25時 9

 榊は、やっぱやめた、と言って電話を放り出した高木を横目で睨み、高木がテーブルに置いた携帯を引き寄せた。
「んじゃ俺が掛けてやるって」
「いらねえよ、止めろ、馬鹿」
 最近開発したこの店は大抵混んでいるが、今日は一段と盛況だ。
 お互い残業してきて待ち合わせ、入店して一時間。空いているテーブルはひとつ、カウンターにも一席しか空きがない。料理の匂い、食器が立てる音、笑い声が適度に混ざり合い、居心地がいい店だ。
 しかし、中学からの悪友で同時に親友である男は、まったく居心地よさそうにはしていなかった。
「呼べばいいのに」
 友人の携帯を掌の上に乗せたまま、榊は言った。
 高木は古河にかなり本気になっているようだった。以前はあれだけ強引に迫っていたくせに、ここのところは古河に対してすっかり腰が引けている。それというのも、古河が自分に好かれて迷惑しているらしい、と気にしているようなのだ。
 天下の高木新様が、だ。
 高木の過去の恋愛はどれも大体を把握しているが、ここまでのめり込んだことも、そして隠してはいるものの気弱になっていることも、多分嘗てないだろうと思う。高木は傲慢ではないが、間違いなく強引ではある。恋愛においても同じだから、本気で嫌われたというならともかく、少しでも脈がありそうな相手に対して及び腰になったところなど見たことがなかった。
 相手が同性だというのは、榊にしてみれば単純に「頑張れ」と言えない部分ではあったが、それでも高木を見ていると、一般論を振りかざして翻意を促す気にはなれない。古河とうまくいく可能性が僅かなりとも残っているなら、高木の望むようになって欲しかった。
「顔見たいんだろ、ほんとは。あー、嘘と言い訳は受け付けねえからな」
「何だよ嘘って」
「今そんなことねえとか顔なら毎日電車で見てるとか言おうと思ったろ。そんなのいいから、とにかく古河の顔見てちゃんと言いたいこと言えよ。それで駄目なら仕方ねえけどさ」
「……」
 高木は煙草を灰皿に山になった吸殻の中に突っ込んだ。傍を通った店員が灰皿に気付いてそれを取り上げる。新しい灰皿を持って戻ってきた店員に、榊はすみません、と声をかけた。
「はい」
「ここ、後からもう一人来ても大丈夫ですか?」
「四人掛けですから」
 同年代の店員は素っ気なく言って立ち去りかけた。
「いや、あの金曜だしすごく混んでるから。二時間とか、時間制限あるかなと思って」
 高木が余計な事を、という顔をして睨んでいるが、そんな顔をしても見慣れているから何ほどのこともない。
「大丈夫ですよ。無理に入れ替えとかしてませんから。お連れさん来たら、誰かに声掛けてください」
 店員がいなくなると高木は早速新しい煙草に火を点けた。
「新」
「ああ?」
「呼ぶからな」
 高木が何か言う前に、榊は携帯の履歴を表示させ、古河の番号に電話をかけた。発信履歴の最初の画面に出てきはしたが、古河の番号は一番下だった。まったく、意地を張って何になる。
 好きな相手に会いたいのに電話もできず、貼りついたしかめっ面をどうにもできない奴と飲んでも酒が美味くない。
 呼び出し音が五回鳴り、切ろうかと思ったところで繋がった。
「もしもし」
「古河ぁ?」
「昌浩。久し振り」
「え……あれぇ、井上さん?」
 榊は思わず素っ頓狂な声を上げた。電話から聞こえてきた声は、姉が高校時代に付き合っていた同級生——榊からすると先輩——のものだったからだ。
 姉と彼が付き合っていたのは高校三年生の一年間だけだったが、別れても二人の友人関係は壊れなかったようだった。年に一度くらいは他の友人も交えて会っていたらしく、榊自身も何度か姉にかかってきた電話を取って、ついでに世間話をしたことがあった。
 最後に会ったのはもう大分前のことになるが、彼の声はすぐに分かった。
「あれ? 何で? 新が何で井上さんの番号知って……ってこれ古河の携帯だっけ?」
「古河さんの携帯だよ。どうしたの」
「ええ? 全然話見えねえんだけど、俺」
 困惑して高木に目をやると、高木は怖い顔をして煙を吐き出していた。そういえば、もうずっと見ていなかったが、これは誰かを殴り飛ばす寸前の顔ではなかったか。
「俺、今古河さんと同じ会社なんだよ」
「あ、そう……。そうなんだ」
「何か伝言する?」
「あー、っていうかそこどこ? 会社?」
「いや、違うよ」
 この人はこんなに要領を得ない話し方をする人だったかと思いながら、榊はもう一度高木に目を向けた。携帯電話を透かして会話を読み取ろうとするかのように眇めた目が酷く険しい。
 榊は電話を高木から庇うように身体を斜めにし、電話の向こうに注意を戻した。
「俺今友達と飲んでてさぁ、古河呼ぶかーって話になったんだよね。そこにいるなら、後で来られそうなったら電話くれって言っておいてもらえる?」
「わかったよ」
 じゃあね、と井上の穏やかな声が聞こえて電話が切れた。

 大きな音と振動に、榊は思わず携帯を取り落とした。
 高木が煙草のパッケージを持った手を、思い切りテーブルに叩きつけたのだ。
 テーブルの上の食器がぶつかり合って耳障りな音を立て、周囲の客がみなこちらを向く。高木は回りが見えていないのか、机にぶつけた手をじっと見つめていた。
「お客さん、静かにね。うるさいと蹴り出しますよ」
 先程の店員が手に空いた皿を持ってまた通りかかり、高木の横で足を止めた。
 皿を持っていない手が高木の手首を無造作に掴んで持ち上げる。高木の右手の小指があっという間に腫れ始めているのが傍目にも分かった。
 高木が、店員を物凄い目で睨みつける。榊は一瞬ぞっとしたが、店員はまったく表情を動かさず高木の眼を数秒見つめた。高木が先に目を逸らし、店員は「痛そう」と気のない声を出して高木の手を元に戻した。
「氷、要りますか」
「……新?」
 訊ねてみたが、返事はない。
「ください。すみません」
 店員は頷いてそのまま奥に消えた。その後すぐ別の若い店員が氷を入れたビニール袋を持ってやってきた。
 高木が大人しくしているからだろう、店の中の喧騒は既に元に戻っており、誰もこちらに注意を向けてはいない。
「これ、氷です。ちゃんと冷やした方がいいって。放っておいたらもっと腫れるから、って」
「ありがとうございます。詳しいね」
 榊がビニール袋を受け取ると、店員は「俺が詳しいわけじゃないです」と言って笑顔を見せ、慌ただしく戻って行った。
「ほら、新」
 ビニール袋を差し出すと、高木は大人しく受け取ってテーブルの上の小指に当てる。赤っぽく変色し始めた小指は、どれだけの勢いでテーブルに激突したかを物語っていた。
「大丈夫かよ」
「……折れてねえし」
「自損事故? これって」
「——意味分かんねえ」
 ようやく僅かに笑みを見せ、高木は掴んだままだったパッケージから煙草を取り出した。
 先程から煙草を吸ってばかりいて、高木は殆ど食べていない。そういえば、最近何となく痩せた気もする。
「食えよ、煙草ばっか吸ってねえで」
「食ってるよ」
「嘘吐け。あーんしてやろうか。はい、あーん、しんちゃん」
「ますます食欲がなくなるじゃねえか、馬鹿」
「あ、そんなこと言ったら二度としてやんねえぞ」
「要らねぇよ」
 高木が吐き出した煙がゆっくりと渦を巻いて天井に上って行く。
 その動きを眼の端で追いながら、早く古河から連絡が来くればいいのにと心底思った。
 井上と古河がどの程度親しいか知らないが、ただの同僚と身体の関係がある人間とでは、後者の方が大事だろう。分からないが、そうだと思いたい。高木が井上の名前にあそこまで反応した理由は、出来れば深く考えたくなかった。
 忙しなく煙を吐き続ける友人を眺めやって、榊は古河の顔を思い浮かべながら早く電話をかけてこいよと本気で念じた。