25時 12

 三連休が明けて火曜。陽射しは更に強くなっていて、出社したときには既に電子レンジに一時間程入れられたような気分だった。
「はよーっす」
 あちらこちらでだるそうな挨拶の声が上がる。古河は自席に向かう途中で井上の席に足を向けた。既に着席していた井上が、気配に気付いて顔を上げる。微かに目を瞠った以外、井上は至極平静な顔をしていた。
「……おはよう」
 古河の挨拶に僅かに目を細め、井上は口元に笑みを浮かべた。作り笑いではなさそうな感じのいいその笑顔に、何となく落ち着かない気分になる。
「おはよう。今日も暑いね」
「ああ。あのさ、昼飯、今日一緒に行かねえ? 金払いたいし」
「——ああ、いいのに、別に」
「できればちょっとずらして……一時からとか」
 井上は今度こそ本当に笑って、古河を見上げた。
「うん。いいよ。じゃあ後で」

 地下の店に行く気にはなれず、古河は出先から直接、会社から少し離れた定食屋に立ち寄った。事前に連絡してあったから、井上は既に奥の席に座って待っていて、文庫本を広げていた。
 夜は居酒屋にもなる店は昼時には混み合うが、時間をずらした今は、客の入りは店の半分程度だ。
 安価が売りのチェーン店ではあるが昼は腹に入ればいい。ランチメニューは三種類しかないが、その分出てくるのが異様に早い。
 そんなビジネスマン仕様の店であるという以前に、会社の人間がいないのがいいところだ。もっと分かりやすく言えば、高木と鉢合わせしないのが、だが。
「幾らだった?」
 古河の着席とともに注文を取りに来た店員が去るなり言うと、井上がおかしそうに肩を揺らした。
「はっきり言うなあ。古河さんてほんと面白いよね」
「何で? だって、別に言い淀むことじゃねえじゃん。恥じらえばいいの、俺?」
 財布を引っ張り出して再度問うと、井上は苦笑して金額を告げた。多分、半分ではないだろう。少なすぎると言いかけたが、もし自分が井上の立場なら同じように言うだろうと思い直す。大体、それ以前にこんなふうに友好的でいられるだろうか。そう考えると、井上は大人だし、いい人間なのだろう。一時的に古河に興味を持って血迷ったとは言え、それは井上の人格を評するのにマイナスの影響を与えることではない。
 古河は札を数え、差し出した。同時にもう一度謝ろうかと思ったが、止めておく。あの時一度ごめん、と言っている。伝わっているならそれでいいだろう。しつこく謝ればそれだけ、失礼になる気がした。
 テーブルのグラスを掴んで一気に呷る。カルキ臭かったが、外を歩いてきたから美味かった。
「で?」
「は?」
「結局、どうしたの」
「どうしたって?」
「高木が来てたんでしょう。会えた?」
「ああ、うん。会えた」
 古河は頷き、煙草を取り出した。
 あの時は何がどうしたのか訊ねる間もなかったが、翌日、這うように——高木が抱えて行ってやるかと抜かしたが、蹴飛ばしておいた——自分の部屋に戻ってから榊に電話をして詳しく訊いた。
 榊が古河に電話をかけてから暫くの間、二人は無駄話をしながら飲んでいたらしい。だが、高木は唐突に立ち上がって財布から万札を取り出し、テーブルに置いて出て行ったという。
「突然だもん、驚いたよ、俺だってさ」
 榊は電話の向こうで笑っていた。
「普通にくだらねえこと喋ってたんだぜ。それがいきなり立ち上がって万札置いて、やっぱ行くわ、って。どこに、って訊いても何も言わないし、だから便所かと思って待ってたら戻ってこなくてさあ。俺もちょっと酔ってたから、すぐ気付かなかったんだけど。で、何か俺捨てられた女の気分になったっつーかさあ。仕方ねえからカウンター席に移って閉店まで一人で飲んだよ」
 最初の話では、閉店まで古河を待とうという話だったとか。休前日で、店の閉店は午前一時だったという。もしその時間まで高木がそこにいたならば、古河は電話には出るどころではなかっただろう。
 井上が何か言いかけたが、中年の女性店員が盆を両手に歩み寄ってきた。それぞれの前にプラスチックの盆に載った定食を置き、伝票を置いて一旦戻って行く。水差しを持って戻ってくると古河のグラスに水を注いで立ち去った。
 井上が割り箸を割る。何となく黙ったまま食いながら、そういえばこの間もろくに喋らないまま食ったっけな、と思い出した。
「で?」
「は?」
 何だか、同じことを繰り返している気がする。
「高木と付き合うことになった?」
「はあ? 付き合ってねえけど。今現在も、全然」
 申し訳程度に油揚げと葱が浮いた味噌汁を啜りながら言うと、井上は眼をしばたたいた。
「あれ? そうなの? 俺はてっきりそういうことになったんだと」
「別に」
「だって、高木は——」
「あいつが俺のこと好きとか言ってんのは、前からそうだけど。でも付き合うとか付き合わないとか、そんな話になったこと一遍もねえし」
 井上は白米を口に入れて咀嚼し、嚥下して首を傾けた。
「何だ、じゃあ俺にもまだ可能性はあるんじゃない?」
「ない」
「はっきり言うなあ」
 また同じセリフを吐いて、井上は苦笑した。井上が心から自分に惚れているとは思えない。そして、井上自身もそれを分かっているのだろう。
 例え彼が本気であったとしてもどうにもならないが、それでも、井上が本気ではないという事実は古河の良心を宥めるのにほんの少しだけ役に立った。自分が利己的な人間なのは分かっている。それでも、できれば誰かを傷つけずに生きて行きたい。靖人にそうしてしまったように、誰かを泣かせるのは嫌だった。
「……あいつと、付き合ってないとは言ったけど」
 古河は小鉢の中の玉子豆腐を箸の先で二つに割った。
 本人にも言ってはいない。それはまだ、恋とか何とか、呼べるようなものになってはいないから。そして、これからなるかどうかもまだ分からない。ただ、可能性があるなら捨てる気にはなれない。それだけのことだ。
 玉子豆腐の曖昧な黄色を暫し眺め、井上の顔に目を向けた。
「けど、なに?」
 井上は、酷く優しく微笑んだ。
「——何とも思ってないとは言ってねぇよ、一回も」

 

「あー、今日も暑かったな」
 高木は言って、抱えた上着を左手に持ち替えた。
 サマーウールと言えど、ウールはウールだ。確かに、この時間になっても抱えているだけで触れている部分に薄らと汗をかく。
「明日から雨降るってよ。会社の人が言ってた」
 陽が落ちて以降、僅かながら気温が下がった夜の空気は、既に明日の雨天を感じさせる湿っぽさだ。
「会社に気象予報士がいんのかよ、お前んとこ」
「いるわけねぇだろ」
 古河が呆れたように言うと、高木は古河を横目で見下ろして鼻を鳴らした。
「冗談に決まってるだろうが」
「知ってるよ。それよりお前何でいんの。今日、小野田と飲みに行くって言ってなかった、朝」
 アパートに向かって歩きつつ、古河は今更ながら思い出した。確か、朝の通勤電車の中で、高木は古河も知っている小野田という同級生と飲みに行くと話していたのだ。
「延期した」
「何で。連休明けだからか」
「そうじゃねえよ」
 高木が不意に立ち止まり、古河はつられて足を止めた。高木の顔を見上げ、今更ながら思い至る。飲みが中止になったということは、もっと早く帰宅できたということではないか。エレベーターホールに立っていた高木の背中に何も考えずに声をかけたが、もしかして、高木は古河の残業が終わるのを待っていたのだろうか。
「お前、今日誰と昼飯食った?」
 古河は小さく溜息を吐く。
「……関係ねえだろ」
 高木は古河の返事に底意地悪くにたりと笑った。まったく、一体どこで見られているものやら分からない。
「分かったよ、井上さんと食ったよ。それがどうした」
「別に?」
「昨日の金返しただけだって」
「金?」
「だからホテルの」
 高木は更に唇の端を吊り上げた。目は、どちらかというと据わっている。
「ホテルの、ね」
「……何だよ今更。だからまだ何もしてなかったってはっきり」
「分かってるけど頭に来んだよ」
 いきなり腕をがっちり掴まれ、古河は引き摺られるようにして前進した。
「ちょ……それと小野田に何の関係があんだよ!?」
「あいつなんかなあ、明日でも明後日でも来年でもいいんだよ別に」
「だからそれとこれにどういう」
「お前がフラフラしねえようにすんだよ。先に言っとくけど、俺は理恵子とは切れたからな、きれいさっぱり」
 そんなことを言われても、理恵子というのが一体誰だか分からない。
 古河は高木に掴まれた腕を自分の方に引き寄せながら足を踏ん張り、まるで幼稚園に行きたくないと駄々をこねる子供の如く何とか速度を緩めようと奮闘した。
「あのな! 俺が誰と飯食おうが関係ねえだろ!」
 井上と昼飯を食っただけでフラフラとか言われては敵わないし、大体恋人同士というわけでもない。
「関係あるに決まってんだろうが」
「フラフラしねえようにって何だよ、離せって」
「俺以外の誰にもついていきたくならねえようにするって言ってんだよ」
 高木は大股に数歩行ってまた立ち止まり、古河を引き寄せ間近に顔を近付けた。
「近いんだよ、離れろ馬鹿!!」
「そんなに喚きたきゃ、声抑えなくていいホテルにするけど」
「行かねえよっ! 声出すこともしねえし、俺は!」
「馬鹿、俺がするんだよ。お前が声出すようなことを」
 高木はにやりと笑って顔を傾けた。
「泣いてもやめねえからな、覚えとけ」
「泣くか! 行かねえっつってんだろが」
「分かった分かった、じゃあホテルは行かねえ。部屋で済ます」
 高木はまた古河を引っ張って歩き出した。いつものコンビニの灯りが前方に見える。
「何が分かったんだ! ちっとも分かってねえだろお前」
「あ、そういやゴムあったっけな。買って行くか? ……一緒に」
 振り返って、意地悪く、そして心底楽しそうに高木は笑った。

 時刻は現在二十一時十三分。
 二十五時までは、まだ遠い。