行動で10のお題 01-04

01 振り返る

 まるで、でかい地蔵である。
 古河の目の前にいるのは、晴れて横浜出張から戻ってきた高木。表情は硬く、ほとんど喋らない。一体何をしにきたかと思うのだが、別にこちらが気を遣ってやることもないから、ずっと放置したままだ。
 ビルの地階にある定食屋は、さすがに今の時間は客もまばらで静かだった。昼には酷く混み合うが、午後四時ではそれもない。もう少し遅くなると残業前の腹ごしらえ組も来るのかもしれないが、今は二人の他に客は三組。どの客も一人きりで、さぼりなのか違うのか、飲み物を前にしてなんとなく呆けた顔をしていた。
「今、時間あるか」
 もしもし、でもなく突然訊いてきた声はやたら暗い。
 アパートのドアの前で嫌な雰囲気になってからほぼ一週間。さっきようやく自宅に戻ってきたらしい、と昨日一緒に飲んだ榊から聞いていたが、本人からは電話も、訪問も一切なかった。今日になって、しかも勤務時間中の連絡に、思わず「この腑抜けが」と返したのは当然である。
「ふ……」
 電話の向こうで絶句した高木に鼻を鳴らす。
「十五分しかねえぞ。六時から打ち合わせあるから」
「わかった。じゃあ下の定食屋にいる」
 そんなやり取りからお互い黙りこくって煙草を灰にし、既に約十三分。古河は思わず欠伸をした。もっとも、欠伸の原因は単に眠気のせいだったが。
 榊と居酒屋で飯を食い、焼鳥屋で飲み、更に若者向けの安いダイニングバーで二時まで飲んだ。
 くだらない話が大半だったが何度か出た藤代の話題に顔色を変えないだけのポーカーフェイスは古河にも可能だ。といっても藤代との間に何かあったわけではない。ただ、何故か好意を持たれたらしいのだ。
 軽い言葉でさらりと終わった所謂告白も、外国人の挨拶程度の抱擁も、反応し、問い質す前に藤代が姿を消したから尻切れのままだった。すべてがあっさりしていたのは、拒絶されることを見越してのことなのかも知れない。傷つくことを恐れて自分を笑い物にする、多分藤代はそういう人間なのだろう。
 その現場を目撃し、つまらん態度で古河の怒りを買った男は、目の前で地蔵になっている。
「あのなあ」
「……」
「喋らないなら時間ねえから行くぞ」
 返事がないから立ち上がる。コーヒー代を小銭入れから取り出して、高木の前に並べて置いた。残り時間はあと僅か。それでも殊更ゆっくり並べてやったのに、結局高木は何も言おうとしない。古河は小銭入れを仕舞いつつ、高木に背を向け立ち去りかけた。
「ごめん」
 低いがはっきりした声に、古河は思わず振り返った。
 喋らないことを謝ったのかと思ったが、顔を見たら違うと分かった。
「あんな態度取って——悪かった」
 プライドや、意地や、その他諸々。
 多かれ少なかれ、男はそういうものにこだわりがちだ。つまらない性質だと思っても、そういう生き物だから仕方がない。高木は特にこだわるタイプのように見える。その印象が合っているにしても違うにしても、謝るには努力が要ったのだろう。高木の首筋は赤くなっていた。
「ああ」
 立ち去ろうとした古河の背後で、高木が息を吸った音が鋭く響く。椅子の足が床を擦る音。立ち上がろうとして止めたのか。古河はゆっくり振り返り、強張った高木の顔を見た。
「謝罪は受け入れた。もっと話したいなら後にしろ。了解?」
「古河」
「ほんとに時間ねえんだって。聞く気ないわけじゃないから。帰ったらうち来いよ」
「……分かった」
「馬鹿野郎」
 思わず吐き捨て高木に背を向ける。振り返りたかったが我慢した。
 何故もう一度振り返りたくなったのか。理由は敢えて考えず、古河はエレベーターのボタンを押した。

02 息を止める

「ああもう」
 馬鹿馬鹿馬鹿、俺の馬鹿、なんて漫画の台詞みたいなことを呟きながらテーブルに突っ伏す。
 数秒そうしてみたが状況改善のための妙案は閃かず、藤代は止めていた息を吐いて顔を上げた。
 両手で顔を擦り、瞼の裏に次々と浮かぶ顔を消してしまおうと躍起になった。
 電話する古河の顔。抱き締められて面食らった古河の顔、こちらを見つめ、固まった新の強張った青い顔。

 居酒屋で新からの電話を受けた古河は、最初のうちはごく普通の顔をしていた。ところが、暫く経ってからうろたえたように視線を泳がせ、それがたまたま藤代のそれとぶつかった。
 予想もしていなかったのに、頭を殴られたような衝撃とともに理解した。
 何を?
 改めて自問したのは古河が便所に消えてからだ。一体何を理解したのか。榊の会社の話に相槌を打ちつつそうかそうだったのかと考えて、そうだったって何だとまた考え、要するに榊の話はろくに聞かないでいるうちに、古河が戻ってきたのだった。
 もしも気を付けていなかったら、古河の様子に先程までとは違うものを感じることはなかっただろう。僅かに上気した頬や、微妙に逸らされる視線。何があったか想像はできたし、想像力が働き過ぎて難儀した。
 新が古河を見る目付き、二人の間に漂う微かな緊張感にようやく得心がいったが、分からないのは自分が古河に惹かれる理由だ。それを言うなら、新が古河に惹かれる理由だって分からないが。

 送って行くと言ったら要らない、と言われたが、古河は酔っているように見えた。
 榊はいつものことだと言ったが、下手なタクシーに当たればぼられるのではないかと思ったら、放っておけない気がしたのだ。
「そんじゃあ、送ってくれてどうも。お疲れさん」
 タクシーを帰してしまったことに意味はない。古河のアパートの傍は車通りが多かったから、すぐに捕まえられるだろうと思っただけだ。覚束ない足元の古河を支えながら部屋まで上がり、お疲れさんと告げられて、踵を返せばそれで済んだ。
「ねえ、古河さんて、新とどうにかなってるの?」
 訊ねた瞬間の古河の目付きは、完全に正気に見えた。
「どうにか? 別に喧嘩なんかしてねえよ」
 へらっと笑った古河の目は、一瞬前とは違ってどこかうつろで、微妙に焦点が定まらない。どこから見ても完全に酔っ払いの顔だったが、それが「振り」だと、藤代は直感した。
「そっか」
「うん」
「——俺がどう思うかは、俺の自由だよね」
「ん? え?」
「古河さんの言うことって、嘘かほんとか分かんないけど。新とどうにもなってないなら、俺が古河さん口説いたっていいわけだよね。拒否するのは古河さんの自由。だけど、片想いは俺の自由、でしょ?」
 回した腕の中で、細い身体が強張る。
 一体何が自分を駆り立てるのか分からなかった。新と揉めたくなんかない。あいつは大事な友達なのに。それ以前に、男相手に何やってんだか。今までこんなことは一度もなかった。例え冗談でも、こんなことは。
「……何かの冗談?」
「さあ?」
 突っ立つ古河を抱きしめて、僅かに残る整髪料の香りを嗅ぐ。食い物屋と煙草と、古河の匂い。
 古河が突然身を捩り、藤代を突き飛ばすようにして一歩離れた。

 

 ああ、俺は最低だ。
 振り返り、長年の友人の酷く青ざめた顔を見ながら、藤代は思わず息を止めた。

03 顔を俯ける

 誤魔化す。欺く。紛らわす。
 なんと表現しても構わないが、要するに、結局そういうことになった。
 だが、どうしてそういうことになったのか、高木にはよく分からない。

 腑抜け呼ばわりされて頭に来なかったといえば嘘になる。だが、自業自得と思えば腹立ちも収まったし、古河が怒る気持ちも理解できた。
 自分の不甲斐なさを改めて突きつけられて逃げ出したくはなったものの、またぞろ思い悩むばかりの日々に戻りたくはない。書類仕事をさっさと切り上げ、ずらせるアポはずらして会社を飛び出したのは定時を過ぎることきっかり三十分。さっさと部屋に戻って着替えを済ませ、古河の部屋の前に立つ。鍵はあるが、何となく勝手に入るのは躊躇われ、ポケットに手を突っ込んで壁に凭れた。
「入ってりゃいいじゃん。自分の部屋にいるとか」
 特徴のある掠れた声に鼓動が僅かに速まった。女子高生じゃあるまいし。ついつい浮かんだ自嘲の笑みを見咎めたのか古河は怪訝な顔をしたが、特別何を言うこともなく、高木を避けるようにして玄関の鍵を開けた。
「どんだけ突っ立ってたんだよ」
「一時間弱」
「不審者だと思われんじゃねえの」
「誰も通らなかった。通ったって誰も見てねえよ」
 独身者ばかりのアパートなんてそんなものだ。古河の後について玄関に入り、鍵を閉める。古河は鞄をソファに放り投げ、冷蔵庫のドアを開けながら欠伸をした。
「何か飲むか」
「いや」
 いらない、と返したら、古河はこちらを向いて何か言いかけ、そのまま口を噤んで高木を見つめた。
「——そうか」
 暫く経ってからそう言うと、古河は冷蔵庫を閉め大股で部屋を横切って来た。
 胸倉を掴まれて引っ張られ、思わず屈み込む。古河が食いつくように口付けてきて、言おうと思っていたことも、どう言おうか考えていたことも、全部まとめてどこかへ消えた。
 古河の前髪を撫でつけるように掌で頭を押さえ、仰のかせる。角度を変えて貪ったが、途中で何をしに来たのか思い出した。身体を引きかけたが、古河が小さく呻いて下唇を甘く噛んでくる。押し戻そうとしたものの、高木の服を掴む古河の手がそれを許さなかった。
「古——」
 ジーンズの上から緩く掴まれて、頭の中で綴った言葉が消えてなくなる。数歩進んで壁に押し付け、全身を密着させ舌を絡め合った。
「で」
「え?」
「でんわ」
 古河の声は普段のそれとは違った掠れ方で、語尾が溜息のように溶けて消える。
「電話がどうした?」
「お前が電話で——言ってたこと」
 目の縁を薄らと染め、古河は高木の首を引き寄せた。囁く低い声が耳朶をくすぐる。
「——この間の?」
 問いかけたらこくりと頷き、古河は高木の肩に顔を伏せた。
「してみせろよ」
「……古河」
 残念ながら、顔を見せないのは恥じらいのためだと思うほど、高木の判断力は鈍っていなかった。
「話は」
「後で」
 顔を俯けたまま身を捩り、古河はスーツの上着を脱ぎ落とした。ばさりと布が落ちる音が部屋に響く。
 電話越しに聞こえた古河の押し殺した息使い。あの時言葉で与えたそれを、指を、唇を、歯と舌を使って古河に教える。人目をはばかる必要がない今も、古河の声は抑えられ、顔は見えないままだった。
「古河」
 何を言いたかったのか、もう分からない。
 どうして古河が聞こうとしないのか分からない。
 古河が身体をくねらせ、喘ぎながら口を開き、囁いた。
「…………もう、いい」
 許されたのか、それとも弁明の機会を与えられなかったのか。
 どちらが真実なのか分からないまま高木は古河の手を取り筋張った甲にきつく口付けた。

04 髪をかきあげる

 高木の頭が上下する度、古河はほとんど泣き声かと思うような喘ぎを漏らし、内腿の筋肉を引きつらせた。
 視線を上げると、古河は目を閉じていた。眉間に皺を寄せて浅い呼吸を繰り返す。
「古河」
 呼びかけると反射的に古河の瞼が開き、視線が合うと慌てたようにまた閉じる。重ねて呼ぶと古河は渋々、といった様子で目を開けた。
「何でそう意地になって目ぇ瞑るんだよ?」
 古河は高木に銜えられるのを何故か嫌がる。
 毎度しつこく抵抗し、身体はちゃんと反応していても最中は頑なに目を閉じたままでいる。そうして高木が唇を他の場所に移動させるまで息を潜めて耐えているのだ。
 今更恥ずかしいも何もないと思うが、それともプライドの問題なのだろうか。
 少なくとも高木なら、口でしてもらったからといって自尊心は傷つかない。高木が俺のを銜えろと強要したというなら話は別だが、そうしたことは一度もない。以前何度か訊ねてみたが、答えは返ってこなかった。
 そういうわけで、高木としても別にどうしてもやりたいということもないから無理強いしない。
 いつもなら。
 微妙に焦点が合わない古河の目を見つめながら舐め上げたら、古河はひっと小さな音を立てて息をのんだ。
 また、きつく目を閉じて。
 まるで向き合いたくない何かから目を逸らすように。
「古河?」
 唇をつけたまま名前を呼ぶと、古河の丸まった爪先がシーツに皺を寄せる。
「なんでちゃんと話しねえのか、さっきから聞いてんだろ」
「あ——……」
 古河は質問には答えず、すすり泣きのような声を漏らして背を丸め、高木の髪を掴んで握り締めた。
「なあ、夕方謝ったのは本心からだし、まだ怒ってんなら、何でか教えろよ」
「そ」
「ああ?」
「そこ、で、喋んな……って……!」
「んなこと訊いてねえよ」
 話をするなら来いといったくせに古河は何も聞こうとしないし、その理由を答えようともしない。それで意地の悪い気分になってさっきから古河の嫌がることを続けているのだ。
 根本まで含み、舌を絡ませながら軽く歯を当てる。前歯の裏で擦るように愛撫したら、古河の身体はがくがく揺れた。腰を掴んで引き寄せ、わざと濡れた音を立てて出し入れする。古河は切羽詰まった様子で高木の頭を押しやろうともがき、結局果たせず高木の髪を握り締め、仰け反って派手に喘ぎながら身を震わせた。
 口の中に広がる苦味は舌が感じた単なる感覚か、それともそのうちいくらかは、気持ちの問題というやつなのか。
「なあ、古河」
 身体をずらし、古河の汗ばんだ額から髪をかきあげる。古河の濡れた睫毛が持ち上がり、しっかり正気を保った視線が一瞬高木を捉えてすぐに閉じられた。
「……古河」
 答えはなく、ただ伸びた腕が高木の首に回された。唇を合わせ、それが何か紡がないかと期待しながら角度を変える。捩れたシーツの上で夢中になって絡み合い、己の一部を深く埋めて古河の中を濡らしても、引かれた線のあちらとこちらにいるような感覚が消えなかった。
 暗がりの中、幽霊のように揺らめく煙を目で追いながら、高木は眠りに落ちた古河の髪をかきあげた。
 抱き締められて、ほんの少しでも気持ちが動いたか。
 多分、一番聞きたかったのはそういうことだ。
 古河が話をしたくなかった理由も同じかどうか。
 かきあげた前髪の下の古河の瞳は、閉じられたままだった。