overflow 1

 高校時代から彼を知っている。だが、泣くのを見たのは初めてだ。
 涙なら、何度か見たことはあった。階段の角に足の小指をぶつけたとか、鼻を殴られてつーんと来た、とか。どちらにしてもそれらは生理的なものであって、悲しいとか嬉しいとか、そういう感情が混じっていたわけではない。
 ドアを開けたら真っ白な顔で立っていた。もしやついに刺されたか、と一瞬物騒なことを考えたが、見たところ怪我もないし怖い顔で彼を脅す男も立ってはいない。黙って部屋に上がりこんだと思ったら、隅っこで丸くなった。訳が分からず見ていたら、食いしばった歯の間から噛み殺しきれない嗚咽が漏れて、膝の間に落とした頭が震え始める。
 近寄ったら詰まる声で話しかけるな、と拒絶され、ではなぜここで泣くのか、そもそも何でお前は泣いてるんだという問いは発せられないまま終わった。
 声を殺して泣き続ける竜矢を、篠原はなす術もなくただ見ていた。

 その日、篠原は電車のドアが閉じる直前に車内に滑り込んだ。急いではいなかったが、乗れそうだと思うとなぜか乗りたくなってしまうのが人間で、コートの裾を挟まれそうになりながらも駆け込んでしまった。たかだか五分程度の違いなのに、おかしなものだと思う。
 ただ、もしその日その電車に駆け込まなければ、篠原は竜矢と入れ違っていただろう。竜矢が部屋のチャイムを鳴らしたのは篠原が帰り着いた二、三分後だったし、竜矢が逃げ込むのはここである必要はなかった。単にその時一番近い場所にあったのが篠原の部屋で、竜矢は屋根と壁が欲しかっただけだった。
 電車に乗り遅れたら。
 今でもそう思うときがある。
 もし篠原が駆け込み乗車をしなかったら、竜矢が失うのは一つで済んだかもしれない。その一つが何とも比べようがないくらい、大きいものだったとしても。

 やっと竜矢の肩の震えが治まった。引き攣ったように鳴る喉の音も、聞こえなくなった。篠原は立ち上がると、部屋の隅に蹲る竜矢の前にしゃがみこんだ。百八十に僅かに足りないだけの竜矢は、いくら膝を抱えているとは言え十分でかくて、無視するには存在感がありすぎる。
「おい、竜、どうした。大丈夫か?」
 竜矢は抱えた両膝に頭を乗せたまま、ゆっくりと首を横に振った。それが大丈夫でないと言うことなのか、それとも話しかけるなと言うことなのか、幾ら付き合いが長くても篠原には分からなかった。
「なあ、どっか痛いのか?」
 僅かに顔を上げた竜矢は酷い有様だ。あれだけ泣いていたのだから当然だろう。瞼が腫れ、目が充血している。わりに綺麗な顔をしているのだが、これではそれも台無しで、竜矢に群がる女どもがさぞやがっかりするだろう。
 篠原は溜息を吐いて立ち上がるとタオルを絞り、竜矢のところにとって返す。竜矢は黙ってタオルを受け取ると目の上に載せ、壁に凭れて顔をあお向けた。
「お前な、いきなり来て散々泣いてだんまりかよ。飯食いたいから早く説明してくれ」
 篠原はもう一度溜息と共に吐き出した。
 竜矢とは高校の同級生で、三年間同じクラスだった。篠原はクラスでも学年でも成績は常にトップ、片や竜矢は高校入試で勉学への意欲をすべて使い果たした元不良中学生で、あっという間に現役不良高校生に返り咲いた。
 父親の転勤で他県から引っ越してきた篠原が自分の偏差値よりかなり低い高校に編入しなければ、竜矢との接点は一生なかったかも知れない。だが、何の因果か二人は同じクラスになってしまい、おまけに勉強が出来るだけで素行はあまりよくない篠原は竜矢とひどく馬が合った。
 その後、篠原が大学に入りそこそこの会社に就職しても、竜矢が専門学校を中退して怪しげな職業を転々としていても仲の良さは変わらず、付き合いも相変わらずだった。
 だからこそ、篠原はこんな竜矢を見たことがなかったし、口でどう言おうと、一体何があったか心配だった。
「話したくねえよ」
 竜矢は泣いたあとのおかしな声でそう呟く。
「そりゃないだろ。いいから言えって」
 篠原は竜矢の前に胡坐を掻いた。詮索するわけではないが、流石に友人のこんな姿を見てはいそうですか、じゃあご勝手に、と言えるほど薄情ではないつもりだ。それが十六のときから知っている奴となれば尚更で、篠原は竜矢のタオルの下の目を睨んだ。
「竜矢」
 竜矢はタオルをつまむと、その下から篠原を見た。篠原がどっかり胡坐を掻いているのを見ると、タオルを戻して溜息を吐く。そしてそのままの姿勢で小さな声を出した。
「お前に、佳苗を会わせたことあったっけ?」
「かなえ……? どれだ? パーマの茶髪か?」
「違う、それじゃなくてストレートのロングヘア。割と黒っぽい色の」
「ああ……」
 竜矢は昔から女に手が早く、そして同じくらいにもてた。綺麗に整った顔もさることながら、あの気の荒さ——弟の昌也曰く、性格はゴリラだそうで、言い得て妙だ——とは裏腹に、女にはひどく優しくまめなせいだろう。二股でも構わない、と言う有り難い女も多く、自然一度に二人三人と付き合うことになり、篠原も紹介された彼女達を覚えきることができたためしがない。佳苗という女の子も、ヘアスタイルは覚えているが、顔がどうしても出てこない。
「会った、かも。わかんねえなあ」
「あいつさあ、子供できたって」
 一瞬何の話か分からなかった。
「は? 結婚したの?」
「馬鹿、違う。俺の子だって」
 竜矢の声は酷くか細く、震えていた。

「ピル飲んでるってのは、知ってたんだよ」
 竜矢はぼそりと呟いた。
「佳苗とは結構長いし、あいつが本当に飲んでるの知ってたから、気が緩んだ。ゴムなしでしようって言われて、——普通なら絶対しねえけど、まあピル飲んでるなら、ってよ」
 タオルに隠された竜矢の表情はよくわからない。
「あいつに子供できたって言われて——嫌だとかまずいとかじゃなくて、何で騙したんだ、って腹立って。作りたいなら言やあよかったんだよ、このままじゃやだとか、結婚してくれとか子供欲しいとか。なのに、わざと飲まないで、飲んでるって……それで」
 篠原は竜矢の仰け反った喉に目をやった。ごくりと唾を飲み込んだ竜矢の尖った喉仏が上下する。
「裏切るようなことしねえで欲しかったら欲しいって言え、って怒鳴った。そのまま帰って、……帰って」
 竜矢の声が震え出した。竜矢が急に頭を起こし、顔に載ったタオルが湿った音を立てて床に落ちた。竜矢の腫れた目には涙が盛り上がっていた。
「そしたら、さっき電話、来て……次の週に……堕ろしたって、ごめんね、って言いやがって……。俺の」
 篠原は何も言えずに固まっていた。竜矢の眼にたまった涙は、そこから出られないとでも言うように頑固に目尻に居座っていた。竜矢の喉からまた引き攣れたような音が漏れる。
「俺の子供、だったのに」
「——竜矢」
「勝巳」
 竜矢の眼から涙が零れた。それはあっという間に頬を濡らし、竜矢の歯噛みする音が篠原にも聞こえた。
「俺の、……子供だったんだ、勝巳」
 顔を伏せた竜矢の膝の間の床に、透明な雫がいくつも落ちた。堪えきれずに漏れる引き伸ばしたような長い嗚咽に、神経の束を引っ張られるように体が痛む。
 思わず手を伸ばして頭を抱いても、竜矢は何も言わなかった。多分どうでもいいのだろう。慰める言葉も励ます言葉も、却って竜矢を傷つける気がした。篠原の腕の中で、竜矢は長い間声を殺して泣いていた。

 篠原が竜矢に恋したのは、皮肉なことにその時だった。
 一目会うこともなく、一瞬で奪われた子供を想って泣く竜矢が、どうしようもなく愛しくなった。泣きすぎて腫れた不細工な顔も、佳苗ばかりが悪いのではない事の顛末も、どうでもよかった。長い間大事な友人だった男は、その時腕の中で何より大事な何かになった。

 竜矢はいつでも違う仕事に就いている。金さえ払えば誰にでも入学できる専門学校——何を専門にしていたのか未だに篠原には分かっていない——を中退して以降、竜矢は常にその状態にある。
 中高一貫して悪い仲間と荒れた青春時代を送った竜矢は、あわや暴力団の構成員になりそうなことすらあったが、どうにもあの上下関係が嫌だとぬかして逃げ出した。
 それから一時はスロットで生計を建てたり、ホストまがいのこともやっていた。今は飲み屋のホールスタッフだったり工事現場で穴を掘っていたり、とにかくひとつ所に落ち着いていない。
 ごく普通の会社員である篠原からすれば危なっかしいことこの上なく、何かにつけ水商売でも何でもいいからせめて一箇所に勤めろと口を酸っぱくして言うのだが、竜矢が従った試しはなかった。
 だから、翌日も翌々日も自分の部屋に居座る竜矢にいつもどおりの憤りと心配を感じたのも事実なら、目の届く所にいるという安堵を感じたのも事実で、篠原の心中は複雑極まりない。
 家事一切に興味のない竜矢が日中篠原の部屋で何をしているのかはわからないものの、近所のコンビニ以外には出かけた形跡もない。外せない打ち合わせを終えて十時過ぎに帰宅したら、八十円のオレンジジュースのパックをぼんやり眺めて火のついていない煙草を銜えていたりするから、篠原は内心頭を抱えた。
「——竜」
「何」
 普段は人並みに喋る竜矢も、あれ以来めっきり口数が少なかった。受け答えは殆ど単語だ。
「吸わないなら銜えるな。湿るぞ、フィルター」
「あー、ああ、だな」
 ここ数日で傍目にもやつれた顔に、無精髭がうっすらと浮いている。痩せた竜矢が髭を剃らないと、やけにみすぼらしく貧相に見えた。
 髪型はころころ変わるし色もしょっちゅう変えている。今は全体的に長め、色はくすんだような濃い茶色で、その色と髭が相まってやけに顔色が悪く見える。
 そんなしけた顔を見てもわけもなく息苦しくなる自分がどうにも哀れだった。長い間見慣れてきた顔に今更、何を見惚れているのか。綺麗だ何だ言っても、竜矢は結局百八十センチ近い身長がある立派な男だ。それに加えて、殴り合えば恐らく自分が負けることはまず間違いないというのに。
「俺もう飯作るの面倒だから、食いに行かないか? お前また何も食ってないだろ?」
 篠原がコートを脱がずに訊くと、竜矢は気の乗らない様子で曖昧に頷いた。
「竜矢、お前さ」
 ソファから動こうとしない竜矢に焦れて、篠原は竜矢の前に立って見下ろした。竜矢は相変わらず火の点いていない煙草を唇の端に貼り付けたままだ。
「俺が色々言っても何にもならんから言わねえけど、食うぐらいしろよ。そんなで倒れても仕方ないだろう」
「わかってるよ」
「わかってんのか、本当に」
「うるせえなあ、分かってるって!」
 いきなり怒鳴った竜矢の顔が篠原を睨んだ。あの後篠原の所に居ついて以来、竜矢が初めて見せる感情の爆発だった。篠原は黙って竜矢の睨みつける目を見つめた。
「どうせ俺は馬鹿だよ、どうしようもねえ大馬鹿だよ」
 言いながら竜矢が立ち上がって篠原を間近で睨む。手に持った煙草で篠原の胸を突きながら竜矢は喚いた。
「悪かったな、食えねえんだよ、全部戻しちまうからな!! この馬鹿男にそんな繊細な神経があるかって、俺も思ったけどそうなんだから仕方ねえよ。食えるもんなら食ってるよ、くそっ」
 竜矢は曲がった煙草を床に投げ捨てて篠原の胸倉を両手で掴んだ。
「食わせてみろよ、勝巳。お前は昔から俺と違って何でも上手く出来たよな。だったら勝巳、何とかしてくれ……!」
 歪む竜矢の顔を、両手で挟んで引き寄せた。
 合わせた唇の感触を探りながら、何をしているのか、と思わないでもなかった。何をどうしようと思ったわけでもなく、明確な欲望があったわけでもない。このままでは泣き声を上げそうな竜矢を黙らせたかっただけだったかも知れない。
 いつも何かを鼻で笑って蹴飛ばすような竜矢が好きだ。愛想はないが、機嫌のいいときに浮かべる開けっぴろげな満面の笑みが好きだ。あんなふうに泣いてほしくなかった。それだけだった。

 顔を離した途端、竜矢が頭を後ろに引いた。かと思ったら額に強烈な衝撃を受けて、篠原はそのまま床に尻餅を付き、勢いで背中から転がった。
 考えるまでもなく、竜矢の頭突きをくらったのだ。もろに当たった硬い骨に、頭蓋の中で除夜の鐘が鳴っているような奇妙な感覚に陥る。痛みはいずれ襲ってくるのだろうが、今この瞬間は眩暈の向こうに霞んでいた。
「何やってんだ、この、……!」
 絶句した竜矢に言いたかった。これじゃあ言い訳も出来やしない。頭突きの前に言ってくれ、と。