群青走駆 9

 ロザリーヌは夕食を用意する、と言ってカエンを空き部屋のひとつに押し込めた。ヴァレリーはおとなしくしているのか、今のところ廊下の端から騒ぎは聞こえてこない。手持無沙汰でうろうろ歩き回っていたらドアが開いた。振り返ると、華やかな笑みを浮かべたベアトリスが立っていた。
「まあ、まるで檻に閉じ込められた動物のようじゃないの、カエン」
 ほがらかに笑い、ベアトリスは持っていたパンの籠をテーブルの上に置いた。彼女の後から部屋に入ってきた賄婦らしき女はむっつりしたままシチューの鉢をテーブルに載せ、前掛けのポケットから木のスプーンと果物をいくつか取り出して乱暴に置くと何も言わずに出て行った。
「俺は彼女に何かしたか?」
「いいえ、怒っているわけではないの。彼女は食材意外目に入らないから、愛想笑いしようなんて思いつきもしないだけよ」
 ベアトリスはにっこり微笑み、椅子のひとつに腰を下ろした。瞳の色と同じ、緑色のドレスがさらさらと床を擦る。燃え立つような赤毛に緑の瞳、まろやかな白い肌には微かにそばかすの痕がある。
「うろうろ歩き回るのをやめて、座って頂戴。シチューは絶品よ。食欲がなくても食べておいたほうがいいんじゃなくて? 傭兵さん」
「ああ——」
「後であなたの傭兵さんにも同じものを届けるわ。食べてくれるかどうか分からないけれど」
 ベアトリスはしかめ面のカエンを見て苦笑した。
「ロザリーヌから話を聞いたわ。あなたはお得意様だったから残念」
「……それは、すまないな」
「途中でマリアンヌが来てくれたから代わったの。ほとんど洗い終えていたけど——もう逃げ出さないと思うわよ。そんな元気なさそうだったもの」
 ベアトリスは華のような笑顔を見せる。カエンはスプーンをシチューに突っ込んで掻き混ぜた。生家でそんなことをすれば家令のサラールがすっ飛んできただろうが——家令は使用人の監督が仕事だが、サラールは子供たちの監督も任されていた——、今はベアトリスが眉を顰めただけに終わった。
「いやあね、カエンったら」
 腹立ちまぎれの不作法で多少溜飲が下がったところでシチューを口に運ぶ。確かにそれは素晴らしい味がした。
「俺は厄介な荷物なんか捨てて、シチューのためだけに彼女と愛のない結婚をするかもしれん」
「残念ね。あなたは彼女のお眼鏡には適いそうもないわよ」
 カエンは肩を竦め、パンをちぎって口に入れた。ベアトリスは頬杖をつき、カエンの顔をじっと見た。
「彼……あなたの傭兵さんは何て言ったかしら? マリアンヌのお客さまよね。ええと、ヴァル?」
「ヴァレリー」
「ああ、そうだわ。マリアンヌ、あの子、実は彼に首ったけなのよ。アレシア山より高いプライドを持ってる子だから、本人には気付かれないようにしているけれど。いつか彼と一緒になれるかも知れないって夢を見てたのよ。夢が壊れて残念だし、可哀相だわ」
 カエンはシチューを口に運ぶのを止め、ベアトリスの視線を受け止めた。彼女の淡いグリーンの瞳が一瞬揺らめき、そしてまた、揺るぎないものへと変わる。仲間への愛情がヴァレリーへのささやかな敵意を産んだのか、それとも、ヴァレリーをマリアンヌの手から奪い取ろうとしているカエンへの敵意へ変わったのか。どちらも的外れかもしれないが、彼女の胸の内など分からない。
 ヴァレリーは、間違いなくマリアンヌの想いに気付いているだろう。だが、多分、それを悟られることはしていまい。今なら分かるが、ヴァレリーにとって娼婦は捨てた過去、捨てた自分の一部なのだ。生活のために身体を売った屈辱は、未だにヴァレリーを苦しめているのだろう。
 ヴァレリーの境遇と『深紅の薔薇』の女性たちの境遇はほんの少し違うかも知れない。もしかすると、何の違いもないかもしれない。矜持のあるなし、諦め、希望。何がどれだけ似ていてそうでないのかは、決して誰にも分からない。いずれにしても、ヴァレリーが彼女たちを娶ることだけはないのだろう。
 そうベアトリスに言って聞かせたところで意味はない。カエンはベアトリスから目を逸らし、シチューの残りをスプーンで掬った。
「君が怒っているのは分かるが、どうしようもない」
「怒ってはいないわ」
 ベアトリスの声は静かで、責めるような響きはなかった。
「あなたが男に興味を持ったことがないのは私もよく知ってるのよ、カエン。それなのに……そうね、あなたが気晴らしとか、物珍しさで彼を我がものにしているなら、マリアンヌの肩を持って何としてもあなたと彼の間を裂いたかも」
 首を傾げて微笑むベアトリスのカールした赤毛が、首筋を流れる。彼女は美しく、賢い。勿論ベッドの中でも巧みだったし、相性もよかった。女性としても人間としても好意を持っている相手だ。二度と彼女を抱くことはないだろう、今更ながらそう思うと、漠然とした寂しさを覚える。
「君は怖いな」
「男にとっては、女はみんな怖いものよ。だから、私にはできないとは思わないでね。それが正しいと思ったら、たとえ相手があなたでもやったわよ。でも、血塗れで泣いている彼を洗いながら思ったわ。ああ、これはカエンが参っちゃうのも仕方ないわ、って」
 ヴァレリーが泣いていた、という部分に驚き目を瞠ると、ベアトリスは手を伸ばし、カエンの手をそっと握り締めた。
「マリアンヌが想っている彼は、彼自身が女に見せたいと思う部分だけで創り上げた彼なのね。マリアンヌと彼はうまくいかないわ。彼は、彼女では駄目なのよ」
「……だが、俺ならいいということもない」
 そう吐きだすと、ベアトリスは綺麗に整えられた眉を引き上げた。
「随分弱気じゃないの、戦場では鬼だの悪魔だのと呼ばれるあなたが」
「呼んでいるのは俺を知らん奴ばかりだよ」
 思わず長い息を吐く。ベアトリスの親指が、宥めるように手の甲を軽くさすった。
「あなたは彼を求めているのでしょう」
「多分」
「まあ、多分ですって?」
 ベアトリスはぐるりと目を回してみせた。
「今更何を言っているのよ。彼を追いかけて市の露店を壊滅状態に追い込んだって聞いたわよ。そんなに必死で連れ戻したくせに自分の想いの強さも分からないなんて、男って本当にどうしようもないわね」
「ついこの間まではただの相棒だと思っていたんだ。確かにあいつと寝はしたが、たった一日二日で——」
「時間が問題? 彼に対する気持ちを自覚するのが早すぎると言いたいの?」
 微笑み、ベアトリスは肩に落ちた巻き毛を指先で払った。
「突然目が開かれることだってあるはずよ。あなたが彼を失いたくないと思ったならそれが正しい」
「何が正しいのか分からないんだ」
 眉を上げたベアトリスの手をそっと押しやり、パンを手に取る。
「あいつは俺から逃げ出そうと必死になってる。それに、俺のことを大事だとはいうが、それとこれとは……」
「まあ」
 ベアトリスはおかしそうに声を上げて笑った。頬に薔薇色がさし、目尻に微かな皺が寄る。こんなにも美しい女にも感じない何かをヴァレリーに感じるのは、果たして正しいことなのだろうか。そんなことを思うカエンに笑みを含んだ流し目をくれ、ベアトリスは優雅に椅子から立ち上がった。
「あなたって意外に朴念仁ねえ、カエン。彼が逃げ出そうとしてるなんて、そんなの本気じゃないに決まってるわ」
「そんなことは——」
「彼もそう思い込んでいるの。でも違うわ、心の底からではないのよ」
「どうしてそう判断できる?」
「判断はしていないわ。男とは違うもの。女はそう感じるだけ」
 ベアトリスはカエンに手を差し出した。その手を取って立ち上がると、ベアトリスはカエンの手を引き、一歩彼女の方へ——扉の方へ進ませた。
「怖いのはどちらも同じよ。怖気づいているのはあなただけじゃないわ、勇敢な剣士さん。腹ごしらえが済んだら彼を口説きに行きなさい。拒否されたからってすぐに撤退しては駄目。いいわね?」
「美しい方のご忠告とあらば」
 ベアトリスはもう一度笑い、カエンの手を離して部屋から出て行った。
 二人の女は、それぞれ違ったことをカエンに言った。他人の意見に容易く左右される性質ではないし、大事なのは自分がどうしたいかだ。分かってはいるが、正直迷う。理性はロザリーヌの言う通りヴァレリーを解放しろと言い、感情はベアトリスの言うようにヴァレリーを手に入れろと騒ぎ立てる。どちらも筋の通った主張に、同時にどちらも間違った主張に思えた。
 カエンは腰を下ろし、機械的にシチューを口に運びながら、ヴァレリーと己の本心へと思いを馳せた。

 椅子の上で目を覚ましたカエンは、部屋の扉に視線を向けた。
 シチューを平らげた後、結局ヴァレリーの様子を見に行くことはしなかった。混乱した内心を落ち着かせようと部屋の中を歩き回れば目は回るし頭の回転は止まる。そう思って椅子に腰を下ろし、考え事をしながら壁を睨みつけていた。そうこうしているうちにいつの間にかうたた寝をしたらしい。蝋燭が燃え尽きた部屋は暗くなっていた。
 微かな物音や気配でも目が覚めるのは傭兵なら誰でも同じ。ドアが音もなく開くのを見つめながら、カエンは組んでいた脚を解いた。鎧戸は閉めていなかったから、弱い月明かりがぼんやりと室内を照らしている。ヴァレリーの来ているシャツの白が闇の中に浮き上がるのを眺めながら、カエンはゆっくりと身体を起こし、凝ったうなじをさすった。
 見張り——ヴァレリーの部屋の前の、だ——を任せていたルーは、とうに元の仕事に戻らせていた。今更こっそり脱け出すことはヴァレリーの良心とプライドが許さないだろうと思ったからだ。推量する材料は少なかったが、その程度には相棒のことを知っていた。
 カエンは猫のように歩み寄るヴァレリーの灰の瞳の、その底まで見透かそうと目を凝らした。表情のない美しい顔。薄いシャツの下に透けて見える腕の輪郭。弱い月明かりに照らされ、淡い銀色に見える栗色の髪。
 ヴァレリーは一言も発せずにカエンの前まで来ると、左手をゆっくり上げた。剣を握るとは思えないほっそりした長い指が、カエンの顎の骨を伝う。掌が首筋を覆い、指がうなじに食い込んだ。カエンの開いた脚の間に立ち、ヴァレリーはカエンの首をそっと抱いた。吐息がカエンの髪を揺らす。落ち着いた呼吸と鼓動が部屋の静寂の中、耳に響いた。
「……正解は、どれだ」
 カエンが呟くと、ヴァレリーが身じろぎした。
「突っぱねればいいのか、怖気づいて逃げだせばいいのか、欲望のままお前を抱いて、所詮目新しい快楽目当ての愚かな男と思われればいいのか」
 ヴァレリーは答えない。カエンはヴァレリーの腰に手を回した。反射的に腰を引きかけたのか、ヴァレリーの筋肉が縮み、一瞬後に力が抜ける。その瞬間、カエンはヴァレリーを力いっぱい突き飛ばした。
 後ろによろめいたヴァレリーを追うように立ち上がり、あっという間にその胸倉を掴み上げた。ヴァレリーを押しながら壁まで突き進み、激しく壁に叩きつける。ヴァレリーが獣のような唸り声を上げてもがいたが、カエンの方が体格も、膂力も優っていた。
「それとも、こうすれば俺が呆れて背を向けると思ったのか」
 ヴァレリーは答えず、沈黙は肯定であるこということを証明した。ヴァレリーにしては回りくどいが、気持ちは分からないでもない。黙って去ったのに追いかけて来たのだから、同じことをしてもまた追いかけてくると踏んだのだろう。
 カエンはヴァレリーの腕を掴み、その顔を覗き込んだ。美しい顔には表情がない。
「ヴァレリー」
 返事はなかった。血塗れで泣いていた、というベアトリスの言葉が蘇る。自分もその場にいたかったとふと思う。
「耐えられなくなったら、お前が殺せ」
 カエンが真正面から見据えて言うと、ヴァレリーの灰色の瞳が眇められた。間近で覗き込んだ双眸には、青や緑、茶色の筋が入っている。結氷した湖はこんなふうに見えるのかも知れない。氷の向こうの水や藻が陽を受けて煌めき見る者を誘うのなら、その光景は、さぞかし魅力的に違いない。
「何だって?」
「俺の死体を探してうろつくのが嫌なら、いつかそうなると怯えるのに疲れたら」
「…………」
「耐えられなくなったら、お前がその手で俺を殺せ。だから、それまでは傍にいてくれ」
 ヴァレリーはゆっくりと目をしばたたき、カエンは小さく息を吐いた。