腕を掴んで握り締めた。嘉瀬さんが物凄い勢いで俺を振り払い、恐ろしい顔でこちらを睨む。背中に当たる待合室中の視線が痛い。
「うるせえ!!」
「うるさいのはあんたでしょうが! ここ病院なんですよっ」
「…………」
 何か言いかけ、嘉瀬さんは口を噤む。真っ青になった顔の中で、目だけが血走って赤かった。そういえば、俺も今日はこんな目じゃなかったか。
「金払ったか」
 まだ収まらない息を整えつつ、嘉瀬さんは唸るようにそう訊いてくる。
「はい」
「保険証使ってねえな」
「はい」
 勤務中だから、多分、労災になると言われた。
 嘉瀬さんは携帯を取り出し、多分部の誰かに物凄く不機嫌な低音で話しながら俺の肘を引っ張った。
 受付の女の子の心配そうな、それとも厄介払いが出来て安堵したような、何ともいえない顔が、振り返った肩越しに最後に見えた。