その笑顔は神か悪魔か幻か 12-2

「何やってるんですか!!」
 大きな声に振り返ると保奈美ちゃんが立っていて、目を見開いて俺の足元を見つめていた。
 行き交う人がちらりと俺の足元に目をやって、無関心に通り過ぎていく。シルバーの携帯はバッテリーカバーが割れ、バッテリーも飛び出していた。細かなプラスチックの破片が幾つか落ちている。多分使えなくなってしまった携帯電話の残骸と俺の顔を彼女の視線が三回往復し、保奈美ちゃんはもう一度、何やってるんですか、と呟いた。
 保奈美ちゃんは花柄のシフォンのワンピースにベージュのウェスタンブーツを履いていた。会社でしか会ったことがないから、スーツか、それに準じる姿しかみたことがない。カジュアルな格好の保奈美ちゃんは年齢より幼く見え、とても可愛らしかった。しかし、そう思ったのは少し時間が経ってからで、声を掛けられた時はそれどころではなかったのだが。

「うん、そうなんだ。だからちょっと遅れるね。んー、そんなには……うん、電話する」
 俺は、保奈美ちゃんの声をぼんやりと聞いていた。携帯の部品を拾い集めた保奈美ちゃんは、俺の腕を引っ張って、決然とした足取りで歩き始めた。携帯ショップに押し込まれ、階段から落としてしまったと言い訳する彼女の声を隣で聞いた。いつの間にか交換された電話をポケットに突っ込んで、促されるままただ歩く。なんだか可愛らしいカフェに連れて行かれたが、拒む理由もとくになかった。
「はい」
 保奈美ちゃんが飲み物のカップを避け、テーブルの上に紙袋を置く。麻痺していたような感覚がようやく戻り始めて、俺は目を瞬いた。
「え」
「携帯の箱ですよ。説明書とか」
「あ……持たせてたんだ、ごめん」
「忘れて帰らないでくださいね! 佐宗さん、幽霊みたいですよ。心ここにあらずってこういうことを言うんですね」
「ごめん」
 馬鹿のように繰り返すと、保奈美ちゃんは眉を寄せて俺の顔をまじまじと見た。
 いつもはまとめたり、一部分を留めたりしている髪が、すべてふわりと肩におろされていて、とても女らしい。多分彼氏と会うのだろうな、と思ったら、常識が俺の頭の中に慌てて駆け戻ってきた。
「あ——保奈美ちゃん、ごめん! 用事あるのに、俺」
「いいんです。私の彼氏は多少遅れたところで怒りません」
「それはどうも……素敵な人だね」
「はい、そりゃあもうサイッコーです。それはいいんですけど! 佐宗さん、何があったんですか」
「何がって……」
 保奈美ちゃんは小さく溜息を吐き、キャラメルなんとか、という飲み物に浮いたホイップクリームをスプーンですくった。飲物なのにまず食べなければならないものを頼むとは。女の子とは不可解だ。
「いいです。言いたくない、言うもんか、って顔じゅうに書いてありますもん。そういうときの佐宗さんから何か聞き出そうとしたって無駄ですから」
 保奈美ちゃんも成長したな、と思ったが、馬鹿にしていると思われたら困るので口に出さずにおいた。カフェの中は女の子と、その彼氏でそれなりに混み合っている。ちょうどお茶の時間だから、これから更に混むだろう。低いざわめきのような喧噪のなかで保奈美ちゃんは暫し黙り、もう一度クリームの山をつついた。
「ちょうどいいから、佐宗さんには言っちゃおうかなあ」
「……何を?」
「私、会社辞めなきゃいけないんです」
 保奈美ちゃんはスプーンを置いて、にっこり笑った。
「結婚することになりました!」
「そうか、おめでとう」
 心の底から嬉しいのに、頬と声が引き攣った。今、そういう話は聞きたくない。保奈美ちゃんは怪訝そうに眉を寄せ、それでも笑って頷いて見せる。
「彼がフランスに行くんですよ。向こうに知り合いがいてお店を出すのを、修行を兼ねて手伝うことになったんです。だから、結婚して一緒に行こうってことになって。仕事、面白くなってきたから本当は辞めたくないんだけど」
 保奈美ちゃんの彼氏はパティシェだとか。彼女にフランスというのもなんだかおかしいが、保奈美ちゃんならすぐに環境にも言葉にも馴染みそうだ。
「それは仕方ないよ。か」
 かせさん、と言い掛けて喉に閊えた。保奈美ちゃんは気付かない。
「嘉瀬さん? あ、出張から戻ってきたら話そうと思ってます。行くって言っても年末なので。それまではちゃんと働きたいし」
「いいね」
 ぽろりと出た言葉が、思いのほか重く響いて驚いた。保奈美ちゃんは大きな目を見開いて、くるりとカールした睫毛を瞬く。いつの間にか握り締めていた手の甲に筋と青い静脈が浮いている。他人のもののように見える手を眺め、自分のそれより大きく男らしい嘉瀬さんの手を思い出して胸が詰まった。
「……佐宗さん、ほんとに、何があったんですか」
「別に——」
「嘘です。そんなの分かります。いいねって何ですか? 仕事辞めること? 結婚すること? 誤魔化さないでください!」
 保奈美ちゃんは叱りつけるように言って、右手で俺の肩をぐいと掴んだ。
 半ば腰を浮かせて身を乗り出した彼女に、周囲のテーブルの女性が驚いたような視線を寄越す。話の内容が聞こえる距離ではないから、痴話喧嘩と思ったのかも知れない。勇ましい彼女が優柔不断な彼氏を責めているように見えたのかも。そう思うと少しだけおかしくなった。
「興味本位で聞いてるんじゃないんですよ! 佐宗さんのこと心配してるんです!」
 保奈美ちゃんはそう言ってどすんと椅子に腰を下ろして腕を組み、可愛らしい顔に厳しい表情を浮かべて俺を睨んだ。
「別に……ただ、俺」
「佐宗さん。私、信用できませんか」
「そうじゃないよ。そうじゃなくて」
 不意に視界が揺らいで俺は慌てて掌で顔を覆った。何で涙が出たのか分からない。腹が立っているからなのか、興奮しているからなのか、どっちにしろ女の子の前で泣くなんて、絶対にご免だ。
「俺は、ただ」
「佐宗さん?」
「…………部長が」
 俺はずるい。
 呟いた言葉が終らないうちにそう思った。
 保奈美ちゃんは、いなくなる。すぐにではないが、いずれ必ず。
 嘉瀬さんがどういう思いで母親に俺のことを告げたのか、分かっていないわけではない。あの人が、俺に同じことを求めるわけがないのもよく知っているのに、それでもどうしようもなく腹が立った。嘉瀬さんは俺より大人で正直で、そして誠実。今更知ったわけでもないことだ。同じようにできない自分に後ろめたさを感じた俺は、自分勝手に憤っただけだった。
 分かっているのに、それでも俺はあの人と同じことができずにいる。保奈美ちゃんに言ってしまうのと、親に言ってしまうのとでは雲泥の差だと知っているのに。
「部長って」
 保奈美ちゃんが小さく復唱した。彼女が頭の中で、女性部長を探しているのが目に見える。
「池谷部長ですか? でも彼女は佐宗さんにはちょっと合いませんよね。だってもう五十歳過ぎてるし……もしかして江藤部長? 確かに美人だけど……佐宗さん、まさか不倫してるんですか?」
「そうじゃなくて——」
「じゃあ、誰ですか、部長って」
「うちの」
「嘉瀬さん? じゃあ、恋愛じゃなくて、悩みは仕事なんですね。お二人、すごく仲良しに見えますけど……もしかして本当はいじめられてたりするんですか? それで会社、辞めたいとか」
 掌をテーブルに置く。眼尻が濡れているのか空気が冷たい。保奈美ちゃんは俺の顔を見て目を眇め、数秒経って目を瞠り、口を開けた。
「うそ」
 自嘲の笑みが浮かび、そんな自分が嫌になった。
「そのうち、終わるにしても」
 保奈美ちゃんは固まったままだ。驚きのあまり無表情になった顔は血の気が失せて青白い。多分、俺の方がもっと酷い顔をしているに違いないが。
「今は、あの人がこっちを向いててくれるだけでいいって。そうやって自分だけ楽な状態に満足して」
 保奈美ちゃんが手を動かす。袖のシフォンがひらりと揺れて、まるで蝶のように視界を過った。
「……分かっててそうなったのに、現実を見るのが怖い。あの人が誠実な行動を取ればそれだけ、俺は自分が嫌になるんだ」
 ひらひらと、蝶が舞う。
 ぶたれるのかと思った。保奈美ちゃんがそんなことをするわけがないのに。
 一瞬身を竦めた俺に気付かないふりをして、保奈美ちゃんは手を伸ばした。細い指が伸び、淡いピンクの爪の先がちらりと見えた。
「佐宗さん」
 保奈美ちゃんの手は、俺の頭を撫でていた。
「誰にも言えないの、辛かったですね」
 気持ち悪いとか、異常だとか、考えなかったわけではないと思う。例えそれが一瞬でも、ほんの僅かでも、頭を過らなかったわけではないと思う。それが当たり前で、多分立場が逆なら俺もそう思う。それでも保奈美ちゃんの声は優しくて、迂闊にもまた目の前がぼやけてきた。
「何があったか知りませんけど、佐宗さんが悪いなら謝っちゃえばいいじゃないですか。部長は潔い者には情け深いと思います!」
 信じられないことに、俺は笑えた。保奈美ちゃんに嫌悪されてもおかしくない、この状況で。
「部長が真面目な顔をしてるときは信じていいって言ったの、佐宗さんでしょう。高橋って呼ばれたら走って逃げろって教えてくれたのも佐宗さんです。私よりずーっと部長のこと知ってるのに、おかしいですよ、こんなところで部長が怖くて泣きそうになってるなんて」
「……怖くないし、泣きそうになんかなってない」
「本当かなあ」
 保奈美ちゃんはちょっと笑い、俺の髪を最後にくしゃりと掴んで手を離した。力の入れ具合も、撫で方もまるで似ていないのに、何故か俺は嘉瀬さんにそうされたときのことを思い出した。

 

 保奈美ちゃんの彼氏は、俺の想像とはまったく違った。
 何となく、ちょっと華奢な、ふわりとした男性を想像していた。多分、女の子が騒ぐアイドルのような男性を。それは多分、パティシェという職業に対して華やかなイメージを持っていて、そして甘いケーキが似合うのは、そういう男性だという勝手な思い込みだろう。
 待ち合わせの場所に立っていた男性の身長は多分嘉瀬さんと同じくらい。ということは、百八十前後ある。厚い胸板に筋肉が盛り上がった腕を見ると、パティシェどころか格闘家だ。短い黒髪に四角い顎。美形とは言えないが、男らしく、人を惹きつける顔立ちだ。保奈美ちゃんを見た瞬間ぱっと顔が輝いたのが俺にも分かった。
 別に、女の子と見紛うほどに細くて小綺麗な男がどうだとか言う気はない。だが、保奈美ちゃんの彼氏がそうではなかったことが、何となく嬉しかった。
 彼に保奈美ちゃんを借りてしまったお詫びを言い、数分立ち話をした後に、二人に手を振った。
「佐宗さん、ちゃんと部長と仲直りして下さいね!」
 保奈美ちゃんが大きな声で俺にそう念を押す。
 勝手に譬えると軍人さんと砂糖菓子みたいなカップルと別れるのが妙に寂しくて、俺はそっと溜息を吐いた。