行動で10のお題 09

09 引き留める

「ちょっと!」
 腕を掴まれ無理矢理向きを変えさせられて驚いた。
 会社帰り、駅までの道のり。残業はしたが、まだ宵の口だ。人通りは多く、周囲の顔なんか見てもいなかった。だから、声をかけられても気づかず通り過ぎようとしたらしい。
「ああ……」
「あ、悪ぃ」
 気まずそうな顔をしてぱっと古河の手を放したのは藤代だった。野良猫を思わせる吊り上がり気味の大きな目。初対面のときは古河を試すように光っていた。部屋の前で古河を抱きすくめたときは、なぜか頼りない表情を浮かべていた。そして、今は何の害もなさそうな男に見えた。
「ああ、気づかなかった」
「ぼーっとした顔で歩いてた」
 藤代はちょっと笑って、ええと、と言ってから口ごもり、少しだけ強張った表情で話し出した。
「んーと、こないだのこと謝ろうと思ってたんだけど、電話で話すことでもねえし、でもだからって呼び出すのも図々しいかと思って迷っててさ」
「謝ってもらわなきゃいけないことはねえけど」
「……ちょっと話せないかな。立ち話でいいから」
 古河が肩を竦めると、藤代は歩道の古河の側へ寄ってきた。自分が車道側に立ち、古河と向き合う。こういう気の遣い方は、どことなく高木を思わせた。
「この間は色々とすみません」
 藤代は軽く頭を下げてそう言って、手の甲で鼻先を擦って目を伏せた。
「俺……あの時古河さんに言ったことは冗談とかじゃなかったけど、でもやっぱり、なかったことにしてもらえないかな。こんなこと、頼める立場じゃないけど」
「……」
 古河が何も言わなかったのは、もしかしたら高木が何か言ったのかと考えていたからだった。藤代は古河の表情を正しく読み取ったらしく、苦笑した。
「新からは何も言われてねえよ」
「そう」
「うん。あれから何回か会ってはいるけど、別に何も言ってこねえし、俺も」
 藤代はあたりをちらりと見やって煙草を取り出した。路上喫煙は勿論禁止だが、せめて吸わねば話せないという気持ちはよく分かる。
「俺……友達なのに、あいつのこと傷つけたなあって思ってさ」
 煙を空に向けて吐き出し、藤代は語を継いだ。
「古河さんのことすげえ気になんのはほんとだし、このまま突っ走って玉砕すんのもアリかなとは思うんだよ。っていうか、そういうつもりでいたんだけど……だけど、止めとく」
 何と言うのが適切か分からなかったから、古河は黙ったままでいた。藤代は答えを期待していたわけではないらしく、すぐに続けた。
「色々考えてみたら俺、自分でも信じらんねえんだけど、新との友情ってやつのほうが片思いより大事みたい」
 藤代はにっこり笑った。それが強がりなのか違うのか、判断する術はない。それに、藤代の本音がどうであれ、結果が変わるわけでもない。
「仲良くて羨ましいな」
 本心から言ったら、ちょっと首を傾げて古河の顔を数秒眺め、藤代はにやりと笑った。
「古河さんが嫌じゃなきゃ、今後、俺と仲よくしよ?」
「……オトモダチとしてな?」
「うん、そういうこと」
 藤代が煙草を指先で摘み、身体の脇に垂らす。何となくそれを目で追いながら、古河はポケットに手を突っ込んだ。
「……この間、どうもなってねえっつったけどさ」
「え? ああ、新と?」
 別にこのまま黙っていたっていいことだ。それに、高木がどうやって伝えるのかも分からないから余計なことを言いたくはない。だが、古河からきちんと伝えるのが礼儀であるとも思って続けた。
「ああ。嘘吐いた」
 タイヤがアスファルトを踏む音がやたらと耳につく。藤代は穏やかな目を古河に向け、頷いた。
「うん。それは分かってた」
「正直に言わねえで、ごめんな」
「なかったことにしてって言ったの、俺だよ?」
「それでもな」
「古河さんて……」
 藤代はそれだけ言って暫し押し黙り、煙草を銜えたまま煙を吐いた。
 古河が手を差し出すと眉を寄せ、少し考えて煙草を差し出した。受け取った吸いかけの煙草を吸い付け、ゆっくりと煙を吐く。紫煙の向こうで暫く迷うような目をしていた藤代は、突然力を抜いて小さく笑った。
「俺も、引き留めてごめんね」
 俯いて煙を吐く古河の横顔を掠めるように藤代の声がして、遠ざかる足音が耳に届いた。

 

 藤代に引き留められた後、飯を買おうと駅近くのスーパーに入ったところで榊からの着信があった。高木と一緒で、これから飲むから来ないかという誘いだった。藤代も誘ったが、別の宴会があると断られた、と榊は言った。
「今駅んとこのスーパーで、飯買って、ちょうどレジ終わったとこだから」
 何も入っていない買い物籠に目を落としながら、古河は答えた。
「今日はやめとく」
「そっかあ。じゃあ今日は新と二人で飲むわ」
 電話を切り、ビールと総菜コーナーで適当に選んだ弁当と、日用品を買って部屋に戻った。ビールを飲みながら半分くらい食った弁当はそれ以上腹に入らず、後片付けをしてもう一本ビールを開けた。
 飲みに行けばもっとマシなものを食えただろうが、このタイミングで、高木と榊と、三人で飲む気はしなかった。
 床に座ってベッドに頭を預け、だらしなく脚を放り出す。二本目のビールを飲みながらたまたま放映していたアクション映画をぼんやり眺めていたら、いつの間にか目を閉じていた。

 何かの音がする、と思いながら目を開ける。インターフォンが鳴っているのだと気が付いて、古河はよろよろと立ち上がり、目を擦りながら玄関に出てドアを開けた。
「おい、誰か確かめもしねえで開けんなよ」
 ドアを開けた途端不機嫌面が現れて、不機嫌な声でそう言ったから、古河も不機嫌に鼻を鳴らしてドアを閉めた。鍵はかけなかったからドアはあっさり向こうから開けられて、さっきより二割増しで不機嫌面の高木が玄関に入ってきた。
「閉めんなっつの」
「俺んちだし」
「ああ、そうだな。お前の部屋だからお前が不用心にドアを開けたって閉めたってそんなのお前の勝手だけどな、こんな夜中に誰か訊きもしねえで鍵開けて、不審者だったらどうすんだよ?」
「はいはい」
「適当な返事すんな。真面目に言ってんだからな」
「分かったよ……上がんねえの?」
 三和土に突っ立っている高木を振り返って訊ねると、高木はいや、と首を振った。
「明日朝から出張だから。日帰りだけど、集合早えから寝ねえと」
「そう。じゃあ何しに来たんだ」
 本気で不思議に思って訊ねたら、高木に両腕を掴まれて引き寄せられた。上がり框の端っこで何とか踏ん張ったら、古河の裸足にようやく気が付いたのか、高木が一歩前に出る。玄関の段差のせいで、目線がほとんど同じ高さになった。
「会いたかったから」
「……」
 真正面から見つめられて息を飲む。
 軽く触れるだけの唇がもどかしくて、物欲しげに掠れた声が漏れた。重なる唇から高木の低い笑い声が漏れ、差し込まれた舌の感触に古河の唇から喘ぎが漏れる。
「明日、用事あるか?」
「ねえけど……」
 続く言葉を飲み込んだ。高木は続きがあるのかという顔をして少し待っていたが、古河が黙っていたら小さく笑って古河の腕から手を離した。
「じゃあ、仕事終わったら電話する」
 名残惜し気に離れながら囁いて、高木は静かに出て行った。
 帰ろうとする高木を引き留めたいと思ったのは、多分、初めてのことではない。けれど、自分にだけでも、認めたことは今までなかった。
「……そんだけなら来んなよ、中途半端に煽ってさっさと帰りやがって」
 喉元まで出かけた言葉を胸の内で小さく呟く。
 もう少し、ここにいてくれ。
 閉じたドアの前で暫くそうして突っ立ったままでいて、古河はそっと溜息を吐いた。