くちにだせないあいをささやく

 篠原が部屋に帰ると、そこには既に客がいた。
 玄関に脱いだままの状態で転がされた黒と白のスニーカーで客の正体が知れる。自分のビジネスシューズの上に転がるそれを見て、篠原は苦笑した。
「竜矢?」
 名前を呼びながらドアを開ける。客は部屋の主のように偉そうにソファにふんぞり返ってテレビを見ていた。
「竜矢」
 竜矢は彼を見ようともしない。先日、家族にカミングアウトすると言っていた竜矢の姿を見るのは久しぶりだった。
 最後に見たとき、彼は女装のリハーサルで結構ないい女に変身していた。百八十に数センチ足りないというその身長が、いささか不自然な感はあったが。
 どちらにせよ、女の格好をした竜矢に興味はなかったし、がんばれよ、と適当な声をかけてそのまま別れた。それ以来、電話もかかって来ていなかった。
「竜」
 三度目で、竜矢がやっと目だけを動かして篠原を見た。
「早かったな」
「今日はうまく片付いたんで、やめてきた」
 篠原は上着を脱いでダイニングテーブルの椅子の背に掛け、竜矢の隣に座った。竜矢は迷惑そうに少し端へ寄ると、またテレビの画面へ目を戻した。
 若い女の子に人気のアイドルと中年女優の司会者が、悩みを抱える主婦Kさんの不倫体験に鹿爪らしい顔で頷いている。Kさん(二十四歳)の、プライバシー保護されたダックボイスが、彼との出会いを語っていた。
 興味がないくせに、竜矢はテレビを睨み殺しそうな目で見つめている。いわゆるガンタレだ。流石に年季が入っていて、テレビが居たたまれなくて壊れるのではないかと思う。
 篠原はリモコンに手を伸ばしてテレビを切った。
「ご両親に、話せたのか」
 竜矢は既に山盛りになった灰皿の脇の煙草の箱を取り上げた。しかし空だった様で、イラついたように舌打ちすると、灰皿の頂上のやや長めの吸殻を銜えた。
「シケモクなんかよせよ、ガキじゃあるまいし」
 篠原が自分の箱を差し出しても、物も言わずに銜えた吸殻に火を点ける。
「俺がオカマになったって信じて、娘だと思って暖かく見守ることにしたらしいぜ」
 フィルター部分が曲がった煙草を銜えて、竜矢は短く切った髪に手をやった。
「弟には言ったけどな、嘘だって」
「昌也か。かわいがってたもんな、昔から」
 篠原は、竜矢の弟の顔を思い出す。最近は会っていないからどんな青年になったか知らないが、竜矢にはちっとも似ていない子だった。
 明るくて優しくて、ごく真っ当な人生を歩むであろう昌也。昔から馬鹿で危ないことばかりしていた竜矢とは別の世界の住人だ。
 近々結婚するというから、幸せになってほしいと、竜矢のために心から思う。
「相手がお前だって知ったら、救急車で運ばれたんじゃねえか、あいつ。腹が据わってねえからなあ」
「——俺のこと、言った?」
 自分でも煙草を銜え、篠原はソファに身を沈めた。
 竜矢とは高校の同級生だ。こんなことになってしまったのは割りに最近の話だが、昔から友人として三嶋家には出入りしてきた。
 竜矢の友人達の中ではかなりまともな部類に入ると認定された篠原は、三嶋家では妙に有り難がられている。
 しかし、そいつのせいで竜矢がまともじゃなくなったと知れば、出入り禁止ぐらいでは済まされないだろう。
「言ってねえよ。話がややこしくなるだけだろが」
「そうだよな」
 二人が吹き上げる煙が、天井にまとわりついて雲のようだ。
 それを見上げながらも、篠原は隣の竜矢の整った顔を盗み見た。この不機嫌さは、どうだろう。
 元々愛想がいい方ではないが、根は明るい男だ。両親に話したことで罪悪感でも感じたか、下手をすれば別れたいとでも言い出すか。

 容易に人に言えない関係であるだけに、永続性を信じたことはなかった。
 友情は、きっといつまでも続く。余程のことがなければ、壊れはしないのではないかと思う。
 だがそこに愛情が絡めば、それは途端に脆いものになる。
 自分で最後の一歩を踏み出しておきながら、酷く後悔することもあった。
 失くしたくなければ、触れないほうがよかったのだ。薄い茶碗を割りたくなければ、食器棚の奥にしまってしまうのが最善だろう。
 見て楽しめなくても、触れて楽しめなくてもいいのなら、という条件付ではあるけれども。
 竜矢の硬い線の横顔を見ながら、腿の辺りに感じる寒気を何とか無視しようとした。
 落ちそうな灰を気にしながら、灰皿に無理矢理吸殻を差し込む。竜矢の銜えていた吸殻が、灰皿から零れ落ち、テーブルの上に転がった。
「勝巳」
 竜矢が、篠原を呼んだ。
「ん?」
 振り向いたら、竜矢が篠原をじっと見ていた。
 その辺のチンピラが走って逃げ出す竜矢のこの目つき。甘えも媚も、彼の目に見たことはない。友人から恋人となっても、それは変わらない。
「今更、逃げ出したら許さねえからな」
「逃げ出すくらいなら、最初から男に手なんか出してねえよ」
 その言いようにむかついて、思わず言葉が荒くなる。スーツを着て会社に通って、取引先に頭を下げて、給料を貰って。それでも結局竜矢と自分は同じ穴の狢なのだ。
「どうだか」
「ざけんなよ、この野郎」
 竜矢の顔が笑いの形に歪んだ。昔から、喧嘩の前にはこうやって楽しそうに笑う男だ。
「何年てめえの馬鹿頭に我慢してきたと思ってんだ、俺が?」
「そりゃあ悪かったな、今からでも遅くねえんじゃねえか」
「とっくに時間切れなんだよ、くそったれ」
 お互いに悪態をつきながら、唇を合わせる。
 今更甘く囁くことも、愛の言葉を紡ぐことも、お互いを知りすぎていて出来そうもなかった。紛れもない愛情を、感じてはいても。
 だから、罵り合う。
 他人が聞けば悪罵でしかないそれは、愛のささやきに似て。

「おい、」
「うるせえ、口閉じてろ! 黙ってられねえのか、ちょっとは」
 上がる息の間から怒鳴りつけると、竜矢はげらげら笑った。デリカシーも何もない馬鹿男。それでも何よりこいつが欲しいと、そう思う。
 竜矢が、篠原のネクタイを強く引っ張った。この間買ったばかりのレジメンタルタイが、何故か竜矢の手に握られた引き綱に思えて、大きく舌打ちする。
 竜矢はネクタイを放し、その手を篠原の後頭部に回して引き寄せた。
 耳に、竜矢の息がかかる。掠れた声は、低く、まるで誰かを脅しているかのように響く。
「俺も馬鹿だが、お前も馬鹿だ。勝巳」
「まったく、救いようのない馬鹿ばっかりだよ」

 今度こそ口を閉じた竜矢に屈みこむ。
 目を開けたまま不敵に微笑む竜矢に、口付けた。