その笑顔は神か悪魔か幻か 6

 何だか妙な気分だった。
 照明をすべて落とした部屋の中に、光源はない。薄いカーテンを透かして射しこむ月光が微かに照らす嘉瀬さんの肩の線、髪の毛の細い筋。
 考えてみれば、今まで何度か嘉瀬さんと寝たけれど、いつも明かりが点いていた。煌々とではないにしても、少なくとも間接照明が。
「佐宗」
 低い、しゃがれた声が俺を呼ぶ。伸ばされた手が腰に回り、大きな両手に尻を掴まれて更に下半身が密着した。
「ちゃんと動け」
「——こんなときまで命令しないでください」
 無理矢理口を開いて憎まれ口を叩いてみたが、今の俺にはそれすら辛い。嘉瀬さんの首に回した腕に力がこもる。
 膝の上に乗せられて、まるで親に抱かれる子供のような体勢だ。しかし実際はそれとは対極に位置する行為の真っ最中で、おまけに俺は、嘉瀬さんには見せられないが涙目だった。
 嘉瀬さんの固い腹に自身を擦りつけ、内部の嘉瀬さんに弱い部分を擦り付ける。飼い主の足に盛る犬のようだが、悪気も照れも他意もなく、本能だけに突き動かされる犬の無心と俺との間には天と地ほどの差があった。俺は本当にどうしようもない、そんなことだけが頭を占めた。

「そうか」
「うん」
 短期間で、びっくりするほど綺麗になった。
 目の前に座る女性が眩しい。俺は本気でそう思い、喉元までせり上がった不規則な心音を飲み下し、テーブルの上のコーヒーカップを凝視した。
 忙しさにかまけて最近は思い出していなかったが、俺には実は彼女がいる。正確にはいた、といっていいのだが、はっきり別れの言葉を告げても告げられてもいない関係は、いつ終わったのか定かでない。もっとも、今この瞬間に終わっていることだけは、紛れもない事実だが。
「なんか、ちゃんと別れようとか話してなかったよね」
「……俺が連絡しなきゃいけなかったよな。ごめん」
「いいよ。佐宗だけが悪いなんて思ってもいないし。私のほうが謝ること、多いんじゃないかなあ」
 美穂は微笑み、クリームが山盛りのアイスココアを一口飲んだ。いつも思っていたことだが、どうして女の子というのはこうもクリームが好きなのだろう。
 俺が前の会社の同期である美穂と付き合い始めたのは、二年ほど前だ。何が原因だったのか今となっては分からないが、擦れ違いが積み重なって、自然消滅したのが多分半年前。これといったけじめもなく何となく終わった関係に未練があったわけじゃない。かと言って、別に嫌いになったわけじゃない、というのも本心だった。
「じゃあ、あっちで結婚するの?」
「うん……多分ね。彼の任期は二年だけど、その間に別れなければ」
 新しい恋人は、外資系の企業に勤務しているのだと美穂は言った。海外赴任が決まった彼についていくのだという彼女は、とても綺麗で幸せそうだ。まるで俺と付き合い始めた頃のように。
「おめでとう」
「——佐宗にそう言ってもらえたら安心した。裏切ったみたいで気になってたの」
 にっこり笑う美穂の顔が、綻んだ花の蕾のように可憐に見える。美穂の率直さが好きだった。明るくて、海外ドラマが好きで、チョコレートが好きな美穂。セックスの間中、楽しそうに笑っていた美穂。俺はコーヒーの水面に眼を落とし、もう一度、おめでとう、と呟いた。

「ふざけんな高橋、何だこれ!!」
 嘉瀬さんの怒声がフロア中に響き渡り、保奈美ちゃんが椅子から飛び上がってごめんなさいっと声を上げた。怒鳴られている“高橋”が自分ではなくて俺だと気付くとほっとしたような気遣うような、何ともいえない顔をする。
「お前俺の話聞いてたのか、ええ!? 誰がこんなどんぶり勘定しろっつった!!」
「申し訳ありません」
 いつになく素直に頭を下げた俺に次の台詞を飲み込んで、嘉瀬さんが舌打ちする。
 嘉瀬さんのお怒りはごもっともだ。提出を命じられていた予算案は、一円の果てまで細かく計算しろと嘉瀬さんからしつこく指示があったものだった。にも関わらず俺の出した数字はあくまで概算、鬼部長が怒らないわけがない。
 机を蹴っ飛ばした嘉瀬さんは、こういうときに私情を挟むことは絶対にない。幾ら普段は俺に惚れたとか腫れたとか言っていても、それとこれとは完全に切り離す。だから今も端正な顔を歪めて俺を睨みつけ、デスクの天板を苛立たしげにペンで叩いた。
「きっちり直して提出しろ。今日中にだ」
「……分かりました」
 頭を下げ、乱暴に投げつけられた書類の束を受け止めて背を向ける。嘉瀬さんが、低い声で俺を呼び止めた。
「高橋」
「はい?」
「出来ねえなら出来ねえって言え。またそんなもん持ってきやがったらこの仕事担当外すぞ、分かったか」
「はい」
 嘉瀬さんは俺の返事を待たずに立ち上がり、再度机を蹴っ飛ばした。喫煙ルームにでも行くのか、大股にフロアを横切っていく。里中さんが詰めていた息を吐き、保奈美ちゃんが黙って俺の机の上にチョコレートを一粒、置いていく。美穂の大好きだった苺味のチョコレートのピンクの包装紙に、俺はそっと溜息を吐いた。

「——おい」
 五分前に渡した数字を検証し終えたのか、嘉瀬さんが口を開いた。誰もいないフロアにその声がこだますように大きく聞こえ、放心していた俺はぼんやりと嘉瀬さんに眼を向けた。
「帰っていいぞ」
 手元の書類をクリアファイルに挟みながら、顔を上げずに嘉瀬さんは言う。怒っているのか、呆れているのか。どちらでもいいが、ともかく数字はこれでいいということだ。返事をしようと口を開いたが、長時間黙っていたせいか、声が喉に絡んでひっかかる。嘉瀬さんは咳払いした俺に眼を向けて形のいい眉を少し顰め、また手元に視線を落とした。
「すみませんでした、部長」
 俺は今日はこれしか言っていない。
「分かった、もういい。調子の悪いのは仕方ねぇが、仕事に持ち込むな。半端にやるくらいなら休め、馬鹿」
 何があったか知らないが、と小さく付け足し、嘉瀬さんは煙草を銜えて火をつけた。勿論オフィスは禁煙だが、誰もいないこの時間、嘉瀬さんがそれを気にするとは思えない。
「さっさと帰って寝ろ」
 嘉瀬さんは、それだけ言ってパソコンをシャットダウンし始めた。あれだけ俺に構っておいて、こういうときは距離を置く。それは嘉瀬さんなりの気の遣い方で、決して突き放されているわけではないのはよく分かった。
「嘉瀬さん」
「ああ?」
 乱暴にネクタイを緩め、嘉瀬さんはこちらに眼を向ける。
 ショックだったのは、美穂が結婚するってことがじゃない。
「俺がショックだったのは」
「ショック?」
 思わず声に出た内心に、嘉瀬さんが眉を上げた。空調の切れたフロアは蒸し暑く、額にうっすら汗が滲む。書類を置いて俺を見つめ、嘉瀬さんは、俺を呼んだ。
「佐宗?」
 その声に、喉が狭まる。
「何だ。どうした」
 俺は、詰まる喉から無理矢理声を絞り出した。

 嘉瀬さんの首にしがみつき、歯を食いしばって何かを堪える。それが涙なのか声なのか何なのか、自分自身にも分からない。動きを止めて息を吐き、嘉瀬さんの耳元に口を寄せた。
「——嘉瀬さん」
 嘉瀬さんは、黙って俺を部屋に連れて帰った。道々何かあったのかと訊かれたが、一切返事をしない俺に嘉瀬さんはそのうち何も訊かなくなった。無言で俺を風呂場に押し込み、出てきた俺と入れ違いにシャワーを使う。珍しく照明をすべて落とし、俺を膝の上に抱え上げてちゃんと動けと言ったきり、嘉瀬さんも無言だった。
 風邪を引いた俺を見舞ってくれた嘉瀬さんがらしくない台詞を吐いたのはついこの間。あれから嘉瀬さんはずっと多忙で、会社以外で会うのもあれ以来なら、セックスするのは言わずもがなだった。
「下ろしてください」
 突然の台詞に困惑する風もなく、嘉瀬さんは俺を横たえ覆い被さると、唇が触れそうな間近で囁いた。
「もう顔見られてもいいのか? 泣いてねぇのか」
「…………」
「お前昨日、同じ店に沖田が居たの気付いてなかったんだろ」
「沖田さんが?」
「話は聞こえなかったっつってたけどな。別々に帰ってったし、佐宗は振られたんじゃないかって、俺がお前を怒鳴った後耳打ちしてった」
「沖田さんって、案外親切ですね」
「お前がそのくらい呆けてたんだろうが、馬鹿」
 嘉瀬さんはそう言いながら、俺の首筋に口付けた。どちらかというと優しいキスに、暗がりの中俺は何度も瞬きする。
「嫌です」
「あ?」
「止めてください、そういうの」
 身体を起こした嘉瀬さんの整った顔。美穂の笑った顔に眩しさを感じながら、嘉瀬さんの顔ばかり浮かんできたのは何故だろう。
「女みたいに優しくされたくなんかない。慰められたいわけじゃない。あんたにそんなこと望んでないし、あんただって、そんなの違うと思うでしょう」
「佐宗」
 俺は嘉瀬さんの腕を掴み、力の限り握り締めた。
「嘉瀬さん、俺に遠慮してどうすんです。俺が女に振られてへこんでるの見てイラついてんでしょう。酷くしてやりたいって思ってるんじゃないですか?」
 挑発に、嘉瀬さんは何とも言えない顔をした。この人はいつもこうやって、俺の言葉の裏側を読み、言いたいことを正確に酌む。
「佐宗」
「だから」
「何だそりゃ、挑発か? そんなことしなくていい」
「何がですか。俺は」
「佐宗、もういい。分かった」
 嘉瀬さんは、いきなり俺の両手を一纏めにして押さえつけ、左手で顎を掴んで持ち上げた。
「お前がそうして欲しいってんなら遠慮しねえで犯してやるよ。後悔しても手遅れだ」
「放っといてください、余計なお世話です」
 影になった嘉瀬さんの顔が一瞬強張り、そして徐々に、信じられないくらい優しい笑みが浮かんだ。

 嘉瀬さんは、俺が美穂にはさせたこともないような体勢を強要し、卑猥な言葉を甘く囁き、俺から懇願を引き摺り出して屈服させた。傲慢で荒々しい暴君は、俺に惚れろ俺だけ見ろと、声に出さずに、声に出して、あらゆる手段で訴える。
 あんたなんかの、思うとおりになるものか。
 何度も脳裏に浮かぶ言葉を命綱のように握り締め、つまらない意地のためだけに俺はその呪文を胸の内で繰り返す。
 ショックだったのは、美穂が結婚することではない。
 嫌いになったわけではない恋人を前にして、彼女の輝く笑顔を前にして、考えたのは嘉瀬さんのことだった。
 俺を好きになってくれ、愛してくれと、美穂に請うたことは一度もない。好きでいてくれるのが当たり前だと思っていた。俺が好きなら彼女もそう、それで世界は薔薇色だと。
 嘉瀬さんの言葉が俺には痛い。口調や態度に隠された真剣さが怖かった。俺が自分に惚れていると知っているのに、それでも恥も外聞も見栄もなく、この人は俺の愛を請う。
 愛してくれと訴える、嘉瀬さんのそれが一過性の熱病だったとしたら、俺は一体どうしたらいいのだろう。その気になって受け容れて、釣った魚に嘉瀬さんの真剣さが万が一、鈍ったら。
 美穂の幸せを何の迷いも嫉妬もなく祝えるくらい悪魔に魂を売り渡してしまった今、こんなにもあんたに捕らわれて、今更取り上げられたら世界が歪む。
「嘉瀬さ…………、やめ」
「音を上げるには早えぞ、佐宗」
「もう嫌です、勘弁して下さ——」
「嘘吐け」
 嘉瀬さんは俺の瞳を覗き込み、汗で湿った額に張り付く俺の前髪をかき上げた。
「……甘ったるく蕩けた面して何言ってやがる。今更俺が欲しくないなんて言わせねえぞ」

 美穂が旅立つのはいつだったか。
 大事な事を言い忘れたと、頭の隅で俺は思う。
 謝らなきゃいけないのは俺のほうだ。何を、と言われても分からないけど。幸せになってくれと心からそう思う。
 誰よりも、そう願う。