行動で10のお題 06

06 背を向ける

 井上と別れ、電車の吊革に掴まってぼんやり窓の外を眺めながら、古河はポケットの中の携帯に指で触れた。電源が切れたままの薄っぺらな筐体は、こんなものにどうしてあんな複雑なことが色々できるのかと疑うに十分な頼りなさだ。
 ケースの金属が自分の体温で温まっているのがわけもなく鬱陶しくて、ごく小さく舌打ちする。両足の間に置いた出張用のショルダーバッグも、書類で重たいビジネスバッグも、何もかも投げ捨てて走って逃げたいと真剣に思う。
 それでも結局何ひとつ捨てたりしないでいつもの駅で乗降口から吐き出され、ICカード片手に改札口から吐き出され、足を引きずるように歩いていたら、背後から「古河」と低い声が吐き出された。
 振り返ったら高木が少し向こうに立っていて、さっきと同じくらい走って逃げたくなった。聞こえなかった振りで——通用するはずもないのは分かっていて——背を向ける。
 しかし二歩だか三歩進んだところであっさりと追いつかれ、左肩のショルダーバッグの重みがふっと消えた。
 横に立った高木を見上げる。怒り出す少し手前のような顔のまま、古河のショルダーバッグのストラップを肩にかけ、古河に横目をくれると歩き出した。
「……持てんだけど、そのくらい」
「知ってる」
 寝てるからって、入れられる方だからって女扱いされたくない。そう思ったが、そんなことを道端で主張するのもなんだから、黙っていた。実際のところ疲れているから、荷物が減るのはありがたい。
 煙草と夕飯を買うつもりだったのでコンビニ前で歩調を緩めたが、高木がさっさと通り過ぎてしまったので諦めて後に続く。後で買いに出ればいい。もっとも、この後色々問い詰められるだろうから、それでも食欲が残っていれば、だが。
 高木はアパートの階段を長い脚でさっさと上り、珍しく合鍵を使って古河の部屋にさっさと入った。だが、入っていったと思ったら、高木はバッグを置いてすぐに踵を返した。不機嫌なのかどうかよくわからない無表情な顔で、古河を束の間見つめて玄関に向かう。
「高木」
 呼び止めると、高木は靴に足を突っ込みながらこちらを向きもしないで何だ、と答えた。
 黒い背広の、真っ直ぐ伸びた、すっきりした背中を見せたまま。
「疲れてんだろ。帰るから」
「そうだけど……何も言わねえのかよ」
「何が?」
 靴を履き終えこちらを向いた高木は相変わらずの無表情だ。
 出張に文句をつけられる謂れはないし、同行者だって古河の都合じゃないから責められたところで仕方ない。だが、何ひとつ言及されないというのも気になった。
 別に後ろめたいことも疚しいこともないんだから気にしているのは俺じゃない、と胸の内で何かに弁解する。電話口であんな声を出したくせに本人を目の前にしたらどうでもよさそうな顔をするなんて、自分でなくても気になるはずだ。
「出張のこと、言われんのかと」
「お前が言わせねえんだろ」
 高木が低い声を出し、古河は足元に落とした目を上げた。
「え?」
「この間から。謝って、その後ちゃんと話そうとしたけど、聞こうとしねえじゃねえか」
「それはだって……あのことはもういいだろ、お前は謝ったし、別に藤代とは何もねえんだから」
「それは分かってる」
「今は藤代の話じゃねえし」
「違わねえだろうが」
「何でだよ? 今言ってんのは、井上さんと出張行ったけど別に俺が選べたことじゃねえって説明したかっただけで」
「そんなこと分かってるに決まってんだろ」
「じゃあ話す必要なんかねえじゃねえか!」
 うまく伝わらないかもしれないと口に出した瞬間後悔したが、遅かった。高木の顔がすっと青ざめ、眇めた目の周囲から、無表情にひびが入る。数秒後、上手にひびを修復した高木は古河から何気なく目を逸らした。
「そうか。話す必要はねえんだな」
 今日は崩し気味の前髪の向こう、高木の睫毛が頬に薄い影を落とす。
「高木、そういう意味じゃ」
「じゃあどういう意味だよ。分かったから、もういい」
 高木があっさり古河に背を向ける。どんな顔をしているのかはもう見えない。
「待てよ!」
 高木がドアレバーにかけていた手を離す。そんなに大きな声は出していないのに、高木の肩が打たれたようにびくりと揺れた。
「話す必要がないってのは……お前なら察してると思ってたからで」
 ビジネスバッグを放り出すように床に投げ、煙草を銜えた。急いで火を点け煙を吐き出し、うまい説明が落ちていないかと足元に目を凝らす。当然そんなものはなく、目を上げたら高木の眇めた瞳が煙を透かすように古河を見ていて、その視線に煙草を持っていないほうの手が震えた。
「……察するって、何をだ」
 高木の声は威圧的で、同じくらい弱って聞こえた。
「だから……」
「だから何だ」
「だから! お前が、俺を……どう思ってんのか聞いた、ちゃんと。そんで、その上でお前と寝てんだぞ!」
 虚を衝かれたような顔の高木を睨みつけ、古河は前髪をかき上げた。
「お前のこと何とも思ってないわけじゃねえって……他の奴とは違うってちゃんと分かってると思ってたっつってんだよ。悪かったよ、勝手にそう思っててちゃんと言わなかったのは。でもよ」
 何を白状したいのか、したくないのかもう分からない。何を言っていいか分からず暫し黙り込む。煙が流れ、高木が身じろぐ。高木は感情の籠らない声で呟いた。
「寝たのかよ?」
「はあ!? 誰とだよ」
「井上さん」
「だから、何もなかったっつったろ」
「前んときじゃねえよ。昨日」
「んなわけねえだろ、仕事中に! つまんねえこと訊くな!」
 話しているうちに腹が立ってきて怒鳴りつける。
「仕事中じゃなかったらアリかよ」
「いい加減にしろ!」
 古河は床の上のビジネスバッグを思い切り蹴りつけた。
「大体お前俺に好きだ何だ言うけどよ、俺にお前以外の誰とも寝るなって言ったか!? 言ってねえよな? フラフラしないようにとか曖昧なこと言っただけじゃねえか! だったらそんなこと言う権利ねえだろ、どうなんだよ!?」
 自分の気持ちを言うことが簡単だとは思っていない。高木の努力が足りないとは思わない。それでも。
「言えば俺以外としねえのか」
「しねえよ!」
「言わなきゃすんのかよ」
「帰れこの馬鹿野郎!!」
 古河は怒鳴りながら踵を返し、キッチンのシンクを殴りつけるようにして煙草を押し潰し、苛立ちのまま声を張り上げた。
「ああもうアッタマ来た、やってやろうじゃねえか、てめえ以外の誰かとな!」