その笑顔は神か悪魔か幻か 14-1

「……考え直すべきだと、俺は思うけどね」
 常識と良識に裏打ちされた真っ当な意見。静かに落ちたその言葉に、筋の通った抗弁はできない。
 だが、首肯しかねることもまた事実だった。
 一年前なら、多少なりとも迷ったかも知れない。だが、今となっては手遅れだ。
「まあ、そうしないだろうっていうのはお前の顔見りゃ分かるけど」
 多岐川は苦笑して、叉焼を口に放り込む。
 洒落たデザインの眼鏡は脇に置いてある。ラーメンを食う時は曇るのだそうで、多岐川が店に入って真っ先にしたことは、メニューも見ずに眼鏡を外すことだった。実のところ、こいつの眼鏡は伊達なのだ。知っている人間は数少ないが。
「じゃあ言うなよ」
「いや、一応俺も友達のふりくらいはしておかないとな」
 肩を揺らして多岐川が笑う。俺はカウンターの下で多岐川のスワールモカシンを蹴っ飛ばし、蓮華で掬ったスープを啜った。
「蹴るなよ。買ったばっかなんだぞ」
「うるせぇ」
「まったく、こんな男のどこがいいんだかねえ」
 本気以外の何物でもない多岐川の言い種に、俺は再度、奴の新しい靴を蹴りつけた。

 

 多岐川とは大学の入学式で何となく話をしてからの腐れ縁だ。
 お互い、同じ学科に同じ高校の出身者がいなかったのがきっかけでつるむようになって、今に至る。
 馬鹿な事の大半はこいつとやったが、最近では俺の方が「馬鹿な事」をやりっぱなしで、残念ながら多岐川は至極真っ当な生活を送っている。今付き合っている女とはうまく行っていて仕事も順調。可愛くて仕方がない恋人が実は男だという悩める俺とは大違いだ。
 久し振りに飲んでラーメンを食ってみたが、まだ時間は早かった。そういうわけで、ビールの六缶パックをぶら下げて、俺と多岐川は俺のマンションの前にいた。
「なあ、嘉瀬」
「あ?」
 エレベーターの中で、多岐川が思い出したように言う。
「——高橋くんに誤解されたりしないよな?」
「……何を誤解されるんだ。気色悪ぃこと言うなよ」
 ワイシャツの下の腕に鳥肌が立つ。
 昔、酒の席で男同士ってどんなもんだという話になって、何を間違ったのか目の前にいたこいつと寝たことがある。だがあれは冗談みたいなもので、それ以上の意味合いなどまったくなかったし、当時も今も気にしていないのはお互い様だ。しかし、今同じことをやれと言われたら多分無理だし、自分で言っておきながら、多岐川もやはり嫌そうに顔をしかめた。
「いや、一応……何だ、ほら? 来ちゃった、とかって……」
「あー、それはない」
 俺の口調に何を聞き取ったのか多岐川は一瞬怪訝な顔をして、その時はそれ以上何も訊いてこなかった。

 缶ビールを冷蔵庫に放り込む。多岐川にクロゼットから取ってきたTシャツとスウェットパンツ、スーツハンガーを放り、寝室に取って返すとスーツを脱ぎながら携帯を確かめた。
 着信履歴も新着メールもないのが悲しいが、そんなことでめげはしない。何せ相手は佐宗である。俺は佐宗の番号を表示させて通話ボタンを押し、呼び出し音を聞きながらネクタイの結び目に指を掛けた。
 今日、佐宗は学生時代の友人たちと飲み会だ。だから多岐川を泊めてやっても問題ない。
「暇なんですか」
「もしもしくらい言えよ」
「番号見りゃ誰か分かるでしょうが。あんただって出るなり俺だ、じゃないですかいつも。ていうか、もしもし」
「遅ぇよ」
 思わず吹き出すと佐宗も笑う。店内を移動しているのか、周囲の音が微妙に変化していった。
「何かありましたか」
「俺は今ネクタイを解きかけてて」
「テレクラごっこなら切りますよ」
「つれねえなあ」
「俺は聴覚からの刺激だけじゃ興奮しませんよ。で、何です?」
 視覚と触覚も刺激してやらないと駄目らしい感度の悪い部下は淡々と訊き返す。廊下に出たのかざわめきが突然途切れ、佐宗の声がはっきりした。
「今、多岐川が来ててな」
「たきがわ——ああ、あの」
「あの」
「部長の若かりし日の過ちのカレですね」
 俺はにやついているであろう佐宗の顔を思い浮かべて苦笑した。
「ああ、そのカレだよ。で、今日はあいつ泊まってくから」
「はあ」
 気のない声に、ほんの僅かではあるがやはり落胆し、俺は携帯を肩に挟んだまま外し掛けていたシャツの袖のボタンを指先でいじくった。
「一応……」
「何です、一応って。言っときますけど、別に疑ってませんよ。多岐川さんに失礼です」
「俺にじゃねえのか。まあ、知ってるよ。そうじゃねえって」
「じゃあ何です」
 佐宗の声に僅かに何かが混じる。苛立ちか、怒りか——そうでなければ怯えの切れ端のようなもの。毒舌は虚勢ではなく本物だが、鋭い舌鋒を披露していても、佐宗の一部は酷く脆い。
 どんなところ、と特定はできない。それは誰もが持つ弱さなのだろうが、俺は佐宗のそういう部分が酷く気になり、そして同時に好きだった。
 ただ、お前が散々酔っ払って、俺の顔を見たくなって寄ってくれたりしねえかなとか思っただけだ。そうなったらいいなと思うけど、そうなったら多岐川がいるって、言っとこうと思ってさ。
「……楽しんでるかなと思って」
 頭の中で一息に言った台詞はどこでどう変換されたか、随分短くなって声になった。
「はぁ? ああ、まあ、友達と飲んでるから楽しいですけど」
「ならいい。悪ぃな、邪魔して」
「いいえ」
「なあ佐宗」
 往生際悪く名前を呼ぶ俺に、佐宗は普段通り、はい、と答えた。
「顔が見たい」
「会社で見たじゃないですか」
「そりゃ、見たけどよ」
「なら問題ないでしょう。戻りますよ」
「ああ」
「それじゃ」
 呆気なく電話は切れ、俺は携帯をベッドの上に放り出した。
 まったく、俺のかわいい部下は、どうしようもなくかわいくない。

 

「来るって?」
「ああ?」
「高橋くん」
 眼鏡を外しスウェットに着替えた多岐川は、冷蔵庫からビールを出しながら振り返った。
「来ねえよ」
 ドアを開けたまま電話していたから聞こえたのだろう。別に隠れてした電話ではないから構わない。
「来る可能性があったらお前なんか泊めねえ」
「何で? 来たことないわけ?」
「たまに来るけど——俺が無理矢理連れて来なきゃ、積極的には来ねぇなあ」
 多岐川は缶ビール片手に食器棚まで歩いていき、グラスを二つ手にして戻ってきた。こいつも昔はグラスを使ったりはしなかった。付き合う女の癖というのは知らぬ間に自分の癖になったりするものだ。
 ソファの、俺とは反対の端に腰を下ろした多岐川は、テーブルにグラスを置いて缶を開けた。
「遠慮してんの?」
「……そういうのとはちょっと違う」
 多岐川はちょっと肩を竦める。
「迷うのは当然だもんな」
 泡を啜りながら、多岐川は俺を見た。
「世間体、プライド、それから何だ、仕事、全部お前にとっては必要だろ。高橋くんにとってもさ。お互いがお互いのそういうものを脅かすことになっても、それでもこのまま進むつもりか」
 頷いた俺に、多岐川は酷く優しく微笑んだ。
「お前が捨てられたら、盛大に祝ってやる」
「有難てぇ話」
 肩を竦めた俺に笑い返し、多岐川は大袈裟な仕草でグラスを掲げて見せた。