行動で10のお題 07

07 抱きしめる(又は抱きしめられる)

 で、狭い玄関に立っていたでかい男を半ば突き飛ばす格好で怒りに任せて飛び出して、かっかしながら駅まで歩きなぜか電車に乗ったところで、ポケットに入っていた財布と携帯しか持っていないことに気がついた。それだけあれば十分な気もするが、家の鍵がない。
 中学生の家出みたいで気持ちが萎えたが、だからといって引き返す気はなかった。そのまま中心部まで行ってしまえと思ってぼんやり座っていたら、誰かに名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
「古河さん?」
 この時間の電車だから空いている。向かいの座席に座っている男が会釈して寄越したが、咄嗟に誰だか分からなかった。男は立ち上がり、隣には座らず古河の前に立って吊革に掴まった。長身を屈めるようにして再度会釈する。
「こんばんは」
「あ……お世話になっております」
 男は得意先の社員だった。といってももはや従業員ではない。副社長に就任したばかりで、同年代といっても形だけの役職がついているだけで実質ヒラの古河とは世界が違うから、顔見知りではあってもほとんど口をきいたこともない。咄嗟に立ち上がろうとした古河を手で制して男はにっこり笑った。
「こんな時間にどこ行かれるんですか? 仕事じゃないですよね?」
 質問は、鞄も持たずに空手で座っているからだろう。ビジネスバッグのストラップを肩にかけ、両手で吊革に掴まる。そうやって上体を屈め、首を傾げる姿は学生のようだ。上背は高木と同じくらいあって、金のかかった格好のモデルみたいな男前。それも、かなりの。表情も柔らかく、人当たりがよさそうだ。ただ、それがどこまで猫の皮なのか古河には分からない。
「ええと、ちょっと飲みに」
「待ち合わせですか」
「いえ、ちょっと腹立つことあったんで、一人で飲もうかと……ふらっと出てきちゃったんですよね」
「あ、ほんとに? じゃあ、僕と飲みません?」
 にっこり笑って隣に腰を下ろす。
「さっき妻から連絡来て、急に飲み会になったっていうから、飯どうしようかと思ってて。これから会社戻って置いてくるものあるので、ちょっとだけ付き合ってもらわないとですけど」
 微笑む男の顔をぼんやり眺め、古河は少し考えてから頷いた。

 店を選ぶのも面倒でどこでもいいといったら、まず、煙草を吸うかと訊ねられ、いかにも高級そうで洒落ていて薄暗く、客のプライバシー尊重が第一義みたいな店に連れて行かれてカウンターの奥の端に並んで座った。嫁がいなくて飯がないとか言っていたくせに、男はつまみ以外は大した料理も頼まない。
 先週テレビで放送した大企業の再生ドキュメンタリーみたいなものの話題になって、どこかの社長の半生について半分真面目に語っていたら、なんだか突然疲れが襲ってきて古河はつい溜息を吐いた。
「どうしたんですか?」
「あ、すみません。出張だったんで疲れてるだけです」
「それなのに手ぶらで飲みに出たと」
「いや、財布と携帯は持ってますけど」
「喧嘩ですか?」
「うるせえな、お前に関係ねえじゃん?」
「……」
「って、副社長じゃなきゃ言ってるとこですよ」
「言ってますよね」
 男は笑って、古河の顔に目を向け暫し視線を留めたままでいた。古河が女だったらそれだけでよろめくに違いない色艶を滲ませた目だったが、何故かそれが自分に向けられたものでないということははっきり分かった。
「何ですか?」
「いえ、古河さん見てると何となく知り合いを思い出して」
「思い出してんのが嫌いな人じゃないといいですけど」
 答えず、男はグラスの酒を口に運んだ。古河の前に置いてあった百円ライターを手に取り弄んでいる。
「で、話戻しますけど」
「はい?」
 ライターを差し出されたから何の気なしに手を出したら、ライターを持ったまま手を掴まれた。一瞬手を引っ込めかけたが、どうでもいい気分になって力を抜いた。
「喧嘩したんですか? 彼女と」
「あ? ああ、ええと、彼女っていうか……付き合ってないですけど」
「なんで?」
「……さあ」
 男の指が古河の手首をそっと撫でる。なんでこいつは俺の手を離さねえのかな、と思いはしたが、振り払うことはしなかった。
「好きって言うんですよね、いっつも。口癖みたいに。でも結構真剣に」
「古河さんはその人のこと?」
 男に掴まれていない左手で煙草を摘み、灰皿の縁で灰を払う。
「好きですよ、すごく。でなきゃ飛び出してきたりしねえし。他の奴とやってやるなんて、そこまで腹立ちませんって」
 本人を前にしたら言えないことが何故か簡単に口に出て、古河は唇を皮肉に歪めた。
「他の人と?」
「色々、ちゃんと伝わってるかなと思ってて……結局伝わってなかったのは俺が悪いんだって思いますけど、でも」
 ライターが体温で温まる。男の掌は暖かくて乾いていた。
「……自分だけにしろって、はっきり言わないんですよ。スキだって言えばそれで全方向フォローできてるみたいに。そのくせちょっと他の人間がちょっかい出してきたりしただけで、俺がそっちに傾いてるんじゃないかとか顔色変えて、他の奴と寝たのかとか本気で疑ったりしやがって」
「浮気……っていうのかな、それ。わかんないけど、したんですか?」
「してないですよ。だから、そんな疑うならいっそやってやろうじゃねえかって」
 古河が唇の端を曲げて笑うと、男は目を細めて古河を眺め、もう一度指の先で古河の手首をゆっくり撫でた。
「何で?」
「え?」
「彼のこと好きなら、なんでそんなことするんです?」
「……悲しかったから。でもそれ、あいつには言えねえし」
 彼、と言われたことには気がついたが、どうでもよかった。吐いた煙が天井に向かって立ち上り、古河は目だけ動かし煙の行方を追った。そっと目を閉じ、瞼の裏に残った煙の残像を追いかけ、またゆっくりと目を開いた。
「もう、他の誰ともすんじゃねえって言われたい」
 少し考えるような目をした後、男は古河の手首を放し、少しだけ首を傾けた。
「そういうところも似てる気がするんですよね。本当に似てるのかは分からないんだけど」
「そういうところ?」
「あと、背格好っていうか、身体つきがね。顔立ちと声は似てませんけど、遠目に見たら一瞬……」
「何ですか」
「まだ、手が届くかもって錯覚しちゃいました」
 目を細めて微笑む男の表情から束の間目が離せなくなった。
「俺としましょうか」
「……結婚されてますよね」
 いつの間にか一人称が僕から俺になっている。高木ほどきつくないが、甘すぎもしない端正な顔と仕草。独り者なら女が列をなすだろう。微かな笑みを浮かべたまま、男は指で古河の頬を軽く撫でた。
「色々あるんですよ。いつもこんなことしてるわけじゃないし……男性とは一人としか経験ないけど、古河さんとならできるかなと思って」
「……」
「俺も古河さんも、別の人のこと考えることにしませんか」
「でもそれって」
「……彼より優しくしてあげますよ」
 顔を近づけ、耳元で低く囁かれてぞくりとした。
「じゃあ、行きましょうか?」
 灰皿に押し付けられた煙草から、細い煙が立ち上ってゆらゆら揺れた。

 連れて行かれたホテルがこれまた高級な、足を踏み入れるのも躊躇うようなものだったから何となく呆れてだらしなく口を開けていたら、男は困ったように笑って、本当に本人じゃないんですよねと呟いた。ということは、過去に関係があった男というのは、古河に似ている誰かなのだろう。
 シャワーを浴びて出てきた直後からの扱いの丁寧さはだから、その人物をどれだけ大事にしていたかの表れなのだろうなと思った。
 女相手になのか、それともたった一人相手に培ったものなのか知らないが、経験豊富らしい男は巧みで、気がついたら深く繋がって喘がされていた。
「あ……っ、ちょ、んな奥……っ! こ…… 」
 続けて男の苗字を口にしたところで突き上げられて喉がつかえ、敬称を飲み込んだ。意図せずとは言え取引先の副社長を呼び捨ててしまったと会社員らしく慌てて目を開けたら、男が虚を衝かれた顔で見下ろしていた。
「いやもうなんかすげえ失礼ですみませんけどでも……! あ、あっ」
 揺さぶられて喉を反らせる古河の喉元を唇でなぞり、男は甘ったるい声を出した。
「嫌じゃなければ、さん、はなしで呼んでください。敬語もいりませんから」
「でも……っ」
「誤解したりしませんから……安心して彼のこと考えて」
 俺もそうします、と呟いた唇が重なって、古河は別の男の名前を飲み込んだ。

 

 相手が高木でないという、ただそれだけで。
 抱きしめることも、抱きしめられることも、驚くほど簡単だ。感情が伴わない単なる行為。それだけだから。
 互いの名前を呼びながら、互いに違う相手を思い浮かべて抱き締め合った身体は確かにそこにあってもどこか遠くて、現実のものとは思えなかった。