行動で10のお題 05

05 指先でなぞる

 出張に行く度にいちいち連絡したりしていない。
 会社員なんだからそんなことはしょっちゅうあるし、部屋にいなければ仕事か飲み会か何かだろうと思うだけだ。
 それが今日に限って連絡する羽目になったのは、数人で飲む約束をしていたからだ。バタバタと移動したので集合時間が迫っていて、メッセージを打つのが面倒くさかったから。それから、なんとなく電話したほうがいいように思ったからだ。
「出張?」
「そう。俺の客じゃねえんだけど、メインの担当者が季節はずれのインフルエンザに罹って。似たような顧客持ってるから、急遽ヘルプで同行になったんだ。で、泊まりだから。悪いけど今日行けねえって榊に言っといて。金は後で払う」
 すべて本当のことだ。何一つ嘘は言っていないのに、電話の向こうの男はたっぷり十秒沈黙し、低い声で「誰と?」と言った。
「……なんで俺の仕事についてお前に話さなきゃなんねえんだよ」
 抵抗してみたが、反応はない。顔が見えないからか、妙に威圧感を感じる。これだから嫌だったのだと思いながら、古河はちらりと連れに目をやった。
「井上さん」
 まだ「ん」の途中くらいで通話を終わらせついでに思い切って電源も切った。会社貸与の携帯があるから仕事には支障がない。
「高木でしょ? 怒るんじゃないの?」
 既にスーツから楽な格好に着替えた井上は、缶ビールを傾けながら小さく笑った。勿論古河もTシャツにスウェットだ。
「怒っても何してもここに現れるわけじゃねえし」
「まあね」
 明日は朝いちから先方との打ち合わせが入っている。外で飲んでもよかったが明日に響くのが嫌なので、コンビニで六缶パックを買うに止めた。二人で飲めば三本ずつだよね、と言われたときは一緒に飲むつもりではなかったが、誘われたので井上の部屋までついてきた。
 井上とは少し前にちょっとあった——いや、正確に言えばなかった——が、井上のほうに引きずっている様子もないし、勿論、古河としても今更どうこうなるものでもないと思っている。そうでなければ二人きりの部屋で飲んだりしない。
「これ開ける?」
「ああ、うん」
 おつまみの袋をがさがさやりながら、井上はベッドの上で胡坐を掻いた。古河はベッドの足元側、小さなテーブルとセットになっている椅子の上だ。
「高木とはうまくいってるの?」
「……何が」
「今更しらばっくれないの」
 井上は笑いながら言って、丸めたビニール袋を二人の間のテーブルに放る。
「あんなふうに電話切ったりしないで、別に心配するようなことないってはっきり言ってやればいいのに」
「そうなんだけど……何か」
「何か、何?」
 色々あって、と言いかけたが、色々あったわけではない。いや、あったのか。やっぱりない。
 古河はずるずるとビールを啜りながら少し考え、井上の顔をぼんやり眺めた。ありふれたビジネスホテルの狭いシングルルームで見る井上の顔は、でかいベッドのある洒落たホテルで見たときと同じなのに違って見えた。それが井上の気持ちのせいなのか、自分の気持ちのせいなのかは分からない。
 何か訊きたくてここに来たわけではなかったが、なんとなく訊ねてみる気になって、古河は井上に目を向けた。
「……あんたもそうだけどさあ」
「はい?」
 井上が呑気な声を出す。
「何で俺のケツに突っ込みたいとか思ったわけ?」
 ぶっとビールを吹き出し、井上は「ちょっと古河さん!」と言って口を拭った。
「何だよ」
 井上は身体を思いっきり伸ばしてベッド脇のドレッサーからティッシュを取った。口と手を拭き、古河に非難がましい目を向ける。
「何てこと聞くんだろうな、まったく」
「だって不思議じゃねえか」
「そうかもしれないけど、だからって……」
「なんかさあ、また一人いてさ、そういうのが。いや、そいつはそこまで考えてないな多分」
 井上は真面目な顔でビールを呷り、おもむろにテーブルの上の袋を取った。チータラをもぐもぐやりながら先を促す。
「うんうん、それで?」
「……何その子供みたいに輝いた目」
「だって気になるじゃない。古河さんのお尻に惹きつけられた一人としては」
 屈託なく笑いながら言う井上に渋面を作りつつ、古河はビールの缶を掌の上で左右に揺らした。井上に話すことを高木は嫌がるだろうな、と何となく思う。それに、あまり具体的なことを言うと、そいつが藤代だとばれてしまう。なにしろ井上は榊の姉の元彼氏で、高木も藤代も知っているのだ。
「なんかその新たに登場したやつが俺をこう、ぎゅっとしちゃってるとこに出くわして」
「高木が?」
 古河が頷くと、井上はちょっと悲しそうな顔になった。
「かわいそうに」
「何でだよ。高木は誰にも何もされてねえのに」
「だって、あんなに古河さんに本気なのに」
「知らねえけど、程度については。それにそうだとしても、俺は別に奴を抱き締め返したりしてねえから。驚いて口開けてたから間抜け面だったとは思うけど」
「それはまあ、そうでしょうね」
「なんでなわけ? 俺なんかした? っていうか何かしてんの? 知らねえうちに。思わせぶりなこととか。あんたにも」
 井上は煙草のように銜えたチータラを上下させて数秒遠い目をした。
「んー、されてないね。思わせぶりなことは、まったく」
「じゃあ何で」
「……古河さんさあ」
 銜えていたチータラを口の中に収め、井上は前髪をかき上げた。
「二人きりで部屋飲みしてるときにあんまり追及されたくない話題だけどなあ、それ。あれだけ派手に振られて今更何かするつもりはないけど、思い出しちゃうでしょ。あの時の気持ちとか、衝動とか。高木のことはもうよくて俺に手を出されたいっていうなら別だけど、そうじゃないなら止めとかない?」
 苦笑する井上の泣き黒子に目を向け、古河は煙草を銜えて火を点けた。ちなみに、古河の部屋もそうだがここは喫煙可だ。
「ごめん」
 井上は古河の顔を見て困ったように小さく笑った。
「で、それで何? また高木が怒ってるの」
「いや、その時はなんかむかつく態度だったから最初はちょっとあれだったけど、でも別に、その後は……ちゃんと謝ってたし」
「で、ちゃんと謝られたけど、その後ちゃんと話してはいないってことなのかな」
 古河は煙をぷかりと吐いて押し黙り、井上はチータラの袋を古河のほうに押しやって、ビールを呷って煙草を取り出した。
「話したくないの?」
 暫し無言で煙を吐いた後、古河は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。缶に残ったビールを空け、テーブルの上の新しい一本を引き寄せプルタブの上を指でなぞる。そのままテーブルに下ろした手で煙草のパッケージを掴んで無意識のうちに握りしめた。
「あいつはなんか話したそうだったからまあ、聞いてもいいかと思ったんだけど最初は。でもよく考えたら別に話すこともねえなと思って」
「どうして?」
「どうしてって……」
 井上がテーブルの方に身を乗り出して、灰皿の縁で穂先を払う。狭いベッドがぎしりと軋み、古河はなんとなく音のするほうに目を向けた。井上の足首のあたりを見るともなく眺める。
 気が付いたら井上がテーブルの横に立っていて、古河に屈み込んでいた。井上の指がテーブルの上の古河の手の甲をゆっくりなぞり、腕を撫でて、口付けながら頬をなぞってそっと離れた。
「見せたいなあ、高木に。今の古河さんの顔」
「……はあ?」
 不意打ちで甘ったるいキスを仕掛けてきた井上の顔はしかしどこまでも穏やかににこやかで、触れていたほんの数秒の間、発していた熱の名残はどこにもなかった。
「あと、その新しいキャラ? そいつに抱き締められたときも多分同じ顔だよ、古河さん。高木は見えてなかったか、見えてたけど動揺してて分かってないか」
「……はあ?」
 何事もなかったようにベッドに戻って胡坐を掻いた井上は、灰皿から吸いかけの煙草を取り上げた。
「ちゃんと見えてたら、古河さんが別に話すことないって思う理由、高木にも分かると思うけどね。鋭い高木らしくないのは、やっぱり本気だからじゃないの?」
「俺があんたの言ってる意味分かんねえんだけど」
「多分、高木じゃない誰に何されても、古河さんは結局今みたいな顔してると思うよ」
 煙草の煙を透かして古河を見つめ、井上は少しだけ残念そうに、目を細めて微笑んだ。
「別に何でもないって顔」