その笑顔は神か悪魔か幻か 13

「おお、何というか、壮観……ですね?」
「何で疑問形なんだ」
 嘉瀬さんはそう言って眉を吊り上げ、銜えた煙草の灰をシンクのなかにゆっくり落とした。
 エプロンの新妻が料理を作って待っている。男の夢だ。
 だが、俺よりでかい男が腰から下の花柄エプロン——ばあちゃんが持ってるやつに似ている——をして、煙草と菜箸を持って待っているというのは悪夢に近い。
「すっげえ素敵」
「その形相でいう台詞なのか、それは」
 勿論、このでかい色男は俺の妻ではないし、ここは俺の家ではないが。
「でもでも、これって滅多に見られないすごい希少な物体だと思いません!? 写真撮っちゃお! 佐宗さん、メールで送ってほしいですか?」
「俺は物体じゃねえぞ、保奈美」
「こんな物体の写真を俺の携帯に送るのだけは止めてくれ、保奈美ちゃん」
「あ、佐宗さんったら正直」
「だから物体じゃねえってのに。お前ら明日はサービス残業五時間決定だな」
「嫌です。明日は金曜ですよ。デートです」
 保奈美ちゃんはそう言いながら、嘉瀬さんの写真を何枚も撮っている。携帯カメラ特有の間抜けな電子音が何度も鳴る。
「大体、何ですかそのエプロンは。あんたの趣味ですか。怖いですね」
「勝手に決めんな。俺のじゃねえ。母親のだ」
 嘉瀬さんは一瞬俺に目をくれたが、すぐに何もなかったような顔になる。
「いつか使うかもなんつって、随分前に来た時に置いてったんだな。そんなこと言って全然来ねぇから忘れてんだろ、本人も。この間棚の掃除したら出てきた」
「だからって使う辺りが部長ですよねえ」
「欲しかったらやるぞ、保奈美。どうだ、新婚家庭に花柄エプロン」
「要りません。ていうか、要りません」
「二回言うな」

 今日は、保奈美ちゃんの結婚祝いの会である。
 と言っても彼女が結婚するのは数ヶ月先のことだが、先日嘉瀬さんに報告した際に祝いは何がいいかと訊かれ『嘉瀬さんの自宅で、嘉瀬さんの手料理が食べたい』と答えたらしい。何とも保奈美ちゃんらしい発言だ。
「ということで、佐宗さんも来てください」
 煙草は吸わないのに喫煙コーナーで仁王立ちになって、保奈美ちゃんは宣言した。
 ガラスの仕切りの中は、嘉瀬さんと俺、そして清水さんの吐き出した煙でいっぱいである。清水さんが保奈美ちゃんにかからないように煙を天井に向けて吐いたが、あまり意味はない。
「えー、俺も食いたいなあ、部長の手料理」
「来ればいいだろ。しかし、お前には新妻がいるだろうが」
 嘉瀬さんは銜えた煙草と、組んだ足の先をゆっくりと揺らす。清水さんは新婚だ。正確には一年は過ぎたようだが、大して変わらないだろう。だらしなく顔を緩ませてまあ、とか何とか呟く清水さんのふくらはぎを、嘉瀬さんは容赦なく蹴飛ばした。
「痛っ! いや、でもお邪魔したいのは山々なんですけど、俺その日は無理なんですよねえ。日にち変えない? 保奈美ちゃん」
「来るな来るな、ラブラブ新婚さんは」
「でも、何で俺まで?」
 俺が訊くと、保奈美ちゃんは眉を寄せた。
「だって佐宗さん、私一応嫁入り前なんですよ! 一人で男性のお部屋になんか行けませんから! 間違いがあったらどうするんですかっ」
「あー」
「あー」
「あー」
「ちょっと、みなさん、何ですかその気の抜けた声はっ!?」
「いや、別に何でも……ねぇ部長? 佐宗、頑張れよ」
「んー、まあでも言われてみりゃそうか……って何を頑張るんだ、佐宗は?」
「俺は保護者ですか? 保奈美ちゃんいっそご両親連れていったらどうなの」
「嫌です。母が部長に惚れたら困ります。熟年離婚断固反対」
「失礼な。俺は人妻には手を出さん」
「母は私より近眼ですから。おまけに老眼も入ってますから」
「食わせねえぞ保奈美、コラ」
 そんなわけで、結局俺は保奈美ちゃんに強制的に頷かされ、嘉瀬さん宅への同行を約束させられた。それでこうして嘉瀬さんの花柄エプロンに溜息を吐いているというわけである。
「佐宗」
 嘉瀬さんが俺を呼ぶ。
「はい」
 嘉瀬さんは準備のために俺達より早く帰宅した。家に帰ってからシャワーを浴びて着替えたらしい。髪はいつものようにはセットされておらず、乾かして軽く整髪料をつけただけ。普段はワイシャツとネクタイがあるべきところには何もない。浅いVネックの、薄手で柔らかそうな黒い綿ニットとジーンズ。喉元と鎖骨が丸見えになっている。腰から下の花柄エプロンさえ無視すれば、本当にいい男だ。
「塩取ってくれ」
「塩? これですか」
「違う、味塩じゃなくて岩塩。そこの——いや違う、右隣の瓶。ああ、それだ」
 嘉瀬さんに塩の瓶を差し出した。微かに触れた指先の感触を意識しないよう、俺は全神経をエプロンに集中する。オレンジの薔薇、薄いグレーの薔薇。ライラック色の薔薇。うまくいきそうだ。
「これ、運びましょうか」
「ん? ああ、頼む」
 嘉瀬さんの前のカウンターから皿を取り、俺はダイニングテーブルで待つ保奈美ちゃんの前に戻った。
「わあ、すごいですねえ。部長、男性にしておくのは惜しいですねえ」
「惜しいのか」
 保奈美ちゃんのよく分からない褒め言葉に嘉瀬さんが苦笑する。
 独身男の家に何故そんなものがあるのか知らないが、用意されたランチョンマットや箸置きをそれぞれの席に並べながら、俺も思わず笑っていた。

 保奈美ちゃんは俺と嘉瀬さんのことを知っている。しかし嘉瀬さんは、保奈美ちゃんが知っているということを知らない。保奈美ちゃんは部長に『私は知ってるんですよ』という態度を見せることもなかったし、俺も敢えて嘉瀬さんに言ってはいなかった。
 保奈美ちゃんは数ヶ月後に遠い国に行ってしまう。
 今生の別れというわけではないけれど、彼女と過ごす最後の時間に余計な要素はいらないと思う。保奈美ちゃんが楽しく俺たちとの仕事を終えて、そうして彼と幸せになってほしいと思うからだ。優しい彼女が、ほんの少しでも俺を気遣って思い悩んだりしたら嫌だった。
「うおお」
 その保奈美ちゃんは嘉瀬さんの作ったサラダを口にして、何だか変な声を出している。
「どうしたの、保奈美ちゃん」
「美味しいです、すっごい、コレ」
「保奈美、お前なあ、日本語の順番がおかしくねえか」
「ただのサラダなのに!」
「ただのサラダだよね、確かに」
「お前が言うと何か妙に無礼な気がすんだけどな、佐宗」
「気のせいじゃないですか」
「本当に全部美味しいですよ! イタリアン作れる男性なんて格好いいですねえ」
 嘉瀬さんは料理が得意だが、確かに、中でも特にイタリアンが美味いと思う。多分女受けがいいからだ。作った回数が多いのだろう。
「そんなことねえよ、簡単だし。それよりお前、向こうのことは色々決まってんのか」
「お店はまだ改装途中みたいですね。最初は居抜き物件を買うって話だったんですけど、どうも気に入らない部分があったらしくて。結局思い通りの場所に別の物件があって、一からやってるみたいです」
「へえ。じゃあ金が余計にかかるんじゃねえのか」
「彼じゃなくて向こうのお友達のこだわりだったみたいで、向こうが多めに出すみたいですよ」
 保奈美ちゃんはパスタをフォークにくるくると巻きつけながら言う。
「彼は元々、ずっとフランスにいるつもりじゃないんですよね。あっちで経験を積んで日本で出店するのが目標ですから。そこらへんは話がついてて、出資とか利益配分の割合もちゃんと決めてあるみたいなんですよ。そうでなきゃ絶対居抜きのほうがいいと思うんですけどね、私は」
「まあ、初期費用が幾らってのは——」
「お二人とも、食卓が営業会議みたいになってんですが」
 嘉瀬さんと保奈美ちゃんは確かに、と頷いて笑う。こんな風景を見ることもなくなるのだと思ったら、何だか妙に寂しかった。

「本当に美味しかった! ご馳走さまでした!」
 保奈美ちゃんは食洗器に食器を入れ、これは保奈美ちゃん持参の彼の作ったケーキと食後のコーヒーを片付けて、そろそろ帰ると腰を浮かせた。
「何が美味かったかって、彼氏の作ったケーキだな」
「褒めてももうないですよ」
「知ってるよ。最後の一切れはお前が食ったろうが」
 保奈美ちゃんは笑って立ち上がった。
「最後の一切れは当然私のものです。じゃあそろそろほんとにお暇しますね」
「じゃあ俺も——」
 俺も一緒に立ち上がる。保奈美ちゃんが幾ら俺と部長の事を知っているとはいえ——というか、知っているからこそ——ここに残るのは生々しい感じがする。
「え、佐宗さん帰るんですか」
「うん」
「私、彼が駅まで来てくれますし、駅はすぐそこだし」
「いや、だから——駅まで一緒に」
「だって帰っちゃったら」
「保奈美」
 保奈美ちゃんの台詞の最後にかぶせるように、嘉瀬さんが言った。
 ほんの一瞬、保奈美ちゃんがしまったという顔をしたが、すぐにその表情を隠して嘉瀬さんに向き直る。保奈美ちゃんは、俺に気を遣って知らないふりをしてくれているのだ。彼女がこんな顔をしなければならない理由はない。何だか申し訳なくなった。
「何ですか」
「佐宗は置いてってくれ」
 真面目な声に、俺も思わず振り返る。ソファに座ったままこちらを見ている嘉瀬さんは笑っていなかった。
「知ってんだな、お前」
「……え?」
 保奈美ちゃんは訊き返し、目を見開いて嘉瀬さんを見つめた後、俺を見た。嘉瀬さんはゆっくりと立ち上がり、保奈美ちゃんの傍に立った。
「駅まで送るよ。お前、ちょっと留守番してろ」
 後半は俺に言って、嘉瀬さんは保奈美ちゃんと一緒にいなくなった。

 嘉瀬さんのマンションから駅までは歩いて数分。往復したとしてもそれ程長い時間はかからない。俺が予想したよりほんの少し早く、嘉瀬さんは戻ってきた。
「ただいま」
「……はあ」
「何だその気の抜けた声と面は。口開けて突っ立ってたら何か飛び込んでくるかも知んねぇぞ」
「何かって」
「蝿とか」
 俺は慌てて口をがっちり閉じ、真っ直ぐキッチンに向かう嘉瀬さんの後を追った。嘉瀬さんは食器棚の隣に備え付けられたキャビネットを開け、ブランデーの瓶を取り出した。
 ブランデーなんて言うと格好を付けて見えるが、実は嘉瀬さんの酒に対するこだわりなんてないも同然だ。ビールだろうが発泡酒だろうが泡盛だろうが気にも留めない。大事なのはアルコール度数であって味ではないらしい。どうせ今手に持っているブランデーもお中元か何かに決まっている。送ってきたのが誰か知らないが、そのひとは、きっと嘉瀬さんにはブランデーが似合うと思ったのだろう。
 飾り気のないコップに琥珀色の酒を無造作に注ぎ、しかし口はつけずに嘉瀬さんは振り返った。花柄エプロンを外した嘉瀬さんは、やっぱりどうしようもなく男前だ。
「保奈美と話した」
「……はあ」
「お前——」
「俺、帰りますやっぱり」
 保奈美ちゃんの迷惑も顧みずぶちまけた弱音が一気に蘇る。
「逃げんな、佐宗」
「無理言わないでください」
 言いながら、上着を取って玄関に向かう。嘉瀬さんが台所から呼んでいる。
「佐宗」
「ご馳走様でした」
「佐宗!」
 低い声で呼ばれて、つんのめるように足が止まる。嘉瀬さんがグラスを置く音、近付く足音に身体が竦んだ。
「いいから」
 宥めるような声音で言って、嘉瀬さんは俺を後ろから抱き締めた。
「嘉瀬さん——」
「分かった。今日はいい。帰っていいから、そんな顔して逃げ帰るな」
「……」
 こんなふうに安堵するのは間違っているかも知れない。結局俺は逃げているだけ、嘉瀬さんに甘えているだけだ。自分の駄目さ加減を実感して、それでもどうにもならないことがたくさんある。愛さえあれば上手くいく。それが真実だとしたら、警察も弁護士もいない世の中になるだろう。
「——おやすみ」
 そっと背中を押され、俺は嘉瀬さんの家を出た。
 拒絶されたわけではない。閉め出されたわけでもない。気遣われなかったわけでもない。もしそこで踵を返したら、嘉瀬さんは何も言わずに受け入れてくれたに違いない。
 音を立てずにドアが閉じる瞬間に、嘉瀬さんが「電話する」と呟いた。

 マンションの洒落たロビーを抜けないうちに電話が鳴る。
「もしもし」
『タクシーに乗ってる間、話し相手がいるんじゃねえかと思ってな』
 喉の奥で笑う嘉瀬さんの低い声を聞きながら、俺はタクシーに乗り込んだ。