電車で10のお題 01-05

01 いつも同じ車両

 ついこの間から、いつも同じ電車の、同じ車両で会うのは何故か。

 家が近いから。
 会社が近いから。

 質問から予測されるこの二つの答えは、実は二つとも「惜しい!」である。
 正解は、同じアパートだから。会社が同じビルにあるから。

 もっとも、彼が以上二つのことについて知っているかどうか高木には分からない。
 偶然隣の吊皮を掴んだ今日、高木はそう思いながら横目で同年代の男の顔を見下ろした。だが、ほぼ一年間同じアパートに住み、毎朝同じ車両に乗っているのだ。流石に顔くらい知っているだろう。
 別に男に興味はないが、こう毎日同じ車両で見かけると自然に顔を覚えてしまう。それに、乗っていない日があれば、今日は風邪か遅刻か、くらいのことは考える。それを特別変わっているとは思わなかった。恐らく誰でもそうではないか。
 しかも同じアパートの住人で、同じビルに会社があるとしたら尚更。
 アパートで見かけたことは何度かしかない。駅までの道順が違うのか、同じ電車の割には実際に乗るまで見かけない。だが、会社の地下の蕎麦屋でも一階のコンビニでも顔を合わせることが頻繁にあるとなれば、別に友達でも何でもないながら、知人のような気がしてもおかしくはないだろう。
 だから、つい声が出た。
「鞄、開いてるぞ。鍵落ちんじゃねえの」
 男が手に持っている鞄、その外側についたポケットのジッパーが開いていて、キーホルダーがはみ出しかかっている。ラッシュが一番ひどい時間を避けているだけに車内にはまだ少し余裕があるが、誰かの足や鞄にひっかかって落ちないとも限らない。
 話しかけられたのが自分だと分からなかったに違いない。男は二秒くらい経ってから、不意に高木の顔を見上げた。
 多分身長は百七十ちょい。八十を超える高木の目を見るために、男は少し顎を上げる格好になった。
 鋭い顎の線、見開かれた奥二重の目。彼の視線はそのまま自分の鞄に向い、飛び出したキーホルダーに辿り着いて暫しそこに留まった。俯けた横顔をぼんやり見ていて、耳朶に小さな穴が開いているのを発見する。ピアスの穴だ。勿論、今は何もついていない。
 男はキーホルダーをポケットに押し込んでジッパーを閉め、再度高木に目を向けた。
 どうも、とでも言って、会釈をひとつ。いつも同じ車両に乗る他人の、僅かな触れ合い。
 そんな予想は打ち砕かれた。
 細身のスーツに身を包み、どこからどう見ても営業職の若いサラリーマン。彼の声は低く、掠れていて愛想がない。
「——誰だ、てめぇ」
 彼はいぶかしむように眉を上げ、酷く乱暴な口調でそう言った。

02 滑り込みセーフ

「えー、そうなんですかぁ」
 由香ちゃんの声は語尾が伸び、更に跳ね上がる。別に驚いているわけではなく、彼女は常にこういう話し方なのだ。
 彼女が手に持っていた苺のヨーグルトと大豆のなんとやらいう健康食品みたいなもの、それにチョコレートをぼんやり見ながら頷いた。どうしてダイエット中なのにチョコレートを食べるのか。高木の内心を読んだかのように、由香ちゃんは言う。
「あ、これ、糖質ゼロですからぁ、タカキさん!」
 毎度のことだが、由香ちゃんが発音する自分の苗字は何故かカタカナに聞こえる。
「でも偶然ですねえ、同じアパートに同じビルの人がいるなんて」
 先にレジを済ませた由香ちゃんは、そう言い残してコンビニの出口に向かう。昼休みに入ったばかりの十二時六分、コンビニは大盛況だ。
 今は太った親父がペットボトルのお茶を買っている一番端のレジ。さっきまで、あそこには件の電車の男が立っていた。
 若い男については若い女に聞くに限る。その考えは当たっていたようで、業務課の由香ちゃんはその男のことを知っていた。
「うちの会社の一階下にあるトウワなんとかっていう会社の営業さんです。コガさん、って言ったかなあ」
 なんでそんなことを知っているのか聞いてみたら、何でも由香ちゃんの友達が派遣社員でそのなんとかいう会社にいるらしい。世の中は狭い。そして女の噂話は光の速さだ。
 学生アルバイトらしきレジの女の子におにぎりとサラダを差し出し尻ポケットから財布を引っ張り出しながら、今朝の男の顔を思い出す。
 誰だって言われても。同じ車両に乗ってるだけの、赤の他人だけど。
 些かむっとしてそう返した高木を男は上から下まで無遠慮に眺めた。周囲は当然素知らぬ顔で、どうせ人違いか、そうでなくとも大したことではないのだろうと目を逸らす。
「……あ、そう。どーも」
 それだけ言って前を向くと、男は早速高木への興味を失ったらしかった。ガラスの向こうを流れる景色を漫然と眺めながら、欠伸を噛み殺して瞬きする。窓ガラスに映ったその顔を見るともなしに見ていたら、一瞬視線が高木を捉えて眇められた。
 明日から、一本遅い電車にするか。
 コンビニを出ながらそう思う。高木は別に気まずいわけではないが、気にされても嫌だった。

 そう思ったはずなのに、翌朝、高木の頭からそのことはすっかり抜けていた。急がなくてもいいはずなのに無意識に足を速めて電車に向かう。習慣だけが高木を走らせた。ドアが閉まる寸前に乗り込んで、そういえば一本遅らせるはずだったと初めて気づく。
「……滑り込みセーフ」
 すぐ横で低く掠れた声がした。
 ドアの脇のスペースに立った男は高木を見上げ、口元を歪めて僅かに笑った。

 03 落とした定期券

「タカギ、じゃなくてタカキね。同じアパートなんだ。へえ」
「何だ、知らなかったのか……」
「知らねえよ、誰が住んでんのかなんて、興味ねえもん」
 男の名前は確かにコガだった。古い河、と書いて古河。頭の中で勝手に古賀と当てていただけに、修正を余儀なくされる。年齢は二十七、高木のひとつ上。
 駅から会社までの短い時間を歩きながら、それだけを知った。
 全体に尖った雰囲気がある。とはいっても、特別悪そう、というのでもない。何と言うか、もう少し若ければバンドでもやっていそうな、というか。
 男にしては細い身体は、しかし華奢とは言えない。骨ばった手や顔の輪郭はどこまでも男のものだ。風邪を引いている様子はないから、特徴的な掠れ声はどうやら地声のようだと高木は判断した。
「言われれば見たことあるかも知んねえけど」
「下のセブンイレブンでよく会うの、覚えてねえのかよ」
「知らね。棚の弁当とレジのお姉ちゃんしか見えてねぇし。金曜の夕方にすげえ美人がいんのな。知ってたか?」
「それこそ知らねえよ」
 初対面、しかもこちらが年下、ということをうっかり忘れていることに気付き、高木は苦笑した。古河があまりにも気負わない態度のせいか、最初に交わした会話があれだったせいか。今更ですます調にしても笑えるだけだ。
「お前、何階?」
 古河はひどくあっさりと、高木をお前と呼んだ。
「——あんたんとこの上。二十四階」
「ふうん」
 エレベーターホールにはたくさんの人がいる。古河はエレベーターの昇降表示を眺め、戻した視線で同僚でも見つけたのか、人ごみに向けて会釈した。
 ぞんざいな口調と無愛想が、仕事用の顔にすり替わる一瞬。高木は何となくその顔に目を奪われ、いつの間にか隣に立っていた課長代理の朝の挨拶に気付くのがかなり遅れた。
 エレベーターが一階に辿り着き、皆が一斉にその入口に押し寄せる。古河は人に押されるようにしてエレベーターに歩を進めた。振り返らない背中を黙って見つめ、高木はその場に黙って立っていた。この混んだ箱の中に押し込まれ、最上階である二十四階まで上がるのはご勘弁願いたい。
「またな」
 声に顔を上げると、閉まりかけたエレベーターのドアの向こうで、古河が手を上げていた。
 するすると音もなくドアは閉じ、昇降表示ランプは二階、三階、そして止まらない中層階の数字のない部分へと動いていく。
 ふと足元に目をやると、何かがその場に落ちていた。
 つまみあげたそれは、こげ茶色の革の定期入れだった。内側がベージュのコードバン。定期券には古河の名前。
「落し物か?」
 耳元でした声に飛び上がり、高木は思わずうわっ、と声を上げた。すっかり忘れ去られていた四十代半ばの課長代理が、そんなにびっくりしなくても、と、可愛くもないのに拗ねて見せた。

04 改札口で待ち合わせ

 一階下に降りて行き、受付にでも渡す。そうしようと思っていたのに出来なかったのは、忙しかったからだ。
 出先で客との話し合いがヒートアップし、あわや怒鳴り合いになるところだった。何とかお互い納得できるところで纏められたのは奇跡に近い。先方の自社ビルを出たのは既に八時を回った頃。時間としてはそう遅くもないが、心底疲れ切っていた。
 直帰するかも知れないと言って出てきてよかった。
 そう思いながら駅に向かい、改札を通ろうとしてようやく古河の定期入れのことを思い出した。小さく舌打ちしたが、今更遅い。今から会社に戻ったところで古河がいるかどうか分からないし、面倒でそんな気にはなれなかった。
 どうせ、毎朝同じ電車なのだ。改札口で待っていれば、会えるだろう。
「——高校生の待ち合わせじゃねぇっつーの」
 呟いたのは、思いがけず浮き立った心の不可思議さに対する苛立ちだった。そんな気もした。

 ところが、古河は現れなかった。
 高木は余裕を持って一本前の電車が来る時間には、既に改札に立っていた。アパートで渡すことができればいいのだろうが、部屋番号が分からない。エレベーターのない四階建てのアパートには、一階に四戸入っている。流石に自分以外の十五戸を訪ねて回る気にはなれないから、こうして改札に立っているのだ。
 改札口が違うのかとも思ったが、朝の時間にわざわざ遠回りをして乗る人間はいないだろう。いたとしても多分僅かだ。そして、アパートからはどう考えてもここが一番近い。
 結局、電車を二本遅らせて、いつもより人口密度の高い列車で会社に向かう。
 休みなのか、それとも出張にでも出かけたのか。
 別にどうでもいいことだ。
 今日こそビルの管理室に届けようと決め、高木は何となく息を吐く。
 二度言葉を交わしただけの赤の他人、ただ電車が同じというだけの男。
 ポケットに手を突っ込みながらそう自分に言い聞かせ、高木は滑らかなコードバンの表面を指で撫でた。

「待った? いやー、昨日は寝坊しちまってよ」
「…………」
 古河はへらりと笑って、そうのたまった。
「待ってた、って顔してんじゃん、お前」
「——これ、落としたろ」
「おーサンキュ。そうかなあと思ったんだよ。届いてないって、管理室のおっちゃんに言われたからよ」
 翌日の朝、いつもの時間。古河は心なしか疲れた顔で現れ、定期入れを受け取った。
「俺も昨日仕事でずっと外出てたから。部屋に届けようかと思ったけど、部屋どこか知らねえし」
「あ? ああ、そうか。二〇四な」
 あっさりと部屋番号を告げ、古河は電車に向かって歩き出す。
「アルコール持参なら大歓迎だぜ。いつでもどうぞ。お気軽に」

05 新しい時刻表

 なんだか知らないが、こうやって古河を起こそうとするのも、もう何度目か覚えていない。
「おい、古河。お前歯くらい磨いて寝たほうがいいんじゃねえのか」
「んー」
 返事なのか寝言なのか分からない。
「俺帰るぞ。鍵かけなくていいのかよ、おい。知らねぇぞ!」
「見届けてやれよ、いいじゃねえかそのくらい」
「はぁ?」
「企画部長のスケジュールだよ……」
 寝言だ。

 アルコールさえ持参すれば、古河は機嫌よく高木を迎え入れた。もっとも、別に持っていなくても閉め出されるわけではなかったが。
 気が向けば酒を持って古河の部屋に行く。逆がないのは、高木の部屋が四階の端にあり、二階の反対端に住む古河が階段の昇降を面倒くさがるから。それだけだ。
「まったく。古河。こーがー」
 電車で親切心から声をかけ、誰だてめぇ、と凄まれたのが始まりだ。
 これといった共通点や何かがあるわけではないが、同世代のせいかウマが合う。古河の力の抜け具合というか、あの俺は俺、お前はお前、好きにしろ、というところがなんというか楽なのだ。
 どうやって営業しているのかと思うほど、普段の古河は愛想がなくて口調もぞんざいだ。仕事になるといきなり人が変わるというタイプでもないだろうに、世の中には不思議なこともあるものである。
 由香ちゃんの友達である派遣さん——名前はサヤカだそうだが——情報によると、成績はそこそこいいらしい。
「古河! おい、えーと何だっつった、こいつの名前…………友成!」
 幾ら声を掛けても埒が明かない。今度は普段呼ばない名前を記憶の底から引っ張り出し、肩を掴んで揺すってみる。
 古河はうっすらと目を開き、焦点の合わない目を高木に向けた。駄目だこりゃ、酔ってる上に寝ぼけてやがる。
「うるせえっつーの、マジで、もう勘弁……」
「誰もこれ以上飲めなんて言ってねえぞ、酔っ払い」
「俺、明日仕事……」
「明日は土曜だ。どこに出勤すんだてめえは」
「腰立たなく——……放してくれ頼むから……も、無理」
 腰抜かすほど飲んでねえだろうが。
 言いかけて、何となく言葉を飲み込みぼんやりとこちらを見つめる古河のいつもと違う顔を見た。
 とろんとした奥二重のきつい目が、何度か瞬きまた閉じられる。
 何だ?
 何だこれは。
「——友成?」
 敢えて呼んだ名前に、古河がまた身じろいで、いつもより掠れた声で呟いた。
「………………許して」

 明日から時刻表が変わる。
 古河と初めて言葉を交わして、半年経つのだ。