その笑顔は神か悪魔か幻か 12-3

 何で一日に何回もここに立たなきゃならないんだろう。そう思いながら、俺は新しい携帯を取り出した。
 目の前に見えるガラスの向こう、マンションのエントランスはまるでホテルのロビーのようだ。ガラスの向こうには大きな白いソファが置いてある。焦げ茶の床、アイボリーの壁に映えるセンスのいい花とエッチング。素っ気なくなりそうなくらいモダンな空間に白熱灯の照明があたたかみを加えている。
 嘉瀬さんが訊いてもいないのに教えてくれたから入口の暗証番号は知っているが、勝手に入るのは嫌だった。ここは俺の家ではない。
「佐宗」
 押し殺したような嘉瀬さんの声には、怒りと、そして僅かに驚きが滲んでいた。嘉瀬さんのところを飛び出した後、着信はすべて無視した。だから多分、俺から電話をかけるとは思わなかったに違いない。
「電話に出ろ、馬鹿。出られないなら出られないで、連絡よこせ」
「だから今かけてるじゃないですか」
 可愛げのないもの言いだと分かっている。だが、そうすることでしか俺は自分の保ち方を知らないのだ。
「…………」
「お母さん、まだいらっしゃるんですか」
「いや」
「開けてください」
「は?」
「玄関。あ、下のほうです」
「——暗証番号教えたろ」
「忘れました」
 暫し間があって、嘘に決まってるといいたげな溜息が耳元で聞こえた。俺の前のガラスがするすると音もなく左右に分かれ、飾られた花の微かな香りが鼻先を掠めていった。

 玄関のドアが開いたと思ったら物凄い勢いで部屋の中に引っ張り込まれ、背中が壁に激突した。
「!?」
 一瞬のことで、何がどうなっているのか分からなかった。振り回されたせいで目が回り、壁にぶつけた背中が痛む。覆いかぶさる嘉瀬さんは、人と言うより圧力そのものだ。体温と呼吸音と嘉瀬さんの匂い。圧倒的な何かに押し潰され、身体も心も車に轢かれた後のように感じて心細くなる。ようやく現実を認識し、嘉瀬さんの胸板に手を突っ張った。
「何すんですか!!」
「電話には出ねえし、部屋にはいねえし!!」
 俺と同じだけの音量で嘉瀬さんは怒鳴り返した。
「部屋って」
「行ったに決まってるだろうが!」
「……お母さん、何でいらしてたんですか」
「ああ?」
 嘉瀬さんは勢いを削がれたせいかとても不機嫌な顔をしたが、二秒の間の後小さく溜息を吐いた。しかし、離れようとはしなかったから、俺は靴を履いて玄関の三和土に立ったまま、相変わらず壁に押し付けられていた。
「パッチワークだか藍染だかなんだかの展覧会があるんだってよ。会場が近くだから、友達と一緒に車で送って欲しいって寄っただけだ。お前がすげぇ勢いで飛びだしてった後、車で友達の家まで行って、送ってったよ」
「そうですか」
「それで俺はお前の部屋に直行して玄関のチャイムを鳴らしまくった。どう考えてもいないって納得してから近所を車で流して、うろうろしたあげくにイライラして疲れ切ってここに戻ってきた」
 俺の部屋のチャイムを押しまくる嘉瀬さんというのがおかしくて、俺は思わず吹き出した。当然嘉瀬さんは渋い顔だ。睨まれて視線を落とす。三和土に立つ嘉瀬さんの足は裸足だった。
「佐宗、どこで何してたんだ」
 顎を掴まれ、強制的に仰のかされる。
「——俺の勝手でしょ」
 憎まれ口は勝手に口から飛び出していく。嘉瀬さんの顔の上を、一瞬、何かを諦めたような空虚な表情が過った気がした。背筋をひやりとした何かが伝い、俺は本気で自分の舌を噛み切りたくなった。こんな顔をさせたいわけじゃないだろう。保奈美ちゃんは何て言った。俺は一体何をしにここまで戻ってきたんだ。
「……すみません」
 嘉瀬さんの手をそっと外し、肩口に顔を乗せる。嘉瀬さんの首筋の匂いに、何だか涙が出そうになった。
「嫌な思いをさせたいわけじゃないんです」
 犬のように、嘉瀬さんの首筋に顔を擦りつけた。閉じた俺の瞼の下で、嘉瀬さんの頸動脈が規則正しく動いている。
「佐宗?」
 嘉瀬さんが身じろぎした。脇に垂らしていた両手を持ち上げ、背に回す。麻混のシャツの少し硬い手触りが掌に心地いい。
「嘉瀬さん」
 小さく呼ぶと、俺の声を聞き取ろうとして嘉瀬さんの身体が前に傾いだ。シャツをきつく握り締め、背伸びして、俺は彼の耳元に掠れる声で「すみません」と繰り返した。
「一人で勝手に怒って、八つ当たりして……本当にすみません」

 俺の謝罪には答えず、嘉瀬さんは俺に口付けた。食いつくすような激しいキスは、嘉瀬さんのいつものスタイルとは少し違って、そのせいか膝が笑ってまっすぐ立てなかった。
 寝室まで引っ張っていかれた俺は、ベッドに座らされ、嘉瀬さん手ずから服を脱がされた。そこに至るまでに俺は既に半ば朦朧としていたし、嘉瀬さんは嘉瀬さんで何を考えているのかあまり喋ろうとしなかった。
 暴れる気も抵抗する気もなかったのに、嘉瀬さんは俺の左右の手首を前で合わせて緩く縛った。それがタオルだったのか紐だったのかそれとも何か別のものだったのかは覚えていないし、別にどれでも構わなかった。多分本気で外そうとすれば外れただろうし、そうしても別に咎められはしなかったと思う。
 向い合うように膝の上に座らされ、腕を嘉瀬さんの首に回すように促された。縛られているから、離れられない。それは俺にとって、酷く便利な言い訳だった。頭の隅で囁く、雄の本能。これは忌むべき事態だ、今すぐ逃れろ、女を見つけて子孫を残せ。忠告には親を悲しませるなというおまけも付く。消し切れずにいたその声に、だって逃げることができないのだと弁解しながら耳を塞いだ。
 俺はきっと、蕩けそうな顔をしているのだろうとぼんやりと思う。嘉瀬さんが満足そうな笑みを浮かべ、甘い声で何かを囁いているからだ。何を言っているのかよく分からない。耳の中で響くのは血管の中を血液が流れる音だけで、視界の隅には光点がちらつく。嘉瀬さんの首にしがみつき、何も考えずに、女性を抱く時と感覚的には変わらない快感を追う。そのほうが、楽だから。
 自分が女だったらよかったと思ったことは、今までに一度もない。それが、どうしようもなく不実に思えた。
「何を犠牲にして、何を差し出すか。人それぞれなのは分かってます」
 ところどころ掠れた俺の声に、嘉瀬さんは眉を上げた。
 手首の縛めはとっくに解かれて、俺は仰向けになっていた。視界に広がるのは天井。居間の明かりが入ってくるから天井の半分は薄らと明るく、半分は暗い。まるで夜明けの空のようなグラデーションに、嘉瀬さんのシルエットが濃く沈む。
「だけど、俺は後ろめたいんです。あんたは俺より誠実だから。あんたのことが幾ら好きでも、俺にはできないことがたくさんあって——何でかっていうと、俺は自分の体面が大事だからです」
 一息に言うと、嘉瀬さんが動きを止める。腹の中に入ったままの嘉瀬さんの存在感。俺の身体の構造からすると、それは排斥すべき異物だった。なのに、彼がそこに存在するということに、俺の眼尻に涙が滲んだ。
「誰だってそうだろ」
「でもあんたは違うでしょう」
 声が震える。みっともないと思ったが、震えを抑えることはできなかった。
「どうして、俺なんか好きなんですか」
「……何言ってんだ」
「ほんとに、俺なんか好きなんですか?」
 嘉瀬さんはゆっくりと身体を引き、俺の中から出て行った。
 このひとを諦めなければならなくなったら、俺は多分、空っぽになってしまうだろう。身体の一部が抜け出て行った、それだけでこんなにうろたえてしまうのに。
 嘉瀬さんの手が俺の肩の下に入り込み、仰向けの俺の身体を引き起こした。力の抜けた身体は嘉瀬さんにされるがままで、一瞬抵抗しかけたが、どうすることもできなかった。
「……正直に言うと、好きじゃないな」
 紛れもない嘉瀬さんの声が、聴き違えようもなくはっきりとそう言った。
 左の下瞼が痙攣する。指先が一瞬で氷のように冷たくなった。
「あ——……俺」
「佐宗」
 歯の根が合わない。何を言いたいのかも分からずに口に出し掛けた言葉がそのまま止まる。いきなり固形になってしまったような空気を飲み込もうと気持ちが焦った。
 嘉瀬さんの掌が肩を撫で下ろす。何も感じられないまま、俺はただ、嘉瀬さんの顔を見る。耳鳴りがし始めた俺の耳に、しっかりと声が届いた。
「好きじゃない」
 ああ、神様。