その笑顔は神か悪魔か幻か 12-4

「仲直り、しました?」
 電話の向こうから保奈美ちゃんの明るい声が聞こえた。どこかの地下鉄駅にいるらしく、構内アナウンスと、人のざわめきが背後に聞こえる。
「あ、うん」
 嘉瀬さんは予定通り出張中。保奈美ちゃんとは出社してから当然顔を合わせていたが、彼女からは意味ありげな目配せひとつなく、土曜に会ったことなどまるで夢だったかのようだった。丁度昼休みにあたる時間、出先でチェーン店のラーメン屋に立ち寄って、店から出たところを見計らったかのようにかかってきたのがこの電話である。
 俺は携帯電話を肩と耳で挟み、最寄りの駅の方向に歩きながら、鞄の中から手帳を取り出した。次の客先とのアポイント内容を確認する。保奈美ちゃんはその間に「そうですか、よかったです!」と言ってころころと笑った。
「朝、佐宗さんの顔見て大丈夫とは思いましたけど」
「どうも、ご心配おかけして」
「いいえー。携帯は大事にしてくださいね」
「うん。ありがとう」
 俺の言葉の後暫し間を置いて、保奈美ちゃんはゆっくりと言った。
「それから、お二人の関係も大事にしなきゃ。佐宗さん、指輪とか、買ってもらっちゃったらいいんじゃないですか」
 あたたかい昼の陽射しに、すべてのものが明るく輝いて見える。路上駐車した車のフロントガラスに反射する光に目を細め、俺はその場に立ち止まった。
「ええ? 何言ってんの」
「佐宗さんならきっと嫌がると思ってましたけど! だけどね、佐宗さん、くだらないって思うかも知れないけど、私は何か、形ある何かがある方が、お二人のためにいいと思います。別に指輪じゃなくたっていいんですよ。形だから、物でも言葉でも」
「——そうなのかな」
「佐宗さんは何が欲しいのか……どんなものなら受け入れられるのか、私には分かりませんけど。部長ならよく分かってるかも知れませんね」
 それじゃあまた後で、と言って保奈美ちゃんは電話を切った。俺は、保奈美ちゃんが選んでくれた真新しい携帯の液晶画面をぼんやり見つめ、そこに映る自分の間の抜けた顔に苦笑した。
 多分、保奈美ちゃんの言葉はどれも正しいのだろう。
 だが、彼女が一つだけ間違っていることがある。嘉瀬さんは、俺が欲しいものが分かっていなかった。そして勿論俺自身も。

 

「愛してる」
 歯の間から押し出すように、嘉瀬さんはしわがれた声でそう言った。
「安っぽくて悪いな。もっと気の利いた事を言えりゃいいんだが、どうにも」
 嘉瀬さんは、俺の肩から手を滑らせ、手首を掴んだ。引っ張られ、俺の身体は嘉瀬さんのほうへ傾いた。抱き寄せられて顔が見えなくなる。俺の背中を撫でる嘉瀬さんの手。指先が酷く冷たい。
「だけどな、誤解がないようにしたいんだ。佐宗」
 俺の頭は回転を完全に止めていた。
 嘉瀬さんが口にするとは思わず、自分自身言われたいと思ったこともない言葉が、俺の頭蓋骨を内側から狂ったように叩いている。
 望んだことなんかなかった。安っぽくて嘘くさい、そんな台詞。
 それなのに、どうして俺はこんなに動揺しているんだろう。
「今回は、お前を蚊帳の外に置いて悪かった。けどな、俺はお前が世間体とか、ご両親への責任とか、そういうことで幾ら悩んで、迷っても構わねえんだ。俺のしたことを押しつけだと思われたくなかったから黙ってただけで」
 正に嘉瀬さんの危惧どおりの行動をした自分が恥ずかしい。そう思ったことで、止まっていた頭がようやくゆるやかに動き始めた。
 嘉瀬さんはさっきなんて言った?
 冗談じゃない。本当に好きだった彼女にだって、一度も言ったことはなかった。ドラマや映画の中でなら美しく響くその言葉も、現実ではただの戯言。
 けれど、嘉瀬さんの口から出たなら、それは俺にとって戯言とは程遠い。
「お前が喜ぶ台詞じゃないのは分かってる。ただ」
「どうして」
 笑えるくらい上擦った声が飛び出した。
 欲しくないなんて、自分でもそう思っていたんだとしたら、そんなのは嘘だ。
 嘉瀬さんが身体を僅かに離し、俺の顔を覗き込む。ああ、やめてくれ。至近距離でそんな顔で見られたら、俺の何もかもを皿に乗せ、進んで差し出したくなってしまう。
「——俺が、喜ばないって……思うんです」
「だって、お前」
 目を逸らし、嘉瀬さんの鎖骨に顔を寄せて軽く噛む。嘉瀬さんが身じろぎし、低い呻き声を漏らした。その声に興奮するとともに感じた深い安堵に、場違いな眠気が俺を襲った。
「もう一回、言ってください」
「……あのな、佐宗」
「憎まれ口はききません。冗談にもしません。嘉瀬さん」
 冷たい指先が俺の頬に触れ、優しく、しかし断固として顔を上げさせた。中途半端な状態で放っておかれた身体を突然思い出す。
「お願いです」
 ゆっくりと、嘉瀬さんの顔にいつもの笑みが広がった。慈悲深い悪魔のようなその笑みに、下腹部に血が下がる。恭しいとさえ言える手つきで、嘉瀬さんは俺をもう一度横たえた。ひんやりと濡れたものが脚の間に押し当てられ、気が遠くなるほどそっと擦りつけられた。
「や——」
「愛してる、佐宗」
「…………入れるなら入れてくださいよ……っ!!」
「うん? その前に、お前も言えよ」
「は? 何を……」
「早く」
「ちょっと、嘉瀬さん」
「言えって」
 この上なく優しく、色っぽく囁きながら、嘉瀬さんは笑う。
「だって、俺は」

 

 その後、焦らされ、しつこく攻められて、何を口走ったか定かではない。ただ、一緒に住もうという誘いに頷かなかったことには自信があったが。
 俺は何度か目を瞬き、瞼の裏に黒く浮かぶフロントガラスの反射の残像を追い払おうと努力した。
 どんなにあのひとが大事でも、いきなり越えることができないことはたくさんある。愛情だけが生きていく上でのすべての基準なら、俺は今すぐにでもあのひとの足元にすべてを投げ出すのだろうけれど。
 迷っていいというのなら、いいだけ迷おうと決めたのだ。どうせ行きつく先はあの悪魔のような男の元だと、既に決まっているのだから。
 仕舞ったばかりの携帯が鳴り、俺は慌ててポケットに手を突っ込んだ。通話ボタンを押して耳に当てる。聞き慣れた声が、俺の名前を楽しげに呼ぶ。
「寂しくて泣いてねえか?」
「そんなわけないでしょうが。馬鹿ですか、あんたは」
 耳元で響く低い忍び笑いに頬が緩んでいくのが分かる。ひとりにやつきながら電話をしていることに気がついて、俺は無理矢理顔を引き締めながら、駅に向かって歩き出した。