行動で10のお題 10

10 キスをする

「あ」
 部屋に入りかけた古河が顔を向けると、隣人が立っていた。
「あ、どうも」
「こんばんは。一週間やっと終わりましたね」
「ああ、そうですね」
 細身のスーツの隣人がビジネスリュックを背負ったまま手を後ろに回して器用に鍵を取り出すのを見ながら、古河は適当に返事をした。帰宅のタイミングが被ることが多いこの男の名前は知らない。知っているのは高木の隣人だということだけで、向こうが知っているのも多分、古河が二階の住人で、高木の知り合いだということだけだ。
「それじゃ」
 古河が言うと、隣人は感じよく微笑み、会釈して寄越した。高木の部屋に入ってドアを閉める。上着を脱いだ高木がこちらを向いて僅かに首を傾げた。
「お前今隣の奴と喋ってたか?」
「ああ、いや、喋ってたっつーか、挨拶しただけ」
「知り合い?」
「知らねえよ。たまに帰り、下の入り口で一緒になるから顔知ってるだけ」
 だからこの間、お前にキスされてるとこなんか見られたらまずいと思ったんだと言いかけたが、やめておいた。出張から帰ってきた直後からのあれやこれやはまだ色んな意味で生々しすぎて、思い返すと落ち着きを失くしてしまいそうだ。
「じゃあこれ、ここに置いとくからな」
 古河はぶら下げていたビニール袋を床に置いた。同僚に押し付けられたゴーヤが数本入っている。嫁の実家が沖縄で、山ほど送られてきたらしい。旬ではないから小ぶりだが、それでも数本になると結構な嵩だ。独身男がもらって困る野菜の筆頭といっても大げさではないゴーヤを抱えてどうしたもんか悩んでいたら、たまたま帰りの電車で一緒になった高木が少し考え、当てがあるから引き取ってやると言うから持ってきた。
「帰んのか?」
 駅近くの居酒屋で飯を食って、話しながら歩いていたらうっかりついてきてしまったが、今日は元々寄るつもりではなかった。
「明日の午前中指定で宅配便が来んだよ、実家から」
「まさか更にゴーヤじゃねえだろうな」
「俺の実家沖縄じゃねえし」
「冗談に決まってんだろうが。少しくらいいいだろ」
 ネクタイを緩めながら冷蔵庫を覗き込み、高木が言う。まあ、確かに今すぐ寝ないと起きられないということもない。
 玄関に鍵をかけて靴を脱ぐ。高木がビールの缶を放って寄越したから受け止めて、ローテーブルの前に腰を下ろした。煙草を取り出し、火を点ける。
「食うもんは?」
「要らねえ。腹いっぱい」
「あの程度でか? お前真面目にもう少し食ったほうがいいぞ、古河」
 高木は溜息を吐きながら古河の向かいに腰を下ろしてビールの缶を開けた。
「けど、ゴーヤをお前に持たせても食わねえって分かってるだろ、会社の奴も」
「女子に配るつもりで持ってきたらしいぜ。それが一人熱出して急に有休取ったもんだから余っちまったんだってさ」
「ふうん」
「やっぱ女くらいだよなあ、ゴーヤもらって食うのって」
 銜え煙草でビールを開けながら言うと、高木が古河をじっと見た。
「何だよ?」
「別に」
 熱っぽい目で見つめられ、なんとなく目を逸らす。灰皿を引き寄せようと伸ばした指の先を高木に掴まれ、古河は逸らしていた視線を戻した。
「気になんだろ、俺の当て」
「灰落ちるから手ぇ離せ」
 高木は離す代わりにもう片方の手を伸ばし、古河の煙草の灰を払って自分で銜えた。
「なあ、古河」
「返せよ、煙草」
「お前にあんなこと言っといて、今更女が出てくるわけねえだろ」
 そんなことは思っていないと言いたかったが、声にする前にローテーブルを挟んで乗り出して来た高木に唇を塞がれた。
 ねっとりと吸いつき舐め回すキスにすべて持っていかれそうで、テーブルの端を握り締めて震えを堪えた。唇を軽く噛んで高木が離れる。高木はいつのまにかほとんど灰になっていた煙草を揉み消し、ネクタイを解きながら片頬を歪めて薄く笑った。

 

「あ」
 部屋から出かけた古河が顔を向けると、同じように部屋から出てきた隣人が立っていた。
「あ、どうも」
 昨日の繰り返し? と思ったが、頭が回らない。
「……いいお天気ですね」
 高木の隣人は古河を上から下まで見ながらそう言い、最後は古河の顔を見たまま固まった。
「ああ、そうですね」
 晴れているのか曇っているのかは知らなかったが一応そう答える。昨日はちょっと話でもしたらすぐに部屋に戻るつもりだったのに盛った高木に裸に剥かれ、終わった後シャワーを浴びているうちに猛烈に眠くなったのでそのまま泊まった。で、宅配便のことがあるからとセットしたスマホのアラームのせいで高木が先に目を覚まし、起き抜けに後ろから——なぜなら古河は俯せで眠るから——入れられて訳が分からないまま散々喘がされた。ついさっきようやく解放され、携帯と鍵だけ持って部屋に戻ろうと出たところで、天気なんか確認している余裕もなかった。
「それじゃ」
 何故か若干挙動不審な隣人と昨日とほぼ同じ内容の会話を交わして階段を降り、古河はでかい欠伸をしながら部屋に戻った。

 高木から電話が来たのは夕方で、ゴーヤを届けるから一緒に来い、という誘いというか命令というか、とにかくそういう話だった。
 ゴーヤの他に古河が置きっぱなしにして忘れていたスーツやらバッグやらを抱えて玄関まで迎えに来た高木はいつも通りのツラだったが、古河は朝っぱらから食らった濃厚なあれやこれやを思い返してなんだか身の置き所がないような、開き直ってしまいたいような何とも言えない気持ちになった。
 落ち着かない内心のことを忘れようと、高木と並んで歩きながらまた隣の住人に会った話をしたが、高木が古河を見下ろしながら妙な顔をしたから立ち止まった。
「何だよ」
「ばれたんじゃねえのか、それ」
「は? 何が? 飲んで泊まるくらい誰とでもすんだろ」
「けど、同じアパートに部屋あったら普通泊まんねえよな? しかもお前、俺の服着てったろうが」
 確かに、高木から借りたサイズの合わないスウェットの上下を着ていた。足元が前の日履いていた革靴で酷くちぐはぐだったがそれはともかく。
「いやでもそんなことくらいで怪しまれたりしねえと思うけど」
「……お前、俺とやった後どんなツラしてっか分かってんのか?」
 高木がにやにやしながら言ったが、自分の顔なんか見えないから知るわけがない。
「まあ、別にいいか、知れても」
「いやよくねえだろ!?」
 古河の突っ込みは無視して高木はさっさと先を行き、商店街に足を向けた。昔ながらの薬局や、閉店して随分経つらしい八百屋の間を通り商店街を抜けると、居酒屋が数軒並んでいた。そのうちの準備中という札がかかった一件の引き戸を開けて中に声をかける。
「瑠美さん、います?」
「あらあ、高木くん」
 三十代後半から四十代前半と思しき女性が奥から出てきて、高木を見て相好を崩した。

 何と女性は高木の高校時代の担任だった。その後教師は辞め、旦那と居酒屋を始めたそうだ。ゴーヤは瑠美が喜んで引き取り、今日のメニューに何かしらの形で投入されることになった。瑠美は高校時代の高木の写真やら何やらを引っ張り出してきて古河に見せ、高木は普段どおり口の端を曲げて笑いながら、黙って煙草の煙を吐いていた。
 仕込みそっちのけで昔話に興じる瑠美をなんとか厨房に押し込んで、カウンター越しに無駄話をしつつ開店を迎えた。結局ゴーヤを鰹節と醤油で和えた小鉢を肴のひとつにその店で飯を食い、すっかり暗くなった道をまた高木と並んで歩いた。
 無言だったが、別に気づまりな沈黙ではなかった。程よく入った酒でふわふわしていたせいもある。アパートの前で高木が一旦足を止め、銜えていた煙草を携帯灰皿に突っ込んで古河を見た。
「お前に話してねえことがいっぱいあって」
「うん?」
 高木の顔は影になっていてよく見えない。吸いつけた煙草の穂先が赤く光るのをぼんやり眺める。
「驚くような秘密とかはねえけど、別に。ただ、自分から色々話す方でもねえし」
 さっき見た写真を思い返して古河はにやにやした。
「例えば進学校なのに高校ん時は金髪だったとか」
「白かったこともあるぜ」
「うわ、マジで? 見てえ」
 本気で言ったら高木が低く笑った。
「だから、誰にゴーヤ渡すんだとか、気になったら言えよ」
「……うん」
 キスされる、と思った。
 何の前触れもなかったが、何故か。
 アパートの真ん前だとか、人通りが少ないとは言えまだ深夜ってほどでもないとか、色んなことが喉元まで出かかって、それでも実際されたら何もかも全部おとなしく腹の底へ戻っていった。
 自分だって高木に話していないことはたくさんあるし、絶対に話さないつもりのことだって——例えばこの間寝た相手の名前とか——幾つもある。
 どんな恋人同士だって夫婦だって、ひとつ残らず曝け出して向き合うなんて無理な話で、多分そんなことは高木も分かっているだろう。それでも気になるなら言えと伝えられたことが胸を衝いた。
 一旦唇を離し、間近から古河の顔を覗き込んだ高木は満足そうに目を細め、またキスをする。高木が最後に古河の唇を舐めて身体を引き、高木の身体の向こう数メートル先に突っ立つ高木の隣人と古河の目が合った。
「あ」
「……あ」
「あ、どうも」
 高木がしれっと挨拶し、古河の煙草を取り上げ携帯灰皿に入れ、空いた手を掴み、アパートの入り口をさっさと潜る。
「コラ高木っ!!」
 我に返って高木のふくらはぎを後ろから蹴っ飛ばす。手を繋いだまま階段を上りながら、高木は楽しそうに声を上げて笑った。