その笑顔は神か悪魔か幻か 7

 正直、腹が立つ。
 粘っこく糸を引く感情をもてあまし、俺は鳴らない携帯を仕舞うとグラスをカウンターに叩きつけた。
「やだぁ、嘉瀬さん。割らないでよぉ」
 店のお姉ちゃんの甲高い声に肩を竦め、俺は溜息を吐き出した。

 佐宗が恋人に別れを告げられたらしいのは、ついこの間だ。
 幾ら佐宗が半人前と言っても普段なら有り得ないミスに思わず怒鳴りつけた、そのすぐ後。沖田がいつものように寄って来て、煙草を捻り潰している俺の横に立った。
「嘉瀬さん、俺昨日、佐宗見たんですよ」
「……あ? どこで」
「可愛い女の子と二人だったんですけどね」
 今揉み消した煙草を灰皿に放り込み、手の中の箱から一本取り出した。沖田は俺の手元を非難がましく見つめたが、咎めない。
「あれはデートじゃないですねえ。多分、別れ話だと思いますよ」
「だから?」
「だから、」
 沖田はいつもの飄々とした態度を崩さずに、それでも少しだけ笑ってみせた。
「上の空だったんじゃないですか、きっと」
「——女に振られたってな、それは仕事とは無関係だろうが。少しくらい呆けてたって見逃すけどよ、ありゃねえだろう」
「まあ、それはそうですけどね。佐宗らしくないから、余程痛手だったのかと思っただけです」
「分かった。覚えとく」
「じゃあ」
 二年前に禁煙した沖田は踵を返し、喫煙コーナーのガラスの仕切りから出て行った。俺の吐き出した煙がもうもうと立ち込めて、ガラスの囲いのなかはいやに煙たい。
 佐宗が仕事に手を抜くのを見たことがない。だから、突然のやる気のなさに腹が立った。やって出来ないのは仕方ないにせよ、人の話を聞かずに適当にやるのが一番どうしようもない。だが、沖田の話を聞いた今は、また違う苛立ちも煙のように胸の中で渦を巻く。俺は備え付けの灰皿を軽く蹴飛ばし、長いままの煙草をその中に叩きつけるように投げ捨てた。
 その日、佐宗は泣きそうな顔をして、抱いてくれと呟いた。出来の悪い映画か小説か何かのような安っぽいその台詞は、少しも可笑しくなかったし、寧ろ胸が詰まるような気さえした。
 抱いている最中に泣き出したのも知っている。声も出さず、しゃくり上げる事もなく、ただ流れていた佐宗の涙。
 沖田が見ていたこと、振られたんじゃないかと言っていたということを話したら否定はなかった。だから事実だったんだろう。
 それだけその子を好きだったということなのか。それについて問い質しはしなかったし、佐宗も何も言いはしなかった。
 佐宗の涙に濡れた頬を拭いながら、腹の底で何かが湧き上がるのを強烈に感じて酷く焦った。
 事の後に、自然消滅してたんです、と佐宗は小さく呟いたが、それは今更どっちでもいい。胃壁にまとわりつくような不快な感情が俺の口を重くした。
 それは、多分嫉妬というものだ。

「お待たせしました! 串焼き盛り合わせと厚焼き玉子です」
 耳に大量のピアスをぶら下げた金髪の店員が、にっこり笑って皿を置く。佐宗はどうも、と微かな笑みを金髪に向けたが、俺のほうに戻った顔には笑みの欠片も残っていない。
 こいつは基本的に仏頂面だが、だからと言って感情に乏しいわけではない。だが、この無表情は明らかに感情を殺した顔だ。
 居酒屋は適度に混んでいて、料理の匂いと人の気配が濃厚だ。田舎臭い和風の居酒屋だが、飯が美味いからたまに来る。教えてくれたのは定年退職した当時の役員で、酒とゴルフが死ぬ程好きな、豪快な人だった。
 佐宗を連れてきたのは初めてだ。佐宗は辺りを見回し、目の前の箸に眼を落とした。
「いただきます」
 そう言う声は、酷く冷たい。ような気がする。
 自分は嫌われているわけではないと思っていたのだが、今はそんなことにすら懐疑的にならざるを得ない。
 あれ以来丸々二週間、俺は佐宗に避けられ続けている。被害妄想とは思えないから、多分現実にそうなのだと思う。
 会社では今までと変わりないが、帰りはあからさまに俺と時間をずらして退社しやがる。勤務時間が終われば電話もすぐに留守電になり、折り返し掛かって来ることもない。部屋まで押しかけるという手もあるが、そこまでするのもどうかと思ってやめておいた。
 今日は同席していた打ち合わせが延びたのをいいことに、首根っこを掴まえてようやくここまで連れてきたのだ。
「あ、美味いですね」
 佐宗が厚焼き玉子を口にして小さく呟く。
「佐宗、あのな」
「母が、玉子焼きに砂糖入れるんですよ。あれは勘弁して欲しい」
「佐宗」
「部長は砂糖入り大丈夫ですか? 寿司の玉子も俺」
「佐宗!」
 イラついて思わず声が尖ったが、佐宗は口を噤み、何でもないような顔でこちらを向いた。
「何ですか」
「俺は砂糖の入った玉子焼きは好きじゃねえよ。だから玉子焼きの話はもういい、分かったか?」
「分かりました、部長」
 部長部長と、こいつはここ最近、俺の名前を口にしない。
「何かあるなら面と向かって言えばいい」
 佐宗は首を僅かに傾げ、俺を見た。
「何かって何です? ここの払いは割勘でいいんですか、とか?」
「…………お前なぁ」
「エムワイ販売の件なら報告書上げましたよ。未決ボックスにハードコピーと、あとメールで」
「高橋、お前それわざとだったら怒るぞ、本気で」
 思わず佐宗の苗字が口から零れ落ち、佐宗が肩を強張らせた。どうも俺は腹が立つとこいつを苗字で呼びたくなるらしい。
「…………」
「お前らしくねぇな、だんまりかよ」
「——俺だって言葉が出てこない時くらいあるんですよ」
「出てるじゃねえか」
「そういうの揚げ足取りって言うんです」
「何なんだよ、一体。女にふられたからってお前な」
「は?」
「ショックなのは分からんでもねえぞ。だからって何で俺を避ける必要があるんだよ? 俺に文句があるなら面と向かって言やいいじゃねえか」
「部長、俺は」
 佐宗が言いかけて口を噤む。
 今風の髪型、僅かに目尻が吊り上った二重、ワイシャツの襟すれすれにある首の黒子、俺より五センチ低い細身の身体。
 こっちが泣きそうだっていうんだこの半人前の馬鹿野郎。
「飽きたならはっきりそう言えよ」
 口に出した途端、顔に濡れた何かがぶち当たって仰天した。
「すいません、新しいおしぼり下さい」
 低い声で店員を呼ぶ佐宗は完璧な無表情で、俺は取り皿に墜落したおしぼりを呆然と眺めているばかり。さっきのひよこ色の頭の店員がおしぼりを二つ持ってやってきて、俺の顔を見ると困った子犬のような顔をした。

 用を足して戻ってくると、佐宗の姿が見えなかった。
「お客さん」
 カウンターに戻りかけていた店員が俺のほうに寄ってきた。佐宗と同じくらいの年頃の目つきの鋭い店員は両手に空いた皿を持ったまま、どうでもよさそうに語を継いだ。
「お連れさん、帰りましたよ」
「……いつ?」
「ついさっき。お会計済みです」
「ああ——そうですか」
「まだその辺にいるんじゃないすか。服部が躍起になって話しかけて引き止めてたんで」
「服部?」
 俺が上着に腕を通しながら訊き返すと、店員は肩を竦める。
「うちのひよこ頭のバイトです」
 店員の台詞を背中で聞いて、引き戸を開けて外に出た。降り始めた霧雨が鬱陶しい。まだ終電には間があるが、佐宗が電車に乗るとは思えない。俺が部屋まで押しかけてこないのを知っていて、だからあいつは一刻も早くタクシーに乗ろうとするに違いない。
 焦っても仕方がない、分かってはいるが早足になった。俺は一体何に追い立てられているのだろう。
 客引きが寄ってくるのを無言で押し退け、腕に絡んでくる女の指を思い切り引き剥がす。投げつけられたヒステリックな罵声を無視して角を曲がった。
 中国人にぶつかり、黒服を避け、地べたに座り込む少年を跨ぎ越し、その先に佐宗の背中を見つけて思わず歯噛みした。タクシーに乗り込みかけた腕を引っ掴んで引きずり出す。
「な——ちょ、何すんですか、嘉瀬さん!」
「ちょっとあんた……」
 驚いて振り返った運転手が俺の顔を見て声を上げた。
「俺の部下だ、邪魔すんな!!」
 佐宗が何か喚いているが、不思議と耳に入らない。酔漢の奇行と思われているのだろう、通行人はこんなことは日常茶飯事なのだと言いたげに、興味なさ気に俺から眼を逸らした。まるで、ここ二週間の佐宗のように、素っ気無く。

 霧雨は徐々に本格的な降りに移行しようとしているらしく、雨粒が大きくなってきた。
 佐宗の腕を握ったまま、俺はただ、真っ直ぐ進む。
 行く当てもなければ、こうしようという明確な意志もなかった。歩きながら、ネオンの合間を縫って進む。
 今日は黄色がいい。玉子焼きも、ひよこ頭も黄色のうちだ。だから黄色にすればいい。
 黄色のネオンを追って進む。パン屑の目印を追うように、俺は半ば意地になって黄色を追った。佐宗はいつのまにか黙り込んでただ足を動かしてついてくる。
 黄色、黄色。黄色が途切れたのは営業休止中のキャバレーの前だった。ヤクザの抗争があったとか、ニュースで見たような気がしないでもない。
「放してください」
 佐宗が低い声を出し、鞄を持った左手で、俺の指を剥がしにかかった。
「勝手に帰んなよ、どういう料簡だお前」
「早く帰りたいって言ったでしょうが。無理矢理引っ張ってきて、仕事じゃないんだからあんたにそんな権利ないでしょう、部長」
「名前呼べよ」
「は?」
「部長部長って何の真似だそりゃ」
「部長を部長って呼んで何が悪いんです」
 佐宗のスーツの肩が濡れている。さっきまでは水を弾いていたサマーウールが、限界に達したに違いない。俺もサマーウールのような気分だ。
「二週間だぞ二週間! 大人しくしてりゃいつまでも人の事避けやがって、何なんだお前は!?」
「避けてません」
「避けてるだろうが。電話にも出ねえ、帰りはさっさと逃げやがって——」
「何言ってんです? 別に付き合ってるわけでもあるまいし」
「お前こそ何が言いたい!」
 雨の降りに比例するかのように声の音量が上がっていくのは自覚しているが、コントロールは出来なかった。
「付き合う? 付き合ってくれって言やいいのか? それでどうする、何が変わる?」
「部長」
 段々と痴話喧嘩の様相を呈してきた言い合いに、どこか滑稽さを感じる。女なら、抱き締めて囁いてやれば心がほぐれる。しかし佐宗にその手は通用しない。
 キャバレーが閉まっているせいだろう、人通りは殆どない。それでもたまに通りかかる人間が、雨の上、更に喧嘩にまでは係わりたくないという顔をして、背中を向けて去っていく。
「あんただって俺だけじゃないでしょう」
「俺だけ見ろって言ったろう」
「聞きました。でもそれは俺がどうするかで、あんたがどうするかじゃない」
「惚れろって何べん言わせるんだ、俺は散々」
「惚れたら何もかも上手く行くのかよ」
「そういうことじゃねぇだろうが。別れた彼女が忘れられねえのか。今もその子に惚れてんのか。だったらどうして嫌だって先に言わねぇんだ。どうして俺を受け容れた」
 佐宗が眉を顰め、俺を睨んだ。
「あの時、抱いてる間中お前は泣いてた。泣くほどその子が好きだって——」
「違う!!」
 佐宗が怒鳴り返し、俺は思わず口を閉じた。佐宗の睫毛が黒く光り、滲み出した涙が頬を伝った。雨ではない、間違いない。
 佐宗は気付いていないのだろう、雨粒と一緒に流れる涙を拭う素振りも見せず、拳を握り締めて仁王立ちになっている。
「美穂と別れたからじゃない」
 佐宗は言葉が見つからないのか宙に視線を彷徨わせ、数秒後、きつく俺を睨みつけた。
「馬鹿みたいにあんたの事ばっかり考えて泣けてきたんだよ。俺が惚れて、それであんたが満足したら俺は一体どうしたらいいんです」
「お前」
 俺の頭は死に物狂いで回転した。佐宗の言葉を理解しようと、感情すら取り残される速度で回る。
「もう、わけわかんねえ」
 佐宗の口調から丁寧語が剥がれ落ち、晒された何かが雨に濡れて冷たいと泣いた。
 指の力がいつの間にか緩んだらしい。佐宗は腕を振り払い、俺を見上げていつもの不機嫌な顔を僅かにしかめる。いつもどおりの表情なのに、今にも崩れそうなのはこいつの中の一体何だというのだろう。
「どうしたらあんたと一番長く居られるか考えたら」
 口から手を突っ込まれ、胃を鷲掴まれたような気さえした。
「——そしたら」
「佐宗」
 雨脚が激しくなって、佐宗の掠れた声は水溜りに溶けて地べたに吸い込まれた。
「今更失くしましたじゃ済まないんだよ、俺……」
 永遠なんてない。
 この歳になればそんなことは自明であって、口に出すことなんか出来やしない。
 気の利いた女との恋愛ごっこでなら幾らでも吐けるそんな嘘も、佐宗には絶対に言えなかったし言う気もなかった。
 いつか冷める日が来るのか、そうでないのか。
 それがもしも天の采配だというのなら、神でも悪魔でも親父の幽霊でもなんでもいい、俺と佐宗に微笑んでくれ。
 ドラマなら路上で抱き締めキスのひとつもかますのだろう。
 そういうわけにはいかないと踏み止まるくらいには、俺は世間体を気にするサラリーマンだ。
 佐宗の二の腕を掴んで促すと、佐宗は力なく項垂れて歩き出した。今、何を言っても佐宗は真剣にはとらないだろう。だったら、今口に出せる事はなにもない。
「佐宗」
 耳元で囁くと、佐宗の肩が僅かに震えた。
「ずぶ濡れだ。寄って行け」
 佐宗は、拒否も許容もしなかった。
 雨が佐宗の頬を濡らす。俺は空車のタクシーを認めて咄嗟に手を上げた。
 目の前に止まった黄色い車体に、可笑しくもないのに笑みが漏れた。

 タクシーの運転手は、濡れた俺達を見て一瞬嫌そうな顔をした。当然だ、座席が濡れる。だが、乗らなければ帰れないし、乗せたくなければ空車にしておかなければいい。
 佐宗はすっかり大人しくなり、黙って前を見つめていた。俺が自宅の住所を告げても文句も言わず、ただ横目でこちらを一瞥しただけだ。
 むっつりと黙り込んでいる佐宗と俺を、運転手がルームミラー越しに見る。多分、叱られた部下とその上司、とでも思っているのだろう。あながち間違っているわけでもないが、どちらかというと立場は逆のような気がしないでもない。
 多めに払い、釣銭を受け取らずにそのまま降りた。運転手がシートを湿らせたことへの詫びと思うならそれでもいい。本当のところ、早く気詰まりな空間から逃げ出したかったに過ぎないが。
「佐宗」
「……」
 こんな時に限って、エレベーターはなかなか来ない。
「着替えたら車で送ってやる」
「……」
「取って食うつもりじゃねえんだっての。そんな顔すんな馬鹿」
 実際、こんな状況で襲えば更に混乱と誤解を招くに違いない。佐宗は相変わらずの能面面でああそうですか、とどうでもよさそうに吐き捨てて、エレベーターの階数ボタンを睨んでいる。そんなに睨んだら、ボタンも俺も穴が開く。
 部屋に入って灯りを点ける。スーツの上下を脱ぐよう命令し、受け取って風呂場に追い立てた。佐宗のスーツをハンガーに吊るし、俺は溜息を吐いてソファに座った。
 今はただ、話をしたかった。
 身体の関係から始めたのは、多分間違いだったのだろう。今となっては遅きに失したと笑うしかない。ただ、決して軽い気持ちで始めた事ではないのだと、今頃説明しても多分佐宗は信じないに違いないのだ。
 永続性を保証できるものがあるのなら、俺だって欲しいんだ。
 自分だけが不安なのだと、佐宗がそう思い込んだのは何故なのか、俺にはよくわからない。俺が多くの女と付き合っていたからか。だから俺に誠実さがないと思うのか。
 気がついたら、佐宗が目の前に立っていた。Tシャツと靴下は脱いだのだろう。下着一枚の姿は、何となく哀れっぽい。
「何やってんだお前。さっさとシャワー浴びて来い。服は俺の貸してやるから」
「あんたのじゃ何もかもでかいでしょうが」
「帰るだけなんだからいいじゃねぇか、文句言うな。どうせ車なんだから誰も見てねえよ」
「嘉瀬さん、俺、あんたが好きです」
 脈絡のない台詞に見上げると、佐宗は強張った顔のまま、僅かに首を傾けた。
 怒ったようないつもの物言いの上、常にない無表情。喜ぶべき台詞なのだろうが、どういうわけか嬉しくない。
「なあ」
 ソファに身体を沈め、突っ立っている佐宗の顔をしげしげと見る。こいつは結構男前だ。社内の女の子が、仏頂面が玉に瑕だがなかなかいい、とよく言っている。
「お前と寝てから俺には他に誰もいねえよ、佐宗」
 佐宗が僅かに眉を寄せ、いぶかしむような顔をした。
「俺が手に入れたら飽きるタイプだって、お前は思ってんのか? それとも、今までに付き合った女の数を見てるから、自分もその他大勢だと思ってんのか? それとも何だ、俺の人格そのものに信用が置けねえのか」
 全部です、と言われるかと思ったが、予想に反して毒舌は息を潜めたままだった。
「俺だって怖い」
 濡れたワイシャツが腕に張り付いて気持ちが悪い。佐宗の唇は寒いからか色が微かに抜けている。
「お前が電話に出ない二週間、俺がどんな気持ちでいたか分かってんのか、佐宗。お前が自棄になって俺に抱かれるくらいその女を好きだったのかと思ったときに、どれくらい嫉妬したかは? その女に拍手喝采して握手して抱き締めたいくらい感謝したのもお前、知らねぇだろ」
 もっと早く言うべきだった、とまた思う。
 惚れてくれと、女に言ったことはない。懇願してまで欲しいと思ったことはない。
 お前だけなのだ、と。俺は言っているつもりだったが通じていなかったのだと溜息を吐く。
「俺に背中向けやがって、お前の平らなケツを蹴飛ばして崖から蹴り落としてやりたいくらいむかついてんだ、俺は。そのくらいお前に惚れてて、嫌われると思うと夜も眠れねえ。一旦裸に剥いたらみっともなくがっついてそれでも足りねえ。幾ら惚れてくれって口に出してもまだ不安で泣きそうなんだよ、この野郎」
 俺が泣いた姿を想像したのか、佐宗の唇が僅かに曲がる。
 佐宗は何も言わず、突然踵を返して風呂場に向かった。
「ああ、くそ」
 俺は両手で顔を覆ってソファに転がった。

 多分、俺は濡れたワイシャツを脱がないまま佐宗を車に乗せて送り届け、佐宗はありがとうございました、と言って笑いもせずにアパートの中へ消えるだろう。
 シャワーの水音が微かに聞こえる。
 明日は金曜、何があろうと逃がさない、と心に決めた。絶対ただじゃ帰さねぇぞ。
 独り呟き、俺は寝転がったままソファを蹴飛ばした。
 ぐちゃぐちゃに犯して、泣かせて、俺に惚れてるって何べんだって言わせてやる。

 立ち上がり、溜息を吐いて俺は寝室に足を向けた。背丈が違う佐宗に一体何を貸してやるべきか。
 再度溜息を吐きながら。
 悔しい事に滲んだ笑いに、天を仰いで一瞬、眼を閉じた。