コミュニケーション10題 01-05

01 あいさつ

「いらっしゃいませ——あ、こんばんは」
 店員は古河の顔を認めると、煙草の棚に視線を向けた。
「こんばんは。二つください」
「はい、毎度どうも」
 眼鏡の店員は、そう言って棚から取り出した煙草のパッケージのバーコードを読み取った。平日の夜から深夜にかけてのシフトを受け持つ彼——名札によると花井くん——は最近、人懐こいのかそれとも単に人恋しいのか、あいさつをして寄越す。毎晩とは言わないが結構な頻度で立ち寄るから、顔を覚えられているのだろう。ビニール袋にとろろ蕎麦と煙草を入れ、釣り銭とレシートを古河に差し出しながら、花井は「ちょっと待ってください」と言って腰を屈めた。
「これ、入れときます」
 古河のものとは違う煙草の銘柄がプリントされたライターがビニール袋に二つ落ちる。ライターは蕎麦の容器に当たって軽い間抜けな音を立てた。
「え、何」
「この間まで、キャンペーンやってたんっすよ、これ」
 花井が既にビニール袋の中に消えたライターを指して微笑んだ。まだ幼さの残る顔からして、学生バイトに違いない。
「ライター付きの限定品で売ってたんすけど、箱の潰れたやつがあって、そのまま売れないからってバラしたんで、返品もできないんすよね」
 何だか分かり難い日本語だが、とにかくもらっていいということなのだろう。花井が専門学校生か大学生かは知らないが、少なくとも現代国語の点数が入学に多大な影響を与える学校の生徒ではないらしい。
「ああ、すいません」
「一個、タカキさんにあげてください」
 にっこり笑う花井の口から高木の名前が出たから驚いた。高木と一緒に寄ったことも何度かある。だが、古河は名前を呼ばれたことはない。そもそも、あいさつ以上の言葉を交わしたのは今日が初めてだ。戸惑っているうちに背後に別の客が立ち、結局礼を言えぬまま、古河はコンビニを後にした。

「ああ」
 黒いTシャツの中に手を突っ込んで腹を掻きながら、高木は気のない返事をした。
「別に仲良しになったってわけじゃねえけど——」
 古河が差し出すライターに目を落とし、しかし手は伸ばさずに、高木は欠伸を噛み殺した。
「この間煙草のカートンとゴム買いに寄ったとき、すげえ暇そうにしてたから話しかけてみたら、懐かれた。話してみたら結構面白えんだ、あいつ」
「そうか? 何か日本語おかしかったけど」
「ああ、まあな。でもまあ、言ってることは分かるし」
 高木は笑い、伸ばしたままの古河の手からようやくライターを受け取った。高木は男前だが、親しみやすい雰囲気を持っているとは言い難い。どちらかといえば気の弱そうな花井くんが懐くとは意外だが、こうして笑った顔は確かになかなか魅力的ではあった。
 古河は高木の掌に触れた指先を特に意味もなく数度振り——付着したものがあったとしたら落ちたはずだ——スーツのポケットに突っ込んだ。
「ふうん。いいんじゃねえの、こうやってライターもらえんだし? お前とあの眼鏡くんに話すことがあるってのが意外だけど」
 古河の台詞に高木は一瞬笑みを消し、左足に重心を移して壁によりかかると口元を歪めて見せた。
「話すことくらいあるぜ」
「へえ。例えば何よ」
「コンドーム、次はいつ新商品が入るか、とか」
「……」
 馬鹿じゃねえの、と言いかけて古河は何となく黙り込んだ。
「どれが一番売れてっか、とか」
「…………」
「どれが一番喜ばれたか、とか?」
「………………高校生の会話かよ」
「ああ、心配すんなよ。お前と使うとは言ってねえし」
 高木は手の中のライターを空中に放り投げ、落下するそれをぱしりと掴んだ。
 思わず口を開けた古河に高木がにやりとする。
「それに、お前が一番好きなのは何もつけてねえときだとかそんなことも言ってねえから」
 思いっ切り叩きつけてやったつもりなのに、重たいドアは、残念ながらゆっくりとしか閉じなかった。
「おやすみ」
 最後に聞こえた笑いを含んだあいさつに、古河はドアを力いっぱい蹴飛ばした。

02 握手

「いやあ、すいませんね、ご馳走になっちゃって」
 わざとらしい台詞ではあるが、そんなものでもないよりはマシだ。実際どう思っているかはともかく、奢られて当然、という態度を取られれば頭にくる。だから、丁寧に頭を下げられ多少は気分がよくなって、高木は思わず営業用ではない笑みを浮かべた。
「とんでもないです。北村さんに口を利いて頂けたら、という下心がありますから、うちも」
「そうはっきり言われたら、頑張らないとねえ」
 北村は笑い、店員が差し出すコートを受け取って羽織った。
 歳の頃は三十代半ば。北村は高木が担当する取引先の新しい担当者で、しかもまた別口の——高木の担当ではないが——大口取引先の社長義弟でもあることが先日分かった。会社としては、高木には多少交際費を多めに使っても、北村と仲良くしてほしいらしい。
 こういうことは好きではないが、好きでないからと言って敬遠していたら会社員は務まらない。別に悪いことをしているわけではないのだから、好みは置いておかねばならないのだ。
 一見ブランドものとは分からないが仕立てのいいコートの裾をはためかせ、北村はちょっと周りを見回した。
「高木さんは、これからどうされるんですか」
 さっさとタクシーに乗せてしまいたかったが、帰れというわけにもいかない。まだ飲みたいなら付き合わざるをえないだろう。
「特には——どこか……」
 言いかけて、思わず止まる。
 北村の背後、たった今出てきたビルから古河が現れたのだ。
「あれぇ? 高木」
 低く掠れた声には緊張感がない。ほんの僅かに緩んだネクタイのせいか、声だけでなく全身から力が抜けて見える。
「何やってんの、お前」
 靴の底を引き摺るようにして高木に数歩近づき、古河はそこで北村に気が付いた。
 自分もそうなのかどうか。営業職についているからか、それとも古河自身の特性か。ネクタイを締め直したわけでもないのに、何かがほんの少し変わって古河がしゃんとする。北村が古河の声に振り返り、高木の顔に目を戻した。
「お友達ですか?」
「あ、ええ、そうです。古河、こちら北村さん」
 会社名を告げると古河が軽く頷いた。大企業ではないが、業界ではかなり名の知れた会社だ。古河が知っていても不思議はない。古河は普段とそれほど変わらないながら、それでもきちんと営業仕様でそつなく挨拶して見せた。北村は微笑み、古河に手を差し出した。
「よろしくお願いします」
 古河の乾いた掌、骨ばった指の細さと硬さ。実際に触れているかのようにその感触を思い起こし、内心で舌打ちしながら無表情を取り繕った。ワイシャツから覗く手首の骨の出っ張りから、繋がれた手を辿って北村の顔に視線を巡らす。
「こちらこそ」
 低く掠れた古河の声に、北村の整った面立ちの上を何かが過る。当惑。それとも驚き。最後に面白がるような笑みが眼の奥に閃き、すぐに消えた。
 古河が北村の手を離す。高木はポケットに突っ込んでいた手を引き抜き咄嗟に北村の手を握った。
「どうぞお使いください」
 必要以上にきつく握り締めた北村の手の中に小さな紙片を押し付けぱっと離す。早口で暇を告げて、古河の腕を取って後ろも見ずに歩き出した。古河が肩越しに北村を一瞥し、高木を見上げて眉を寄せる。
「いいのかよ」
 小声の問いに、高木は無言で頷いた。
 たかが握手。軽く握られたふたつの手。どちらの手の持ち主も、その行為に言葉以上の意味を見出してはいないだろうに。
 それでも、他人の手に包まれた古河の手指が眼に入った瞬間、猛烈に嫉妬した。
「いいんだよ」
 タクシーチケット一枚隔てた北村の手は温かかった。
 そこに古河の体温が残っていたとしても、自分の握手がすべて上書きしたに違いない。くだらないことを考えながら、傍らの古河の手を掴んで握る。古河の手は、乾いていて、骨ばっていて、そして酷く温かだった。

03 会話

 会話にならないのは、無理もない。
 他人から詮索されない程度の平静を装って挨拶できただけでも、誉めるべきなのだろう。自分と、相手を。
「世間は狭いですねえ」
 些か都合がよすぎるとも思える——誰にとってかはともかく——世間の狭さに感嘆の声を上げているのは柳田だけだった。
 取引先の担当者として知り合った五年前。あの頃は標準体型だった柳田は、今ではすっかり樽のようだ。つやつやした頬と童顔のせいで若く見えるが、腹周りと潔く撤退した生え際が、四十三歳という実年齢に外見を少しでも近づけようと奮闘している。
「ね? 古河さん」
「はあ」
 古河はコーヒーを啜りながら気のない返事をした。

 それなりに自信のある提案を引っ提げて客先へ向かったのがいけなかった。先方の担当者と内容について話が弾み、予定より長く、しかし充実した打ち合わせになった、それはいい。ただ、少々話疲れてコーヒーでも飲もうと思ったのが失敗だった。どうせ戻るのだから、帰社して自販機のコーヒーを飲めばよかったのだ。そうすれば何事もなく終わったはずの、月半ばの水曜日。
「古河さん。久し振りですねえ。最近どうですか、お仕事は」
 掛けられた声に座ったまま振り返ると柳田が立っていた。一緒にどうです、と誘ったのは柳田が一人だと思ったから。
「いや、じゃあご一緒させてもらおうかな。僕もちょっと休憩したくて」
「珍しいですね、外回りですか」
「そうなんですよ。でね……あ、木原くん、こっちこっち」
 世の中に同じ苗字の男は幾らでも存在する。だが、それは間違いなく古河の知っている木原くんそのものだった。
 背中に竹刀でも突っ込まれたように背を伸ばし、目を瞠りしかし唇を引き結んで、靖人は立っていた。
「インターンシップで、大学生受け入れてましてね。それで——」
「——久し振り」
 古河の声に、靖人は弾かれたように頭を下げた。長身を折り曲げ、直角になって挨拶する。柳田はお知り合いですかと喜んで、二人を会わせたことに邪気なく悦に入っていた。

「じゃあ、行こうか」
 柳田は靖人を促し立ち上がる。
 結局、話をするのは専ら柳田で、古河がたまに相槌を打った。靖人は柳田が求めれば返事をしたが、古河との会話は皆無といってよく、そもそも視線も合わせようとしなかった。
 仕方のないことだと思う。
 古河は、靖人を見ることができる。目を合わせ、他愛ない話をすることができる。それは、古河に靖人への恋情がないからだ。昔も今も、靖人は古河にとって大切な人間であることに変わりなかったが、恋愛の対象にはなり得ないとうこともまた変わりなかった。
「じゃあ、古河さん、また連絡しますよ」
 柳田がにっこり笑う。赤いほっぺが赤ん坊のようだ。
「はい、お願いします」
 古河は立ち上がって会釈した。柳田が会釈を返し、古河に背を向ける。靖人は何も言わず、古河に小さく頭を下げて柳田の後を追った。去っていく背中に、古河は小さく息を吐いて腰を下ろした。
 コーヒーを飲みほし、水を飲んで煙草を取り出す。火を点け、煙を吐き出したそのとき、古河の肩先に何かが触れた。
 薄い肩パッドが入ったスーツの生地越しに、靖人の指が古河の肩を掴む。振り仰いだ靖人の顔は先程までと変わらず無表情で、まだ似合わないスーツのせいで、却ってどこか幼く見えた。
 強く握られた肩。
 声に出された言葉はなかった。
 煙草の先が灰になるまでもない短い間。
 無言の短い会話の後、靖人は現れた時と同じように素早く去って行った。靖人が古河に連絡を取ってくることはもうないだろう。こうして偶然遭遇することがなければ、多分二度と会うこともないのだろう。
 古河が吐き出す煙の筋が、靖人が起こした空気の流れに乱され消える。古河は、まだ長い煙草の先を暫し見つめ、灰皿の中で乱暴に押し潰した。

04 ボディーランゲージ

「それだけ」
 外国人のように軽く肩を竦め、古河は煙を吐き出した。
 色が褪せ襟元がよれた緑のTシャツに、腰骨にひっかかった紺のスウェット。相変わらず、休日仕様の古河はだらしない。枕の下に頭を突っ込んで寝る癖があるせいなのか、関係ないのか、右の側頭部に寝癖がついていた。
 昨晩友人連中と飲み過ぎたとかで、古河の白目は充血していた。大学時代の友達だったようだから、高木が知っている人間はいなかったのだろう。飲み会の話は大した話題にもならず、古河が口にしたのは、水曜に遭遇した大学生のことだった。
 うっかり口に出してしまったようだったから、積極的に話すつもりはなかったのだろう。だが、高木が質問してもはぐらかさなかったところを見ると、特に隠すつもりもなかったらしい。隠されても腹立たしいが、素直に話されたらそれはそれで腹が立つ。
 高木は煙草を灰皿に押しつけながら、それでも喉元までせり上がってきた言葉の数々を飲み込んだ。古河は高木のものというわけではないのだから、嫉妬はともかく、腹を立てる権利はない。
「……また会いたいとか、言われなかったのか」
「言われねえよ」
 古河はでかい欠伸をし、目尻を拭って煙草を吸いつける。
「もう完全に終わってるって、前に言ったし、合意に達した」
「それでも会社に来たじゃねえか」
「ああ? あー。だから、その後話してんだって」
「そうなのか」
 古河が再度、肩を竦める。
 言ってなかったっけ。
 言いたくなかったんだよ。
 言うわけねえだろ。
 一体どれが正しい意味なのか、曖昧なボディーランゲージから本当のところは読み取れない。そのことに苛立って、高木は掌の中のライターを弄んだ。
「まあ、別に俺の知ったことじゃねえけどな」
 高木が言うと、古河は僅かに目を眇め、煙を透かして高木を見た。ゆっくりと吐き出された濃い煙が午後の光の中では重たく見える。
 古河が灰皿に視線を落とす。煙草が古河の指先を離れて灰皿に落ちる。高木はそれを横目で捉えながら腰を浮かして古河の肩を掴み、Tシャツの裾から手を潜り込ませた。
「真っ昼間から何——おい!」
「夜ならいいのかよ」
「そ——」
「悪かったな、屁理屈だ」
 古河に言われる前に言っておく。高木は緑色のTシャツを一息に捲り上げ、古河の頭から引き抜いた。勢いを借りて古河の身体をうつ伏せにする。腰の上に跨ると、古河が床を叩いて抗議した。
「おい、ギブ、ギブ! 退け、重てえって」
 苛立ったような表情で、古河が肩越しに振り返る。高木は古河から目を逸らし、よれた生地のTシャツを古河の両手首に巻きつけた。
「ちょ……マジかよ、おい、やめろ、馬鹿!!」
 暴れたところで細身の古河は所詮高木の相手ではない。抵抗を封じ後ろ手に手首を縛り上げ、転がすようにして古河の薄い身体を仰向かせた。奥二重の目は険しい。
「いい加減にしろよ、お前——」
「酷いことはしねえから」
 見下ろす高木の顔を見て、古河は何故か口を噤んだ。掠れた声は古河の生来持っているものだが、高木が平らな胸に落とした口付けに漏れた声の掠れはそれとは違った。
「好きだ、古河」
 古河は身体を捩り、不機嫌に低く呻いた。
「外せよ」
「嫌だ。外さねえ」
「高木! 外せって言ってんだろ!」
 スウェットを引き下ろし、下着の上から口に含む。古河の身体が跳ね、薄い皮膚と骨格の上、太陽の光が作る影が揺れた。古河が抵抗を止めるまで愛撫して、高木はようやく顔を上げた。身体をずり上げ、古河の身体に腕を回す。抱いた古河の骨は硬く肉は薄かった。
 縛れるものなら縛りたい。言葉で。そして、約束で。
 それができないなら、せめて今だけ、古河の匂いがする伸びきった緑のTシャツで、そして自分のこの両腕で、物理的に古河を縛っておきたかった。
 曖昧なボディーランゲージ。
 その意味が古河に通じるかどうかは、分からない。

05 表情

「ちょっと待った!」
 高木はさっと手を伸ばし、古河の口を塞いだ。
「ん——!!」
 古河がもがくが、高木は顔の骨ごと掴んで離さなかった。榊が呆れた顔をして二人を眺め、砂肝の串を口に運ぶ。
「毎度毎度、飽きないよなあ」
「何が」
「古河は毎回歌うし、お前は毎回止めようとするし」
「だってお前、こんな狭い店で歌われてみろ。個室もねえのに」
「まあな。校歌だしな。すげえ美声ってわけでもないしな」
「婉曲表現してんじゃねえ。音痴だろ、これは」
「てか、古河死ぬんじゃねーの。窒息して」
 榊は砂肝を噛みながら言う。高木は古河に目を戻し、自分の掌が口のみならず、古河の鼻まで覆っていたことに気付いて慌てて古河から手を放した。古河は盛大に咳き込み、榊が串を持っていない手で古河の背中を適当にさする。
「おーおー、可哀相に。新にいじめられて」
「いじめてねえ」
「はいはい」
「高木——」
 古河が涙を滲ませた目で高木を睨む。何も悪いことなどしていないのに腰が引けるのは惚れた弱みだ。何となく構えた自分が腹立たしい。
「何だよ、大体な、俺は」
「お茶漬け食いたい」
 古河の顔は、大真面目だ。
「………………鮭か、たらこか」
「たらこ!」
 力強く答える古河を一瞥し、店員を呼ぶボタンを押す。尻に敷かれてるなと榊が呟き、古河は自分のケツの下の座布団を真顔で見下ろした。

「おい、着いたぞ」
 タクシーの後部座席に押し込むなり古河は正体を失った。
 校歌を歌いたがる以外、酔った古河に害はない。気分よく飲んでいるだけで暴れも怒りも泣きもしないが、連れて帰ってくれる人間がいるとすぐにこうしてだらしなく眠りに落ちる。これが自分と一緒のときだけなら可愛いとか思ってしまうかもしれないが、別にそういうわけではないのが業腹だ。
 タクシーの運転手に料金を払い、釣り銭を受取る。片足を車から出しながら、古河の肩を掴んで軽く揺する。古河は窓ガラスに頭をつけて寝こけたままだ。
「起きろって」
 古河を半ば引っ張り出して無理矢理立たせた。お客さん、鞄、鞄、と声がかかる。高木は車内に上半身を突っ込んで古河の鞄を手に取った。脇に抱えて起き上がると、古河の姿は既にない。目の前のアパートに向かい、高木は足と溜息を一緒に押し出した。

 古河は自分の部屋の前に突っ立っていた。ぼんやりとドアを見つめている酔っ払いの脛を軽く蹴飛ばすと、古河は振り返って呆けた面を高木に向けた。
「なんか、開かねえんだけど、ドアが」
「鍵開けてないからじゃねえのか。つーか、自動ドアじゃねえのに開くかよ、勝手に」
 高木は古河の鞄を探って鍵を取り出した。開いたドアを肩で押さえ、玄関の照明のスイッチに手を伸ばす。古河の腕を掴んで中に押しやり、古河の鞄を玄関に置いて狭い三和土で古河と向かい合った。
「スーツは脱いで寝ろよ。この間みたいに着たままにすんなよな」
 何も言わない古河の顔。先程までとは違って幾らか正気に近く見えるその顔に、妙な表情が浮かんでいた。
「古河……?」
 妙に重たい沈黙に誘われるように、高木は我知らず薄く開いた古河の唇を塞いでいた。酒臭い舌を舌で探り、細い腰を抱き寄せたら古河の膝がかくりと折れた。
 きっと、顔を離したらただの酔っ払いに戻っている。あの表情は、きっと跡形もなく消えている。それでも別に構わなかった。古河を諦める気は更々ないが、簡単だとも思っていない。古河が浮かべる戸惑いと淡い期待の入り混じった表情が一瞬のものだとしたら、その一瞬がいつかもっと長くなるよう願うだけだ。音痴の古河が校歌を歌うのを阻止することがそれに繋がるかどうかは分からないが、一緒にいる時間であることに違いはない。
 驚いたことに、再度見やった古河は表情を取り繕おうとはしていなかった。
「——スーツ、面倒くせえから着たまま寝る」
 呟いた古河の首筋の紅潮は、まだ残る酔いのものかそうでないのか。
「だらしねえ奴」
 後ろに手を伸ばし、手探りで鍵を回す。覆いかぶさるようにして古河を壁に押し付けると、古河の鼓動が速まった。
「……仕方ねえな。脱がせてやるよ」
 耳朶を噛みながら囁くと古河の身体が震え、微かな抵抗の後、不意に力が抜けた。古河がどんな顔をしているかは分からない。だが、自分が浮かべた表情が酷くだらしないことは、見えなくてもよく知っていた。