overflow 2

「勝巳、竜矢来てるんだけど飲みに行かねえ?」
 能天気な声は、竜矢が何も言っていないことを物語っていた。そうでなければ流石に無神経な中林でも、そんな電話はかけてこないだろう。
 わずかにこぶになった額を気にしながら、篠原は椅子の背に凭れた。社内にはまだ数人の同僚がいて職務にせいをだしている。しかし時間外の今は、席で私用電話をしていたところで咎める者は誰もいない。
「俺まだ会社にいるんだよ」
「おっ、さすが一流企業のリーマン様は勤勉だねぇ。花金だっていうのにさ」
「っせえなあ、からかってんじゃねえよ、馬鹿たれ。何がハナキンだ」
 斜め向かいの同僚がちょっと驚いた顔をして篠原を見た。それはそうだ。社内では昔ながらの口調に戻る機会は余りない。だが、それを気にしているような精神状態ではなかったから、同僚の視線は無視して中林の声に注意を戻す。
「だから行けねえけどさ、竜矢元気?」
 一昨日の夜、篠原に頭突きをかました直後に竜矢は出て行った。それは当然だと思うし責めるつもりも毛頭ないが、状況が状況だけに心配だった。ただ竜矢の交友関係は無駄に広く、誰に様子を訊いたらいいものかすら悩んでいたので、旧友からの電話は渡りに船だった。
「電話代わるかぁ?」
「いや、いいよ。ただ、元気かなと思って」
「何言ってんだよ、お前ら一番仲いいんじゃん。会ってねえの?」
 一昨日の夜以降。心の中でそう返し、口ではまあ、とか何とか呟いた。気がよくて頭が回らない中林はそっかー、と気の抜けた返事を寄越した。
「元気なんじゃねぇの? 知らんけど、髪の毛以外変わってねぇみたい」
「そうか。……じゃあ宜しく言っといて」
 じゃあな、と切れた電話を見つめて、篠原は重い溜息を吐いた。あれからちゃんと食えるようになっただろうか、と考えている自分に気付き、篠原は苦笑した。よく考えてみれば高校以来ずっとこうだ。竜矢は好き勝手に暴れ回り、時には警察に補導されそうな竜矢を抱えて帰ったり、試験の前には阿呆な脳みそに無理に単語を詰め込んだり。それでいて竜矢から頼ってくるわけではないのだから、結局あの頃から自分は竜矢を構うことに喜びを見出していたのだとしか思えない。
 皮肉なことに、竜矢に恋愛感情を持ってしまったばかりに、今までのように世話を焼くことはできなくなった。そう思えば、離れるのにいい機会なのかも知れない。自嘲気味に笑った篠原は、直後、勢い良く袖机を蹴飛ばした。派手な音と振動に、周りの同僚が何事かと腰を浮かせる。
「ああ、もう、死んじまえ!!」
 頭を掻き毟って机に突っ伏す篠原に、同僚達の残業もほどほどにしろよ、とあたたかくも的外れなアドバイスが降り注いだ。

 どこか遠くで、何かを叩く音がする。篠原の意識はそれを捉えたが、体はすぐには反応しなかった。同時に何か音も鳴っている。立て続けに押される、——チャイムの音。
 目を開けると、自分の部屋のソファの上だった。時計は三時半過ぎを指しており、電気はつけたまま、上着だけは脱いでいたものの、ネクタイすら締めたままだった。
 ぼんやりと記憶が甦ってくる。そうしている間にもチャイムは鳴っており、部屋のドアを叩く音も続く。寝惚けてふらふらする頭を何とか真っ直ぐにしながら、篠原は玄関に向かった。
「勝巳ぃー。起きてくれー」
 ドアの外からする声は、聞きなれた友人のものだった。
「中林……?」
「悪ぃ、こんな時間に。開けてくれー」
 間延びした中林の声に鍵を開けると、何かを担いだ中林が額にびっしりと汗を浮かべて立っていた。
「お届けものだよ、まったくもう」
「はぁ?」
 よく見ると、中林が担いでいたのは竜矢だった。中林は竜矢より背が低い。がっしりしているが、見ようによってはやや肥満気味とも言える。いくら痩せているとは言っても、エレベーターのないアパートの四階まで竜矢を担いでくるのは一仕事だったのだろう。篠原にぐったりした竜矢を押し付けると、手の甲で汗を拭った。何が何だか分からないでいる篠原に荷物を預けてほっとしたのか、中林はにこにこと笑った。
「酔ったみたいで、こいつ店でゲーゲー吐いてさぁ。それでも勝巳と飲むんだ、勝巳が来るまで帰らないってうるせえからもう持ってきちゃったよ」
 目をしばたたく篠原を見上げて、中林は咎めるように指を突き出した。
「お前が残業終わったら呼ぼうって話になったんだよ、皆でさ。でも電話しても出ねえからもうちょっともうちょっと、って店に長居して。そのうち竜矢は真っ青通り越して真っ白になるし、お前に会うってきかないし、竜矢は一回そうするって言ったら死ぬまで諦めねえしよぉ」
 篠原の肩に物のように凭れかかった竜矢は、なるほど青い顔をしている。意識はあるのかないのか、立っているのも支えがあるからに過ぎないと言った有様だ。
「じゃあまたな。今度こそ来いよ!」
 勝手に喋って勝手に肩の荷を下ろした中林は鼻歌交じりでドアの外に消えた。篠原はすっかり眠気の飛んだ頭で、わけのわからない状況に困惑したまま突っ立っていた。

 ソファに寝かせた竜矢は、少しして身じろぎし、目を開けた。一昨日とは違う格好をしているが、同じように疲れて見える。冷たい額にへばりついた前髪の間で目が彷徨い、篠原を認めると息を吐いた。
「中林が、担いで来たぞ」
「……ダイエットしてるって言うから、協力したんだよ」
 竜矢は力ない声で呟いた。
「また吐いたんだって?」
 ソファに身を起こすと、竜矢は頷き、両手で顔を擦った。
「食えないって言ったら皆心配するからな。結構、飲んだし」
 確かに竜矢の息は酒臭かったが、そのわりに表情に酔いは見えない。全部吐いてしまったせいかもしれなかった。水を差し出すと黙って受け取って飲み干す。まだ胃がおかしいのか、飲み終えた後に妙な顔をした。
「今、何時」
「あと十五分くらいで四時」
「何でそんな格好してんの、お前」
 言われて自分を見直すと、確かにこの時間にこの格好はおかしな感じがした。そのまま寝たのでズボンに変な皺がついている。
「……疲れてソファで寝てたから」
 それは嘘ではなかったが、本当でもなかった。十一時頃までだらだらと残業をし、それこそ何も食いたくなくて真っ直ぐ帰ってきた。酒で忘れるほどの潔さもなく、だからと言って竜矢に電話をするほどなりふり構わない態度も取れない。どうにもならなくてソファの上で愚にもつかないことをあれやこれや悩んでいるうち、眠ってしまったらしかった。
 悩んで眠れないというのは、必ずしもすべての人間に当てはまるものではないらしい。あれだけ悶々としていながら結局は睡魔に負けた自分が、やけに無様に思えた。
「何か食いたい」
 物思いに耽っていると、不意に竜矢が呟いた。低い声は、散々吐いたせいか、ほんの少し掠れている。
「腹減った」
 見上げる目には、竜矢が転がり込んで来て以来久し振りに見る、しかし長年の間にすっかり見慣れた乱暴な光があった。篠原は、そのやつれた頬を眺めながら、理由のない息苦しさを緩和しようと、ネクタイを緩めた。
「——食ったら吐くんじゃねえの」
「食わせてくれよ。……言ったろ? お前が、何とかしてくれ」
 目を逸らさない竜矢の台詞に、溢れ出したこれは一体何だろう。流れたかと思った涙はなく、篠原の目尻は乾いている。胸を重いもので強打されたような感覚に、息が止まりそうになる。篠原は思わずその場に座り込み、頭を抱えた。ソファに座る竜矢を見ることも出来ない。
 いっそ出て行った時のように、暴力付きで拒否された方が楽だったと、今更ながら思い知る。失われた竜矢の子供。自分はこの上、どれだけ竜矢から奪うことになるのだろうか。

「お前……」
 言葉に詰まる篠原を、竜矢はじっと見つめた。喧嘩の前に相手の出方を見極めるような真剣な眼差し。篠原の喉が狭まる。竜矢は先を促すように篠原の目を見て、僅かに首を傾げた。
「——お前、どうしても子供欲しい?」
 篠原がやっとの思いで搾り出した言葉は、情けなくも酷くしわがれて上擦っていた。竜矢がちょっと眉を寄せる。言っている意味が分からない、という時の非難の表情だ。
「まあ……、いなきゃ将来ジジイになった時寂しいとは思うけどよ、今欲しいってわけじゃ……。それが?」
「じゃあ俺はお前の葬式出してから死ぬ意気込みで長生きするよ」
 篠原の台詞に、竜矢が益々眉を寄せた。
「絶対とか永遠なんて有り得ねえから約束は出来ないけど、続く間はずっと、お前の骨拾うつもりでいる。料理も洗濯もお前が出来ないことは全部俺がやってやる。もう訳のわからん商売を辞めろとも言わない。なんでもいい」
 黙って聞いていた竜矢が、頭をがりがりと掻いて呟いた。
「何言ってんだ、勝巳」
「何って」
「料理だの洗濯だの、……なんか知らんがみっともねえな」
 篠原は肩を竦め、俯く竜矢の頭頂部をぼんやり見つめた。口に出したら、なんだか急に気が抜けた。
「みっともなくたっていいよ。どうせお前には女を口説く俺のやり方なんか全部知られてるんだ。今更取り繕ったって仕方ねえよ」
「そりゃ、——って、何、俺が女かよ」
 不本意そうに鼻を鳴らした竜矢が顔を上げて僅かに眉を寄せる。
「そういう意味じゃねえよ。……そういう意味じゃねえけど、まあ、お前が下だろ」
「ああ!? マジかよ、俺やられんのかよ。勘弁しろよ」
「じゃあお前俺相手にそういう気になんのかよ」
「誰がお前みたいにでかいの相手に……。お前俺より重いだろうが」
「そりゃ二センチでかい分重い」
「一センチだろ」
「二センチだよ」
「どっちでもいいけどよ、俺の馬鹿頭にも分かるように言えば、要はお前は俺とやりたいってこと?」
 身も蓋もない。篠原は溜息を吐いた。竜矢にデリカシーが欠如しているのはよくよく知っていたはずだったが、改めて目の当たりにすると流石にどうかと思わないこともない。
 突如としてさっきまでの緊張が馬鹿馬鹿しく思えてきた。午前四時に男二人が顔をつき合わせて、どっちが上だとか下だとか、やりたいとかやりたくないとか。
「じゃなくて」
「したくねえのか」
「だからしたいけどそれだけじゃなくて」
「俺が好きか」
 竜矢の眼が眇められ、前髪の間から篠原を見た。どこか微笑んでいるようにも見えるその顔に、篠原はゆっくりと頷く。そう、なんだかんだ言って、昔からこいつのことを大事にしていた。口喧しく言いながら、結局甘やかしていたのは誰あろう自分に他ならない。
 竜矢の左手が僅かに動いた。何となく目で追ったが、竜矢の顔が見たくてすぐに視線を元に戻す。
「……俺は競争率高えよ」
 竜矢が、綺麗な顔を歪ませて不敵に笑う。
「馬鹿野郎、俺はあのアホ高校からあの倍率で志望校一発合格した男だぞ」
 篠原は、つまりそうになる喉を振り絞り、平然と聞こえることを祈りながらそう言い放った。口から飛び出しそうな心臓の音が、どうかこの阿呆に聞こえませんように、と祈りながら。
「へえ、そうですか。じゃあお手並み拝見だな」
 竜矢がにやりと笑った。十六の、頭の悪いガキの頃から変わらない竜矢のふてぶてしい表情。信じられないくらい、そのすべてを愛しく思った。

 筋が攣りそうなほど広げられた竜矢の掌を、指でなぞる。手首から徐々に、骨の形を辿るように。合わせてみると、ほんの僅か、竜矢の手のほうが小さかった。二人の身長差を表すように、ほんの少しだけ。指を絡ませると、竜矢の手は一瞬逃げ、それでも握り返してきた。
 湿った額に自分のそれを押し付けると、竜矢がうっすらと目を開けた。何度も、数え切れないほど見つめてきた目だが、この距離で見るのは初めてだった。少し色素の薄い目が、瞬きもせずに篠原を見る。篠原の指の動きに合わせ、僅かに細められる目に見えるのは、自分が願う何かだろうか。
「……勝、巳」
 苦しげに詰まる呼吸の合間に呼ばれる名前。知っていることばかりだと思っていた、竜矢のすべて。合わせることなく、それでも間近にあるお互いの唇から吐き出される荒い息。混ざり合った喘ぎがどちらのものなのか、熱に浮かされたような頭には判別できない。
 永遠に続くものなど何もない。続くはずだったこの友情が、こうして愛情に変わったように。それがよかったのか悪かったのか、今はどちらとも言えなかった。篠原は今、竜矢を抱きながらなお逡巡する自分を叱咤する。今から考えても、もう仕方のないことだ。俺は手を伸ばし、そして竜矢は失った。きっと、沢山のものを。だったらその分、自分が与えられたらいい。
「……あ…」
 初めて耳にする竜矢の高く掠れた声に、喉が干乾び思考が止まる。篠原は、間近にある竜矢の濡れた睫毛に口付けた。
 考えるのは後でいい。奪ったものを悔いたところで仕方がない。その時残せる何かを残したかった。誰より大事な、この腕の中のその人に。