コミュニケーション10題 06-10

06 メール

「あ、来た来た」
 榊が店の入り口に向かって大きく手を振る。高木は座ったまま振り返り、煙草を持った右手を軽く上げた。
「お帰り」
「なんだよ、そんなに俺に会いたかった? お待たせ、シンちゃん。俺も愛してる」
「気持ち悪い」
 高木は無表情に言い放ち、自分の隣の椅子を引いた。
「さっさと座れ。口閉じろ」
「はいはい、お互いもう大人なんだからね」
 榊が苦笑し、手を上げて店員を呼ぶ。そうして隣の古河を向き、「これが藤代」と本人を指差した。
「あのな、他人を指差すなっておばさんに教わらなかったのか、榊」
「教わったよ」
「何だよ、お前ら二人して——あ、生ひとつ」
 十四番テーブル、ドリンクオーダー入りまぁす。
 学生アルバイトのでかい声に肩を竦め、藤代は斜め前の古河に視線を向けて微笑んだ。
「で、「これ」が、古河サン?」
「はあ」
 榊から前もって聞いていた。藤代は、榊と高木の高校時代の親しい友人で、転勤でここ数年は関西勤務、つい先日異動で戻ってきたのだそうだ。榊の携帯に藤代からの電話が入ったのが一時間前。友人と飲んでいると言う榊に、藤代は行っていいかと訊いてきた。呼べば、と言ったのは古河である。別に誰が来ようが嫌ではない。
「最近、よく話に出てくるからさあ。古河サン」
「どうも。同じアパートで、よく飲んでるから」
「そうなんだってねー」
 ややつり上がった目は、どこか猫を思わせる。可愛らしい子猫ではない。ふてぶてしい野良猫という感じだ。猫という単語から連想される可愛らしさとは無縁で、そういう意味では、まるで似ていないながらも高木に通じるものがあった。
 店員がビールを持ってきた。榊が、お帰り、と言ってジョッキを持ち上げる。高木がお疲れ、と言ってそれに倣い、一応合わせた古河のジョッキと他の三つががちりと硬い音を立ててぶつかった。
 古河のジョッキの縁から水滴が垂れ、手の甲の真ん中にぽとりと落ちる。高木が古河の手の上に視線を向ける。上に移動し、一瞬絡んだ強い視線は、高木が手にした煙草の煙と同じようにするりと解けて逸れて行った。
 ふと気がついたら、藤代が真っ直ぐ古河を見つめていた。
 微笑んでいるのに、瞳の中に温かさが見えなかった。冷静な観察者、そんな言葉が浮かんで消える。処世術なのか、世の中と他人を舐めているのか、それとも他に理由があるのか。そんなことは初対面の古河には分からないが、不躾に観察されて、正直酷く癇に障った。分析し、判断し、そうして優位に立とうとしながら形ばかり微笑む男。高木と榊の友人なのだ。多分、悪い奴ではないのだと頭では理解していても、それとこれは別問題だ。
「それ」
「え?」
 低く掠れた古河の声に、藤代は一瞬無防備な顔を見せた。
「そういう目付きしながら、上っ面だけ笑ってんなよな。結構不愉快」
「…………」
 藤代が固まって、その表情から笑顔がすとんと落っこちた。
「古河」
 高木の手が伸び、古河のうなじを乱暴に掴む。
「噛みつくなって。悪い奴じゃねえんだからさ。匡、お前もなあ、相手見てやれ。そういうのは」
 な? と続けた高木が、強張った藤代の顔を覗き込んだ。
「——悪い」
「俺じゃねえだろ。そう思うなら、古河に言え」
 促され、真っ直ぐ古河を見つめた瞳が瞬いた。
 多分意味などないのだろう。お互い大して好感情を持たなかった。それだけのことに違いない。
「ごめんね、古河サン」
「うん」
「ほらほら、初対面で気まずくなってんなよ。飲もうぜ。匡、何食いたい?」
 榊が藤代の背中を勢いよく叩いて皆に笑顔を見せる。四人揃って苦笑して、お定まりの番号交換。メールすることもないだろう相手のアドレスを電話帳に登録して、そうしてその後の時間はつつがなく疲れたサラリーマンの共感を肴に飲んだ。

 ベッドに入り、がたがたと揺れ始めた携帯に舌打ちしつつ手を伸ばした。高木か、と思って開いた受信箱に、まだ見慣れない名前が表示されていた。
「おとなげなかった」
 短い文章は古河のことか、それとも自分のことなのか。
 曖昧なメールに首を傾げつつ、古河はすぐに眠りに落ちた。

07 シグナル

 いきなり新の友達に噛みつくなんて、我ながらどうかしていたと思う。
 藤代は送信したメールの画面を見下ろして、息を吐いた。
 別に古河が気に入らなかったわけではない。気に入るも入らないも、交わした言葉はほんの数語。相手の何が見えるわけもない短時間、同じ空間にいただけだ。
 好き嫌いははっきりしているほうだという自覚はあるが、古河のことはまだ好きでも嫌いでもなかった。
 不愉快だ、と言い切った掠れ声が耳の奥に蘇る。華奢といってもいいくらいの痩身。外見からは想像もつかない強さと男っぽさに多少面食らいはしたものの、あんな態度を取る理由は確かになかった。
 ただ、新が古河を見る視線に、何故か、何かがひっかかった。
 静電気のような、ごく僅かな緊張感。無視できるほどの些細なそれはしかし確かにそこにあった。それが伝播したのかどうか。
「……どうでもいいけど」
 呟き、携帯を放って枕に顔を押し付ける。
 新は腹に一物抱え込んでまで、気に入らない人間を友人扱いしたりしない。だから、古河とは本当に仲がいいのだろう。だったら、それでいいではないか。そう考えながら、いつの間にか目を閉じていた。

 目が覚めた瞬間に、衝動的に携帯電話を探していた。
 手探りで、枕の下に潜り込んでいたそれを探り当て、電話帳を表示した。

「待っ……」
 古河の濡れた腹が、白む空の色に部屋ごと染まる。ぼんやりと白く、くねるそれはまるで魚の腹のようだ。東向きの窓からカーテン越しに差し込む淡い光。澄明な空気を連想させる薄青と、濡れた音と掠れた懇願で空気が揺れる。
「くそ、もう——も、勘弁……高木、高……」
 押し込み、揺すり上げると古河の脚が震え、突っ張った。
 古河の部屋の鍵は、開いていた。
 休みだというのにこんな時間に目が覚めたのも、古河の部屋まで降りてきたのも、何となく、だ。意味はなかったし理由もなかった。寝ぼけた頭で深く考えることはせず、ドアのノブに手をかけたら呆気なく動いただけだ。
「古河」
「だから……、やめ」
「だから——お前の意向なんか聞かねえって」
 気が遠くなるほどゆっくりと、進退を繰り返す。古河の目にかかった前髪が、瞼の上をするりと滑る。
 未だ夢の中にいるような状態で、古河の目尻に滲む涙を見、互いの身体を濡らす体液の匂いを嗅ぐ。五感で感じる生々しさと、浮遊し肉体から乖離するような感覚の狭間ですべてを古河に曝け出す。対する古河から送られてくるシグナルには、いつものことながら変化はない。
 それでも、挫けないと決めたのだ。諦める気などないと思い知ったのだ。高木は口の端に笑みを浮かべ、口先だけで宥める言葉を口にしながら、古河を奪った。

 新は電話に出なかった。
 基地局に飛んだシグナルは、高木の携帯に届きはしたが、そこから先には進まなかった。
 電話に気付かないほど熟睡しているのか、マナーモードにしているのか、そもそも寝室に置いていないのか。
 通話を切り、手の中でそれをいじりながら、藤代は何度か瞬きした。白み始めた空が部屋の中を明るく染める。遮光カーテンは嫌いだ。明けていく空の色が好きだった。
 一体、新が出たら何を言うつもりだったのだろう。自問し、何となく浮かんだ答えに我ながら意味不明だと困惑した。電話を足元に放り投げて目を閉じる。瞼を閉じてもそこは薄明るい。暗闇に逃げ込みたい時に限って、そうはいかないのが人生だった。
 古河を知りたい。
 自分でも理由が分からない思いを持て余しながら肌掛けを引き上げて、藤代は人工的な薄闇の中に逃げ込んだ。

08 電話

「電話するから」
「いらねえよ」
 高木はこの近所でまずいと評判の定食屋の、中でも特に酷いと噂の天丼を食べたときと同じ表情を浮かべ、下着一枚の古河を見た。
「……」
「したけりゃすれば」
 今度は、その天丼が九百八十円だったと知ったときと、同じ表情だ。
「…………分かった。掛けたい時に掛ける」
「ああ」
 じゃあな、と言って高木はドアを閉めた。

 遡ること三日前。
 来週から一ヶ月、横浜へ行く。高木は飲みに行った居酒屋で、憂鬱な顔でそう言った。長期出張にしてはやや短い。なんだその中途半端な期間は、と古河が問うと、高木は苛立った顔で溜息を吐いた。店はほどよく混んでいるが、カウンター席は古河と高木、三つの席を挟んだ隣にカップルが一組いるだけだ。高木の重い溜息が必要以上に大きく聞こえる。
「横浜の事業所に新人が入ったんだ。その教育」
「何でお前がわざわざ行くわけ?」
「俺が持ってた客が、横浜に本社移転したんだよ」
 高木は箸先を皿の中の醤油に突っ込んだまま肩越しに振り返って左手を上げた。
「すいません、お代わりください」
「中ジョッキおひとつですね。お客様は?」
「あー、じゃあ俺も」
 マグロの赤身を醤油に浸しながら、高木はもう一度小さく息を吐く。
「そんで」
「え? 何が」
「お前が訊いたんじゃねえか。聞けよ、ちゃんと」
「は? なあ、それ取って。一個食うから」
「これか? 食っちまえよ、一個とか言ってねえで」
「うん。で?」
「ああ?」
 瞬きして、高木はああ、と顔をしかめた。
「だから、何だっけ? えーと、俺がずっと担当してた客が、横浜に本社移転したんだよ。だから、横浜の事業所で担当する奴、一ヶ月かけて教育してくれってあっちの部長に頼まれた」
「へえ」
「俺が横浜に転勤って話もあったんだけどな」
 高木は小さく呟き、ジョッキの底に残っていたビールを呷る。高木の上下する喉仏を見るともなく眺めながら、口の中に放り込んだ鶏の唐揚げを咀嚼する。飲み込む寸前でようやく転勤の意味に思い当たり、思わず肉を吐き出しかけた。
「汚ねえな、噎せんじゃねえよ、食いながら」
 高木がなおざりに古河の背中を撫でているうち、店員が新しいジョッキを持ってきた。ビールと一緒に鶏肉が胃に向かって流れて行く。ようやく落ち着いた古河を呆れた顔で眺めながら、高木は空になった刺身の皿を横に押しやった。
「でも、そういうわけにもいかねえから、一ヶ月出張扱いで、向こう行ってくる」

 中華街で美味い中華でも食って来い。そう言ってやって、その日、その話は終わりだった。
 高木が出て行ったドアを見つめながら、古河は手にしていたタオルで前髪から垂れた滴を拭う。いつもの電車に乗るには早すぎる時間。向かう先が横浜なのだから当然だろう。だが、他県とは言えすぐそこだ。飛行機に乗らねばならぬ距離でなし、寂しいとか、電話がほしいとか、そんなことは思わなかった。
「たかが一ヶ月だろ」
 他に誰もいない玄関先で、古河は呟く。
 たかがひと月。だが、ずっと行ったままになるとしたら。唐揚げを喉に痞えさせながら一瞬考えたその状況は、今考えても意味のないことだろう。
 いきなりドアが勢いよく開き、怖い顔の高木がドアから入ってきた。何しに戻ってきたんだと訊ねる前に髪を掴まれ、引き寄せられて噛みつくように口づけられ、何が何だか分からないうちに解放された。
「電話する!」
 怒鳴りつけるように言い捨てて、高木は風のようにいなくなった。
 呆気に取られ、暫しその場で固まって、我に返った瞬間にやたらとでかいくしゃみが出た。

09 アイコンタクト

「最近付き合い悪いよなー、新は」
 榊はポケットから携帯を取り出してテーブルに載せ、おしぼりで手を拭いた。店員に中ジョッキみっつ、と伝え、メニューを開く。
「今日だって、全然出ねえし、電話」
「女の携帯からかけたらすぐ出たりして」
 藤代が笑う。
 古河は同僚からのメールをスクロールしつつ、何を言っているのかとぼんやり考えた。
 榊から電話があったのはついさっきだ。匡と飲むから一緒にどうだ、という榊の声は、いつもと少しだけ違った。
 古河と藤代の関係——というか、藤代が発する微妙な緊張感——を緩和しようとして気を遣っているのだろう。古河自身は藤代と親しくならなくても別に問題ないのだが、榊はみんなで仲良くやりたいらしい。新も誘ったのにとしつこくぶつぶつ言っている。メールを読み終えて携帯をポケットに戻した古河は煙草を取り出した。
「つか、忙しいんじゃねえの。あっちで」
「あっち?」
 榊と藤代が同時に同じことを言った。
「……知らねえの?」
「何が?」
 どうせ訊かれてないから言わなかったとのたまうだろう、世にいう「俺様」高木の顔を思い浮かべ、古河は小さく溜息を吐いた。
「あいつ一ヶ月横浜」
「はあ? 今日から?」
「いや、大体一ヶ月前から」
 榊は数秒の沈黙の後、「横浜なら来られるよなぁ」と言って携帯を手に取った。

 結局高木は古河以外にはろくに説明しないまま出張に行ったらしい。
 今のアパートよりは遠いがそもそも通勤圏内なのだから、騒ぐほどのことでもないだろう。
 ようやく榊の電話に応えた高木はそう言ったらしい。結局、顔を見せないのは遠いからではなくて残業続きだから、というのが理由だとか。後任というのは優秀なのだが、同時に交替した取引先の担当者が曲者らしく、引き継ぎが難航しているのだそうだ。
 そういえば、日中は頻繁にこちらに戻って会社に顔を出しているようだ。ただ、古河は大抵外出しているし、高木が向こうへ行って以降は一度も顔を合わせていない。
 電話が鳴り、古河は榊と藤代に断って席を立った。メールを寄越した同僚だと思ったら、ディスプレイには噂の男の名前が表示されている。数十秒前まで榊と喋っていたのに、何か言い忘れたのだろうか。
肩越しに振り返ったら榊と目が合い、高木、と口を動かすと、榊が頷き藤代に向き直った。多分、高木からだと伝えているのだ。
「どうした?」
 盆を持った店員を避けつつ、席に戻ろうと踵を返す。
「もう一週間こっちだってよ、俺。会いてぇな、と思って」
「…………」
 古河は思わず立ち止まった。
「疲れた。欲求不満で死にそうだ。抜きてえから、何か喋れよ」
「テレクラじゃねえんだぞ。アホか」
「古河」
「榊も、藤代もいるし」
「トイレでもどこでも行きゃいいじゃねえか」
 しわがれた高木の声に思わず唾を飲む。
 顔を上げたらこちらを見つめる藤代とまともに目が合った。
「古河、好きだ」
 藤代とのアイコンタクトは一瞬だったが、間違いなく、高木とのことがばれたと感じた。
 古河は数秒の間目を閉じ携帯を耳から離した。高木の声が遠ざかる。
「すいません——……トイレ、どこですか」
 店の奥を指す店員の声も、どこか遠くから聞こえる気がした。

10 抱擁

 馬鹿みたいだ、と繰り返し、繰り返し。
 交通機関でせいぜい三十分の距離。
 帰ろうと思えば毎日だって帰れる距離。毎日だって帰りたいのに、それでも一ヶ月古河の顔を見ずに堪えたのは、恋しく思って欲しかったからだ。待ち侘びて欲しかった。声を聞くのを。触れるのを。
 待っていたと言って欲しくて、それなのに、結局我慢できなくなったのはまたしても俺なのか。
 繰り返し、繰り返し。
 ほんの少し前に聞いたばかりの古河の声が耳の奥に蘇る。
 電話の向こうで高木の名前を囁いた、欲望に掠れた古河の声が。

 高木は携帯を取り出そうとポケットに手を突っ込みながら立ち止まり、そうしてその場に立ち竦んだ。
 抱き合っている、というのではなかった。二つの人影は一見寄りそっているように見えたが、目を凝らすと、片方は明らかに驚いて突っ立っているのだと知れた。例えば空港で目にしたら、日本人の男同士で一体どうしたと思うかも知れない。しかし、せいぜいその程度。欧米人ならハグと呼ぶだろう、あくまで軽い抱擁だった。
 奥二重の目を見開いた古河の顔は滑稽と言ってもいいくらいだ。右手にぶら下げた鞄が今にも床に落ちそうで、何故かそれが一番気にかかった。高木に気付いた古河が身じろぎ、身を捩って相手から逃れる。振り返った男の顔に驚きと僅かな後ろめたさ、それから何か分からないものが過ってすぐに消えた。
「……お帰り。でもさぁ、飲むには遅いんじゃねえ?」
「匡」
 藤代は内心を窺わせない笑みを浮かべ、ひらひらと手を振りながら高木の横をすり抜けた。
「じゃあ、俺は帰ります。おやすみ、新」
「匡——」
 階段を下りて行く藤代の背中を見送り、ゆっくりと古河に目を向ける。古河は指先に辛うじてひっかかった鞄を持ち直し、何とも言えない顔で高木を見た。
「何でここにいんだよ、お前」
「邪魔だったか」
「——あのな」
 古河は低い声で言って、高木を睨んだ。
「何なら、あいつ、呼び戻してやろうか?」
「高木」
 ざらつく声で古河が呟く。
「俺は用事があったわけじゃねえし、別に」
「高木!」
 ただ、会いたかっただけなのに。
 何故か口に出せないその台詞を飲み込んで、高木は古河に視線を向ける。本気で腹を立てている古河の顔に、どうしてだか、泣きたくなった。
「何でもねえよ、別に。ただ、あいつが」
「匡が、どうしたんだよ」
「その——……」
 珍しく言葉に詰まった古河に近寄り、部屋のドアに押し付けた。
「ちょ、高——!!」
 脚の間に身体を押し込み、押し潰すようにして抱き締める。唇に噛みつき、乱暴に吸い、ネクタイを引っ張りジャケットの中に手を突っ込んだ。ワイシャツを引っ張り出して肌に触れる。古河がまるで漫画のように飛び上がり、思い切り高木を押し退けた。
「てめぇ、高木、ここどこだと思ってんだっ!」
「アパートの、廊下じゃねえのか」
 酷くゆっくりとした、平坦な声が出た。
 古河は数秒高木を見つめ、何も言わずに身を屈めた。いつの間にか床に落ちたビジネスバッグを拾い上げ、まるで高木など存在しないかのように、踵を返してドアを閉じる。鍵が回る音がして、一旦点った玄関の照明が、また消えた。
 合鍵ならある。
 だが、開けたところで、追い縋って優しく抱擁したところで、古河は笑いはしないだろう。
 高木は掌で顔を擦り、暫しその場に佇んで、そうしてアパートの壁を渾身の力を籠めて蹴飛ばした。