行動で10のお題 08

08 走り回る

 高木はアパートの入り口に凭れ、いい加減胸が悪くなってきたと思いながら、また新しい煙草を銜えて火を点けた。
 古河に連絡はしなかった。どうせ携帯の電源は切れているだろうし、今更仕方ない。そこら中走り回って探したところで見つかるものでもないのだから、ジタバタするのは胸の内だけで十分だ。
 冷静になる時間だけはたっぷりあった。自分が何をしでかしたか、どうして古河が飛び出していったかも、今なら分かる。多分、分かっていると思う。
 明るすぎて星も見えない夜空に煙を吹き上げる。煙は揺れながら立ち上り、いつの間にか消えていった。
 煙草を吸いきり、咳き込みながら一杯になった携帯灰皿に吸殻を押し込んでいたら、車が停まった音がしたので顔を上げた。少し向こうに停車したタクシーがやがて走り去り、人影が近づいてくる。ゆっくりと歩いてきたのは古河だった。
 顔を見たら、まず言おうと思っていた言葉が何か分からなくなった。普段と何ひとつ変わらない古河の佇まいには誰の痕跡もなく、それでも洗いざらしの髪とネクタイのない襟元が、何があったのかを突きつけた。
 歩み寄る古河の腕を引っ掴む。古河は低い声で抗議したが、抵抗はしなかった。アパートに戻り四階まで物も言わずに階段を上がり、一瞬躊躇ってから古河の手を放す。逃げ出したら追いかければいいだけだ。今度こそ。
 部屋の鍵を開け、古河の手を引く。繋がれた手に目を落とした古河が視線を上げて高木を見た。手を引っ張って古河を引き寄せ、掻き抱く。ドアが高木の身体に引っかかって半開きのまま止まった。
 ドア枠に古河を押し付け全身で押さえ込み、やたら上品で華やかな香りがする古河の髪を掴んで唇を重ねた。
 足音がして、古河が腕を突っ張り逃れようともがく。
「おい、高……誰か来るって!」
 押し殺した声で言い、古河が高木の脛を蹴る。
「だったら何だよ?」
「ドア開いてんじゃねえか! 見られんだろうが」
「……だったら何だよ?」
 そう呟いて古河の顎を掴み、さっきより深く口付けた。すぐそこまで足音が近づく。女のものではないから、隣に住んでいる同年代の会社員だろう。
 高木は身体の向きを変え、逃れようとする古河を抱いたまま、古河が身体の陰に隠れるように廊下に背を向けた。見られたって構わないと思ったのは本当だったが、それより古河を誰にも見せたくなかった。
「あ、こんばんは」
「こんばんは」
 足音はやはり隣の住人だった。高木が挨拶を返すと、お隣さんはそのまま自分の部屋に消えた。高木が後ろ手にドアを閉めで鍵をかけると、身体を硬くしていた古河が小さく息を吐いた。
「お前な、どうせ隠れんなら最初から……」
「お前が何か足りねえとか悪いとか、そんなことはひとつもねえよ、古河」
 何か言いかけていた古河は口を噤み、訝しげな顔をした。
「お前のこと好きだっつってからも女と寝たり、フラフラしてんのは俺の方じゃねえかって……それに、井上さんと何もなかったって日からこっちも、結局お前は俺だけで」
 指を伸ばしてその頬に触れる。
「俺のこと何とも思ってねえなら、多分あそこで終わらせてたよな?」
「……多分な」
 低く掠れた古河の声。高木は、古河の頬から喉に指を滑らせ言った。
「狡かったな、俺」
 古河の激高を目の当たりにしてようやく冷えた頭で考えれば、そういうことだ。
 臆面もなく好きだと言い募ることは意外に簡単だ。一遍口に出してしまえば、尚の事。自分の気持ちを押し付けるだけなら、幾らだって強気でいられる。
 だが、一度だってはっきり古河の気持ちを訊ねたことはなかった。怖かった。だから、しらばっくれて、確かめなかった。
 古河は僅かに首を傾げ、首筋に触れる高木の指を掴んだ。
「何で訊かねえの」
 真っ直ぐ見据えてくる古河の目を覗き込みながら、高木は暫し押し黙った。セックスした後の古河の顔は知っている。だが、今目にしている顔は高木の知っているそれとはまったく違っていた。誰かと寝た後なのだとは思えない、平素と変わらない古河の表情。
「何で俺に、どう思ってるか訊かねえの? なんで……自分だけ見てろって言わねえの」
「臆病だから」
 口元を歪めて呟いたら、古河はゆっくり瞬きした。
「何とも思ってねえって、俺だけが特別なわけじゃねえって言われんのが怖くて……始めたのは俺なのに、大事なとこ全部お前に押し付けようとした」
 そう続けた高木の指を古河が口元に運んでそっと口付けた。たったそれだけなのに、背筋を這い上がった何かに高木はぶるりと身震いした。
「……別の男とやってる間、ずっとお前のこと考えてた」
 古河は高木の指先を甘く噛みながら言った。ただ指先に触れているだけなのに、古河の目の縁がうっすら赤く染まる。
「今俺に入ってんのが、お前ならいいって……」
「もう誰にも入れさせんな」
 咄嗟に言ったら、古河の瞳がじわりと濡れた。
「本当は誰にもお前を見せたくねえ。縛って繋いで閉じ込めちまえたらいい」
「……犯罪じゃねえか、それじゃ」
「合意なら犯罪じゃねえよ」
 三和土に突っ立ったままだと思い出し、靴を脱ぎ捨てながら上がり框に上がって古河を無理矢理引き上げた。土足で引っ張り上げられた古河が文句を言いながら靴を脱ぐ。古河の腰を引き寄せ、壁に身体を押し付ける。覆いかぶさって古河の脚の間に身体を捻じ込み、顔を寄せて囁いた。
「俺のことどう思ってんだよ?」
 正直、ありったけの勇気が必要だった。唇の端を歪め、精一杯笑みを浮かべて見せる。古河は小さく震え、潤んだ瞳で、それでもやっぱり古河らしく言った。
「訊くのが遅え」
「どうなんだよ」
「何で俺がキレたと思うよ?」
 古河は高木のうなじを両手で掴んだ。
「お前、疑ってばっかで……俺のことも、自分のことも」
「……」
「俺はもうお前しか見えてねえのに」

 

 壁に押し付けた古河の服をむしり取るように脱がせて身体中に触れた。他の誰かが触れた記憶をすべて書き換えると宣言して。
 散らばった服の上に押し倒した古河の物を掴んで食らいつく。古河はいつも通り嫌がって、高木の髪を掴んで無理矢理引っ張った。
「高木……っ! やだって……」
「ここだって触ったんだろうが、そいつが」
 古河は答えなかったが、別に否定もしなかった。
「言ったろ、全部上書きするって」
「でも、だから……そこで喋んなってっ」
「……そういや、何で嫌がんのかって、これは前から何遍も訊いてるよな?」
 高木が首を傾げて言ったら古河はぐっと詰まって唇を引き結んだ。意地悪な気分になって古河を見たままべろりと舐める。古河は目を伏せ小さな声を漏らした。
「何で目ぇ瞑んだよ。俺にだけ言わせんな」
 それとこれとは話が違う。それこそ狡いと思ったが、そのくらいの仕返しはしたっていいだろう。
「嫌なわけじゃねえよ別に……お前だと何か」
「何か、何だよ」
 それ以上言おうとしない古河を攻め立てる。身体中散々弄られ焦らされた古河が高木の首に縋り付きながらようやく悲鳴みたいな声を上げて観念した。
「分かったって……! 言うって、言やいいんだろっ」
 やけくそみたいに古河は喚いた。
「お前に食われてるみてえだって思ったらもうたまんねえんだよ! 全部お前の好きにしてくれって差し出したくなんだよ! だけどな、そんなこと認めたくねえに決まってんじゃねえか、お前に突っ込まれたら信じらんねえくらいイイとか挙句嬉しいとか!? だからっ」
 耳の中でごうごうと音を立てる血の流れ。古河の匂い、絡めた指の骨の硬さ。何もかもが一緒くたになって押し寄せる。もう他の誰ともすんじゃねえぞと言いながら、古河の中に己の一部を深々と突き立てる。合意であろうとなかろうと、他人の領域を侵していることに変わりはない。当たり前のように男のもので身体の中を捏ね回されて、古河の何かが傷つかなかったはずはない。それでも古河は高木にしがみついて身悶え、掠れた声で何度も分かった、誰ともしない、とうわ言のように繰り返した。
 浅い息の合間、好きだ、と囁く。お前は、と訊ねたが、声が枯れて結局音にならなかった。古河が焦点の合わない瞳を彷徨わせ、何かを探すように手を伸ばして、高木の腕を強く握った。

 今日何遍シャワー浴びたっけな、という古河の独り言に銜え煙草で「もっぺん浴びるか、今度は一緒に」と返したら蹴飛ばされた。
「着るもんねえんだな、そういや……」
 素っ裸のままバスタオルで髪を拭きながら古河が呟いた。
「ああ、スーツだったし、皺になってるしな。吸ったらお前の部屋から取ってきてやるから鍵貸せよ」
 高木が言うと、古河はくしゃみをした。
「持ってねえ」
「は?」
「鍵、鞄の中に入れっぱなしで」
「ああ? 泊まってきたら明日の朝どうするつもり……」
「ねえもん、元々そんな気」
 バスタオルで隠れて顔が見えない。端をつまんで捲りあげたら古河はにやにやしていた。バスタオルごと頭を引き寄せヘッドロックをかけたら古河が声を上げて笑い、高木の腕を押しやった。
「止めろっつの」
「……なあ」
 高木はベッドの古河の隣に腰を下ろして横から顔を覗き込んだ。
「お前さ、出てくとき泣きそうな顔してたよな?」
「してねえよ」
 すっとぼけた顔をして古河は言ったが、退く気はなかった。
「嘘吐け、してただろうが。何でだよ?」
 古河は高木の煙草を掠め取って吸い付け、煙を吐いた。
「してねえって」
「してた。何だよ、今更誤魔化すな」
「お前には言えねえ」
「何で」
「いいだろ、もう。忘れろよ」
「よくねえだろ。俺のせいなんだから。何であんな悲しそうな顔」
「悲しかったからに決まってんだろ」
「だから理由を言えよ」
「言えねえよ」
「言えって」
「……ほんとに聞きてえのかよ?」
 古河は鼻と口から煙を吐き、ついでに溜息も吐いて高木の顔を見た。
「早く言えって」
「……あのなあ……お前があんまり不甲斐なくてな?」
「……」
「デカいなりしてまったく小せえ野郎だなと思ったら悲しくなったんだよ俺は」
「……」
「情けねえっつーか、女々しいっつーか。でもな、さすがにそれはお前に言えねえなあと思ったんだよ、幾ら俺でも」
「……分かった。もういい、俺が悪かった」
「だから言えねえっつったのによ。人の気遣い無駄にしやがって」
「もう言葉もねえよ」
 項垂れた高木の肩に何かが触れる。顔を上げたら古河が高木の肩に頭を載せていた。
 まったく、と高木は内心呟き、小さく溜息を吐いた。どっちが男らしいんだか分からなくてこっちこそ悲しくなるが、そういう古河に惚れたのだから今更だ。
「……古河」
「うん?」
「……今度もし俺が情けねえ言動でお前を怒らせて、お前が飛び出してったら走り回って探すから」
 腕を伸ばして剥き出しの骨ばった肩を抱き寄せる。
「絶対見つける」
「うん」
 古河は子供のようにこくりと頷く。柄にもなく甘ったるい気持ちになって、高木は古河の髪に頰を寄せた。
「なあ、高木」
「何だよ……」
「……早く服取ってきてくんねえ?」
 そう言って、古河はでかいくしゃみをした。