その笑顔は神か悪魔か幻か 12-1

「…………っ」
 絶句、という言葉をここまで理解したのは、多分生まれて初めてのことではなかろうか。
 口がぱくぱくする、というありふれた表現を体現しつつ、俺は目玉が落ちそうなくらい目を見開いた。先人の知恵というか、いや、それはちょっと違うが、とにかくこの手の表現を最初にした人は本当に素晴らしい、と思ったりする。目玉が落ちるわけねえだろ、とかいう減らず口は、落ちそうになったことがないから言えるのだ。
「ちょ……」
「佐宗?」
「ちょっとお手洗いと嘉瀬さんお借りします失礼しますっ」
 完全に句読点をつけ忘れたまま言葉を吐き出して、俺は嘉瀬さんの腕を掴んで転がるように居間から飛び出、寝室のドアを蹴破る勢いで開け、嘉瀬さんの長身を無理矢理その中へ押し込んだ。

 

 俺が嘉瀬さんの家に向かったのは、別に御尊顔を拝するのが目的ではなかった。前日、つまり金曜日に得意先から預かったデータを渡しに行ったのだ。
 嘉瀬さんは月曜、家から空港に直行で一泊の出張が入っていた。データはメールで送るにはサイズが大きかったし、幾ら暗号化してあるとはいえ、客先のデータが入ったフラッシュメモリを持っているのが嫌だったのである。マンションに到着する直前に電話を掛けたら、明らかに出るのを躊躇ったとしか思えない間と声で応答があった。背後から誰かの声がして、おや、と思う間もなく人が来てるんだ、と嘉瀬さんは呟いた。
「だから——」
「別に部屋に上がる必要はないですから。未決箱に入れ……間違えました。メールボックスに入れますか」
「お前は仕事が抜けるってことがねえな、佐宗。わざとなのか?」
「仕事熱心すぎて、スーツで眠ってるくらいです」
「つまんねえ嘘つくな」
「酷いですね。俺の貴重な茶目っ気を無下にするんですか」
「茶目っ気……」
「着きました。ロック開けてください。メールボックスに入れますから。怖いからすぐ回収してくださいね」
 電話を切りかけた俺に、嘉瀬さんは待て、と犬を座らせる飼い主の如き威厳で命令した。
 で、これである。
 まさか、嘉瀬さん似、というか嘉瀬さんが似たというか、どっちでもいいが美人が玄関で待っているとは思わなかった。
「まあまあ、うちの和紀がいつもお世話になっております」
 なんて言われた日には、俺の瞼は瞬きという単語を忘れたように眼球にへばりつき、脳みそは回転を勝手に止めた。まさかこちらこそ仕事でもベッドでも大変お世話になっておりますとは口が裂けても口に出せない。いや、言うわけはないが言えないだろう。不意打ちに営業の本能だけで何とか人並みの挨拶を返す俺の顔は、さぞや見ものだったに違いない。
 目の前に置かれた饅頭はいかにも高級そうな和紙張りの箱に入っていて、まるで並んだ坊主頭のように青白く、整然と並んでいる。薯蕷饅頭というのだそうだ。山芋で作られた皮はふんわりとやわらかそうで、甘いものは別に好きではないが、つい手を伸ばしたくなる可憐さだった。
「美味しいのよ、是非どうぞ」
「はあ」
「ほら和紀、あんたも食べなさい」
「俺が餡子嫌いだって知っててこれが土産だって言うんだから」
「好き嫌いするんじゃないの」
 言い合う二人は、見るからに親子である。
 嘉瀬さんの母、芳子さんはどこから見ても美人だった。既に還暦を超えているらしいが、十歳は若く見える。嘉瀬さんの容貌は母親から受け継いだ部分が多いらしい。嘉瀬さんを女性に作り替えたら多分こういうふうになるのだろう。
「高橋さん、遠慮しないで。甘いものお嫌い?」
「いえ……」
 別に、嫌いじゃないです。
 簡単な言葉すらうまく口の中から出てこない。俺は仕方なく無意味に微笑み、しかし微笑んだつもりになっただけで口の端を引き攣らせた。大学生の時に付き合っていた彼女の家族に初めて紹介されたとき。あのときだって、ここまで緊張しなかった。
 饅頭をひとつつまみ、芳子さんは微笑む。柔らかい声が紡ぐ世間話。決してつまらなくはないそれを、しかし俺の頭はうまく理解できなかった。通り過ぎていく単語の行列を沿道で呆然と見送るばかりで時間は過ぎる。嘉瀬さんは母親の言葉に気のない様子で相槌を打つばかりだ。出された茶の儚げな湯気が、俺の顎をくすぐった。
「ねえ、高橋さん」
「はい」
「馬鹿息子だけど、これでよければもらってやってね」
「はい…………はい?」
 今。
 何か酷く場違いな台詞が聞こえた。
 口を開けたまま俺は固まった。多分幾らかの時間、俺は嘉瀬さんのお母さんを凝視してしまったに違いない。菓子の箱の中でひとつだけ欠けた饅頭の空間。完璧なものを乱すたったひとつの瑕疵、それが俺の存在そのものに思え、頭の中が一瞬で先が見えないほど白くなった。
 絶句する俺を見つめ、嘉瀬さんとよく似た女性は首を僅かに傾け微笑んだ。

 

 俺に突き飛ばされるように寝室に押し込まれ、振り返った嘉瀬さんの端正な顔からは、その内心を推し量ることはできなかった。
「今の、何ですっ!?」
「何が」
「何がって……」
「だから、何だ」
 分かっているのに分からないふりをしているに違いない。
 無理難題を言う客先で、嘉瀬さんはたまにこういう態度を取る。よく知る相手には一目瞭然、だけれど、表面的な付き合いの人間にはそうは映らない「素知らぬ振り」だ。俺が騙されるわけはないと分かっているだろうに、嘉瀬さんにしては何ともお粗末な誤魔化し方だ。
「家族に言うなんて」
「言っちゃ駄目なのか」
 真面目な顔で嘉瀬さんはそんなことを言う。俺は目を剥いたが、嘉瀬さんは相変わらず落ち着いた顔をしていた。こちらを真っ直ぐ見つめる瞳から目を逸らし、俺は自分の爪先に目を落とす。
「ガキの恋愛じゃあるまいし——こんなこと家族が聞いても悲しむだけじゃないですか」
「言いたかったから言った、それだけだ」
「何でも本当のこと言えばいいってもんじゃないんですよ! 何考えてんです……」
「お前のこと」
「ふざけるのも大概にしてくださいよ」
「ふざけてない」
「ふざけてないなら尚更始末に負えないよ、あんた」
 俺の頭の中は空白だった。空虚な空白とは違う、激しくショートした結果の空白。
 嘉瀬さんが誰にこの関係を話そうと、嘉瀬さんの自由なのだ。分かっていたが受け容れることはできなかった。よりによって母親に、一番悲しむだろうひとに、俺のことを言うなんて。
 踵を返した俺の腕を嘉瀬さんがきつく掴んで、俺は後ろに引っ張られた。
「帰ります」
「待てよ」
「大体何だよ、俺があんたをもらうのか」
「それで怒ってるのか? 違うよな」
「離せよ!」
「嫌だね」
 振り返り、見上げて俺は息をのむ。
 間近のその目に引き込まれそうになって息が止まる。真剣な眼差しに、足が震えてどうしようもない。
「なあ、俺に惚れてるって言えよ」
 お決まりの台詞の端に、何故か苦渋が滲んで聞こえた。今ここで求められる言葉を吐き出して、それが何の証明になるのだろう。そう思うと唇は糊で貼りついたように合わさって、内心これ以上ないくらいうろたえた。振りほどこうと手首を捩ってみたが、嘉瀬さんの手は離れない。
「あんたが」
 嘉瀬さんが真剣な顔をして俺を見つめた。いつの間にか身体の向きを変えられて、俺は嘉瀬さんと向かい合って立っている。そんな顔をするなんて卑怯だ、と内心で彼を詰った。
「高橋さん?」
 ドアの外から穏やかな声がして、俺は文字通り飛び上がった。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったみたいで」
 謝りたいのは俺のほうです。
 言いたかったが、喉は干上がった川底みたいにひび割れて、呼吸一つ洩らせなかった。振り返ったドアは閉まったまま、その向こうに立つひとの苦悩と悲しみなど、まるでないもののように隠している。
「和紀から聞いた時はすごくびっくりしたんだけど……ほら、何せこの子、昔から女の子が大好きなもんだから」
 呆れたような口ぶりに頬が緩みかけ、慌てて顔を引き締めた。ドアを開けることなんか出来はしない。目を合わせることなんてできるわけがない。
 目に入るのはこの間もその上で嘉瀬さんに抱かれたベッド。今はきれいに整えられた光沢のあるシルバーホワイトのベッドカバーは、まるでリゾートホテルのそれに見える。だからと言って癒された気分とは程遠く、俺はベッドから視線を外し、自分の足先を穴があくほど睨みつけた。
「私は、自分の子供が一番可愛い」
 びくり、と跳ねた俺の腕を嘉瀬さんが強く握った。
「だから、和紀が本気だっていうなら文句は言わないわ。和紀もいい大人なんだし、人を見かけで判断したり、一時の感情で何も見えなくなるっていうのがどんなことか、いい加減勉強したはずだものねえ」
 このひとにもそんな失敗をした過去があるのかと、俺は一時すべて忘れて嘉瀬さんの顔を見上げた。ちょっと困ったように嘉瀬さんが微笑んで俺を見つめる。じっと見られているうちに怒っていることを思い出し、俺は閉まったままのドアに目を戻した。
「ごめんなさいね」
 どうしてあなたが謝るんですか。
 訊いてみたかったが、訊けないことはわかっていた。
 嘉瀬さんが、俺の腕を握り締める手に力を籠める。抱き寄せられそうになり、本気で抵抗したら嘉瀬さんの力が抜けた。腕を振り払って彼から逃れ、俺はドアに向かって踏み出した。
「佐宗」
 嘉瀬さんの声に、反射的に足が止まる。肩越しに振り返った俺に、嘉瀬さんはいつもと変わらぬ口調で言った。
「お前にも同じように家族に話せなんて言わない——」
「……命令されたって言うわけないだろ、馬鹿野郎!!」
 怒鳴りつけ、ドアを開けて寝室を飛び出した。嘉瀬さんのお母さんがまだそこに立っていたが、完全に頭に血が上っていたから、彼女の存在もどうでもよくなっていた。
 玄関に突進し、エレベーターを待てなくて階段を駆け降りた。一階に着いた時にはマラソン大会に出た後のように息が上がっていたが、そんなことは重大でも何でもない。
 どこをどう通ったのか、駅前の人ごみの中を歩いていた。気がついたら携帯電話がジャケットのポケットの中で震えている。脇に避け、携帯を取り出してディスプレイを見てみると、嘉瀬さんの番号だった。取らないでいると鳴動が止まる。
「…………」
 見つめていると、また電話が鳴り出した。
 俺は震える四角い物体を握りしめ、地面に思い切り叩きつけた。