その笑顔は神か悪魔か幻か 11

「お前、何で前の職場辞めたんだっけ」
 確か、佐宗が転職してきて半年が過ぎた頃ではなかっただろうか。
 今までまるで気にしたこともなかったそんなことを訊いたのは、ちょっとした思いつきにすぎなかった。そこそこ有名なおばん菜の店のカウンターだったことは間違いない。佐宗が新規開発で大きな契約を取ってきて、それで奢ってやったことは覚えている。
 女が喜びそうな可愛らしい生麩の田楽が長方形の粉引の皿にちんまりと並んでいるのを、竹串をつまんでひとつ取り上げ、数秒眺めて佐宗は俺に視線を移した。
「嘉瀬さんに言ったことありませんでしたっけ?」
「ねぇな。つーか、訊いたことがねえ。多分」
 佐宗は決して無表情ではないし、どちらかというと感情の起伏は激しいほうだ。ただ、自分でもそれを分かっていて抑制しようとしているようで、職場では仏頂面をしていることが多かった。酒の席では普段ほど抑えないが、それでもこういう時に見せる顔は、理性と常識、そしてものを斜めから見る皮肉な部分に抑え込まれて一見能面のようにさえ見える。
「パワハラ」
 無表情のまま言い、佐宗は田楽に齧りついた。

「っても、俺が受けてたわけじゃないですよ。異動になった部の部長が、そこの課長をいじめてたんですよ」
「ふうん」
 佐宗は蓬入りの生麩についた自分の歯型を眺めながら、ちょっと遠い目をして、カウンターの中に並んだ酒の瓶の方へ視線を向けた。酒の瓶を透かして、少し昔を見ているのだろう。
「嘉瀬さんみたいにストレートに鬼部長ならいいんですけど」
「おい、俺は誰のこともいじめてねえぞ」
「知ってますって」
「本当かよ」
「しつこいですね。例えばお前は役立たずだとか、降格されたいのかって怒鳴りつけたりとか、提出した資料、目の前でびりびりに裂いたりとかするんですよ。なんて言うか……嘉瀬さんと違って、相手を貶めようって悪意がびんびん伝わってくるって感じ。課長が電話かけてるの黙って聞いてて、終わったら即呼びつけて何癖つけたりとか。課長、すっかり目がおかしいんです。俺別に正義漢ぶるつもりはないけど、流石に聞いてて頭に来ちゃったんですよね」
 確かによくある話だ。よくある話ではあるが、聞くたびにむかむかする。
 「それで、その上司を殴って退職、とか?」
 俺は筑前煮に箸をつけつつ訊いてみた。そうだと言ったら誉めてやろう。
「違います」
 佐宗は肩を竦めた。それは残念。田楽が佐宗の手の先でくるくる回る。
「あんまり酷いんで、口出しかけたことがあったんです。そしたら、何も言ってないうちから先輩にすごい勢いでトイレに連れていかれて、泣かれました」
「……先輩って、いじめられてた課長じゃなくてか?」
「違います。役職で言うと主任です。頼むから口を出すな、って」
 酒瓶の列を見つめたまま、佐宗は気だるげに語を継ぎ、竹串で皿の縁を軽くつついた。
「誰かが課長を庇うと、部全体に矛先が向くんだそうです。前に別の人が標的になってた時に誰かが庇って、で、全員がえらい目に遭ったんだ、って。だから」
「課長は生贄ってわけか」
「まさに人柱ですよ。お供物です」
「ひでえな」
「で、俺は何も言えなくなりました」
 その時、一瞬失望が胸をよぎったのは確かだった。こいつならそんなことは気にもせず、得意の生意気な口調で部長をやり込めたはずだと期待したからか。俺の期待はあまりにも自分勝手で、第三者的なものだと分かってはいたのだが。
 田楽に口をつけかけていた佐宗が目だけ動かして俺を見た。
 その眼のきつさに、思わずグラスの縁を噛む。俺の胸中を見透かしたような鋭さに、何も言えずにゆっくりと酒を舐めた。柔らかい生麩に押し当てられた歯と唇。手の中のグラスが傾き、からりと響く氷の音が、俺の正気を呼び戻す。筑前煮の人参の橙色に目を奪われたふりをして、俺は皿に目を落とした。
 佐宗の眼つきを見た瞬間に腹の底で頭をもたげたものが果たして何と呼ぶべきものだったのか、その時の俺にはよく分からなかった。
「——白けちゃったんです」
 佐宗の声が、耳の奥に低く響いた。
「何に」
「自分に、じゃないですかね」
「主任と他の部員に、じゃなくてか」
 訝しげな俺の問いに、佐宗は口の端を歪めて一瞬笑った。
「違いますね、多分。泣いてる主任に呆れたけど——でも、ああいうストレスって人間変えちゃうじゃないですか。主任も課長と同じくおかしくなってんだなあと思いましたよ。俺は、課長は衝動的に庇えるけど、主任みたいな被害者をどうしてあげたらいいかは分からない。分かりやすいほうのためだけに憤るのは簡単だよなって気付かされたし、俺の義憤はその程度かと思ったら白けたんです」
 カウンターの横に活けられた立派な花に、店員の袖が擦れて花が揺れる。俺の鼻先を掠める花の芳香と、佐宗の口元の蓬色。
「……そんな部長より少しはましな上司か、俺は」
 何故そんなことを訊いたのか覚えていない。佐宗の答えも覚えていない。ただ、花が綻ぶようにゆっくりと、佐宗の口元に笑みが滲んだのを強烈に覚えている。
 そして多分、俺はその時佐宗に惚れたのだ。

 

 その佐宗は今、自分より社会的地位も、年齢も、ついでに言えば身長も勝る男を容赦なく且つ冷静に、切り刻んでいる最中だ。
 得意先の五十がらみの営業部長、本当なら文句を言える相手ではないというのに。
 部長——俺ではなくあっち——は顔を真っ赤にしているが、佐宗の舌鋒にはまったく成す術がないようだった。
 部下の書類が酷い出来だと言って頭を下げ、俺達の前でその部下を尋常ではない執拗さで叱責していた大黒という部長は、元々評判が悪かった。
 厭味で鼻もちならないが、こちらは別に何かされるわけではない。彼との打ち合わせが後味悪く辛いのは、叩きのめされる彼の部下を黙って見ていなければならないからだ。
 異動でうちの会社の担当から外れていた大黒と仕事をするようになったのは最近だ。特別優秀ではないが、部長になるだけの力量はある。だが、人間的には尊敬できる男ではない。
 佐宗の元上司、そいつは多分こういう奴だったのだろう。
 取引先には笑みを見せ、彼らの前で部下が涙ぐむほど叱責し、言葉の暴力で痛めつけて追い詰める。
「そういうわけで、頂いた書類は完璧でした。長谷さんが作ってくださったものに不備はございません」
「高橋さん、僕はね……」
「もう結構です」
 佐宗の言葉が、ぴしゃりと大黒の横っ面を張る音が聞こえた気がした。さっきまで部下を蛇のような眼で睨みつけていた大黒は、今はどこか虚ろな視線を佐宗のネクタイの辺りに彷徨わせ、もごもごと何か呟いている。大黒の隣に座る長谷という担当者の顔色はもはや土気色。後で己に向けられる言葉の暴力を想像し、恐怖しているのだろう。彼が一瞬佐宗を見た。諦めたような、恨んでいるような、何とも言えない暗い視線。佐宗は彼の視線に気づいているのかいないのか、真っ直ぐ前だけ見つめていた。

 応接室の中は寒かった。大きな花瓶に活けられた造花さえもそのうち萎れてしまいそうに。それが空調の利きすぎなのか、佐宗の言葉のせいなのかは判然としなかったが。
 変に冷えてしまった身体を何とかしようと、ビルを出て、近くのコーヒーショップに足を向ける。佐宗は冷静な顔をして、黙って俺についてきた。
 紙コップのコーヒーを持って、窓際のカウンターに並んで座る。知り合いが外を通ったら丸見えだが、別に見られて困ることはない。
 ガラスに映った佐宗は子供のように紙コップを両手で包み、コーヒーを啜りながら通りの向こうにきつい目を向けていた。
 上目使いで、睨んでいるのは今しがた出てきたビルの外観。
 鋭いと言っていい視線と、仕草に僅かに滲んだガキ臭さ。両方が何故だか酷く胸をつき、唐突に湧き上がる、抱き締めたいという衝動と、俺は必死で戦った。
「佐宗」
「はい?」
「お前さ——」
「録音してました」
「は?」
 俺が何か言う前に、佐宗はスーツのポケットに手を突っ込んで、ICレコーダーを取り出した。
「パワハラっていうか、モラハラは証拠が残り難いでしょ。録音するのはひとつの手です」
「それはそうだけど、お前がそんなことしてどうなる?」
 佐宗はガラス越しに俺を見て、僅かに首を傾けた。
「合コンで……」
「合コン?」
 思わず声が尖ったのを聞き咎めたか、佐宗は、今度は横を向いて俺の顔をまともに見た。
「合コンです」
「…………合コンか」
「あんたに俺を責める権利なんかないですよ。その合コンが開催されたのは一年前です。俺とあんたには何もなくて、あんたはどっかの商社の社長秘書の久美子さんと、エステティシャンのサヤカさんと、両者合意の上で同時に付き合ってましたからね」
 立て板に水でそう言われ、久美子のFカップがはっきりと瞼に浮かんでたじろいだ。彼女の真っ赤なレースのブラ、あれは本当に最高だった。
「……それは失礼しました」
「合コンで知り合った子がいて、念のためいうと彼女はその後俺の友達とくっつきましたが、とにかく彼女のお兄さんがあの会社の産業医なんです」
 俺の喉から思わず短く唸り声が漏れた。佐宗はちょっと目元を緩めると、また前を向いてコーヒーに口をつけた。喉仏が上下する。あそこに優しく歯を立てると、佐宗の身体はいつも震える。
「——いつから知ってた?」
「大黒さんが担当になってすぐ、たまたま知りました。その、彼女とつきあってる友達と飲んだ時に社名も何も出さずに話をしたんですが、彼女のお兄さんも大黒さんを知ってたみたいです。後で電話がかかってきて……俺は、余計なことをしてると思ってます」
「そうなのか」
 自分に白けた、そう言って肩をすくめた佐宗の顔を思い出した。手の中の紙コップに目を落とす。何が一番いいのかは、本人以外の誰にも分からない。だが、一人では抜け出せない泥沼も、この世には確かに存在しているのだ。
「長谷さんに会って、これ渡します。暴言は日記に書きとめておけばいい。多分、誰にも相談できないって思い込んでるはずです。産業医は外部の人間だから話しやすいでしょう」
「そうか」
「助けたいなんて……助けられるなんて、今も思ってませんけど」
 そう言って俯いた佐宗の頭に手を伸ばし、髪の毛を乱すようにして撫でてやる。佐宗は視線も動かさず、身じろぎ一つせずに言ってのけた。
「俺は犬猫じゃありません。懐きませんよ、撫でたからって」

 

 強張った首筋を揉みほぐすようにしながら口づけると、佐宗の喉から低く、犬猫のような呻きが漏れた。
 一見無表情で冷静に見えていたが、緊張していたのだろう。飯を食った後の酒の誘いも部屋への誘いも断らず、今はソファにだらしなく座り、疲れたように瞼を閉じている。
 体重をかけ、背凭れに身体を押し付ける。佐宗は僅かに瞼を動かしたが、案外濃い睫毛が震えただけで、瞳は見せないままだった。
 昔のことを思い出したのかも知れない。
 産業医との接触、ICレコーダーの準備、何ヶ月も前から佐宗が考えてきたであろう今回のこと。どういうふうに自分を納得させて、佐宗の思うところのお節介を実行する気になったのか。
 本当は知りたかったし、相談して欲しかった。
 喉を甘く噛みながら、そんな権利は俺にはないと何度も自分に言い聞かせる。幾ら惚れた相手でも、相手の抱える問題にすべて立ち入ることができると、そう思ってはいけないのだ。それは多分驕りだろう。どうしてやることもできないのは、何も他人に限ったことではない。
「……嘉瀬さん」
 佐宗の指が、俺の髪を何度か梳く。顔を上げると、佐宗の瞼がゆっくり開いた。
「俺、間違ってますかね」
「…………さあ。俺には分からん」
「そうですよね」
「だけどな」
 身体をずらし、鼻先が触れる距離で、佐宗の目を覗き込む。僅かに眼尻が吊り上がった佐宗の目が、真っ直ぐ俺の目を見返した。ほんの少しだけ充血した白目の部分。漆黒の瞳孔に、小さな俺が映っている。お前の中に俺がいる、一瞬でもそんなふうに思ったと口に出したら、佐宗は多分鼻を鳴らすだろう。
「少なくとも、お前はこの件で自分に白けることはねえだろう」
「…………」
 見開かれた佐宗の目が、ゆっくりと逸らされた。
「俺は、大黒も長谷もどうでもいい。それでお前が少しでも楽になるなら」
 手を伸ばし、佐宗の顎を捕まえた。天井のダウンライトが佐宗の右眉の上を明るく照らす。俺に文句を言う時に、そこが僅かに上がる癖が好きだった。
「もういいじゃねえか。そろそろ俺に集中しろよ」
「——腹いっぱい食ったら眠くなってきました」
 数秒黙って、佐宗は仏頂面でそう言った。
「だったらベッドに運んでやるよ」
「枕が変わると眠れませんし、俺には二本の脚がついてます」
「朝まで眠らなきゃいいんじゃねえか」
「そういう表現、使い古されたとか、手垢がついたとか言うやつじゃないですか。がっかりですね、あんたには」
「いつもの調子が出てきたじゃねえか、佐宗。なあ?」
 俺が言うと、佐宗は一瞬言葉に詰まり、睨みつけてきた。そんな顔をして見せたって、可愛いだけだというのに分かっていない。もっとも、可愛い、というのは外見の話ではないのだが。
「俺の創意工夫がどれだけのもんか、身体で証明してやろう」
「要りませんよ」
「嘘つけ、嬉しいくせに」
「さあ、どうでしょう」

 人は変わる。良くも悪くも、そして多かれ少なかれ。
 佐宗があの時自分に感じた無力感と憤りを払拭できたのかどうかは俺には分からない。ただ、手の甲でなぞった輪郭が、一瞬やわらかく緩んだのは、多分幻ではないだろう。
 その瞬間、俺がまた一層佐宗に惚れたのも、多分幻ではないのだろう。