25時 8

 気がついたら社内には、古河以外は三人しか残っていなかった。
 古河は顔を上げて周りを見回し、今更ながら今日は金曜だったと思い出した。それに、明日からは三連休だ。みんな飲みに行ったか、行楽に出かける前の準備でもあるのだろう。定時はとっくに過ぎているから、別に誰も悪くはない。強いて言うなら色々考えたくなくて仕事に没頭していた自分が悪い。
「古河ぁ」
 フロアの端からでかい声で呼んでいるのは業務課長だ。
「はい?」
 顔を上げて椅子の上で伸び上がると、向こうで同じように顎を上げた業務課長が機嫌よさそうに笑顔を向けてきた。
「なあ、お前も行く?」
「どこにですか?」
「ソープ」
 四十代前半の課長はにっと笑う。彼は明るくて面倒見がよくハンサムで、社内の女性にも人気があるが、自他ともに認める女好きの風俗好きである。そのせいか、もてるわりにはいまだに独身だ。
「俺はいいです」
「何、風俗嫌いなわけ? お前いつ誘っても行かねえよなあ」
 女性社員がいないと思って課長は馬鹿でかい声を出す。他に残っているのは業務課の若いやつ——そいつと連れだってソープ、というわけだ——と、もう一人、こちらに背中を向けているのは井上だった。
「いや、嫌いなんじゃなくて、なんかわざわざ行くのが面倒なんすよね」
「馬っ鹿、プロはいいぞ。癒されるぞ。それにな、行くのは面倒かも知れないけど、素人と違ってちっとも面倒臭くないぞ」
「そこですか、結局」
「うーん、まあね。俺はどっちにもそれぞれ良さがあると思うけど……あ、井上は? そういえば俺歓迎会行けなかったから、奢ってやるぜ?」
 課長は椅子をぐるりと回して井上に声をかけた。井上は首を回し、古河の顔をちらりと見てから業務課長に笑顔を向けた。
「残念ながら、俺は彼女とデートです」
「何だよ、いいねえ。了解了解、寂しい業務課独身二人で行きますよー」
 課長は部下と「ねー」なんてふざけ合い、十五分後には出て行った。
 その頃には古河も連休前に処理しておかねばならないメールを何とか送信し終えていた。やれば幾らでも仕事はあるが、そこまで必死になる性分でもないし、そもそも今日はそんな気分じゃない。
 パソコンの電源を落とし、ワイヤーロックを外して抽斗に仕舞い、鍵をかける。鞄の中に鍵を突っ込んで、さあ帰るかと思いながら椅子の上で伸びをした。
「終わったんですか?」
 井上の声がして、古河は井上がまだ席にいたことに驚いた。あまり存在感がないというか気配がないというか、騒がしい業務課長とは大違いなのでその存在を失念していたのだ。
 井上は声をかけてきたわりにはパソコンのキーボードを叩き続けていて、こちらには顔を向けていない。合間に右側に置いた電卓をすごい勢いで叩いている。そういえば、歓迎会の自己紹介で、一年くらい財務の仕事も経験したとか言っていた。
「古河さんも遅いですね、金曜だっていうのに」
 井上が、本当は高木と知り合いだったのに嘘をついたことについては放っておこうと思っていた。だが、呑気な声が何となく癇に障り、古河は少し考えた末に口を開いた。
「——敬語、止めるって言わなかったっけ、あんたが」
「え? ああ、勤務中はつい、ね」
 振り返った井上はちょっとだけ目を細め、肩を竦めてまた前を向く。
「……井上さんさあ」
「何?」
 短い答えの上にキーボードの音が被さる。規則的な間隔で響くそれは何かの作動音のようだ。
「何で高木と知り合いじゃないって、嘘吐いたの」
「ああ、もうばれちゃったんだ? 速いね、伝わるの」
 井上の声にはまったく変化がなかった。キーボードを叩く音が、ほんの一瞬乱れただけだ。
「意味分かんねぇんだけど、あんなつまんねえ嘘」
「そう?」
「だって、高木があんたのこと知ってたって別に何の問題もねえんだし」
「そうだね」
 ぱちん、と最後に何かのキーを押し、井上は椅子を回して振り返った。
 フロアはそれなりの広さで、井上との間にも距離がある。それでも、間近から覗き込まれているような錯覚に、古河は何となく井上から目を逸らした。
「この間、見たって言ったじゃない、古河さんと高木」
 古河が黙っていると、井上は先を続けた。
「古河さん、会社に家の鍵忘れて、高木に借りてたでしょう」
「……あんた全部聞こえてたんじゃねえか」
 古河は思い切り顔をしかめた。先日喫煙所で話した時には、遠くて声は聞こえなかったと言ったのに。
「合鍵渡すほど仲いい友達って、珍しいよね」
「——別にどうでもいいだろ」
「そうでもないな、俺は」
 井上は立ち上がり、こちらに歩いてきた。古河は座ったまま、目の前に立った井上をただ眺める。微笑んだ井上の眼の際の黒子。どうでもいいことにまた眼が行った。
「どうでもいいどころか、すごく興味あるけど」
 思わず睨んでしまった井上の顔は、しかし睨まれたことなど意に介していないように笑んだままだ。
「俺が高木と知り合いだって言わなかったのは、変に警戒されたくなかったから。黙ってたら何か面白い話が聞けるかなって下心も勿論あったけどね。でもほんとに軽い気持ちで黙ってただけで、あんまり深い意味はなかったんだけど」
 井上はゆっくりと上体を傾けた。
 近づいてきた井上の指先に、また前髪が濡れているのを指摘されるのか、と錯覚した。
 顔を洗ったりはしていないのに、瞬間的に。
「俺と高木が知り合いだと、まずい?」
 囁きは酷く小さく、この距離でなければ聞こえなかったに違いない。
 井上の指がこめかみを撫で、髪を梳くようにして頭を支えた。顔が近い。そう思ったが、それ以上何も感じなかったから動かなかった。下唇を優しく食まれ、古河の肩がびくりと飛び跳ねる。思わず開いた口に井上のそれが被さって、舌がゆっくり差し込まれた。
 強引だったり、乱暴だったりしたらすぐに我に返っただろう。丁重に扱われただけに呆然自失して、古河はただされるがままになっていた。
 最後に何度か唇をついばんで井上はゆっくり離れ、身体を起こした。
「…………な——」
 何の真似だ、と怒鳴りつけてやるつもりが、にっこり笑われて不発に終わる。
「——お疲れ様」
 井上は踵を返し、自席に戻るとまたキーボードを叩き始める。
「あんた、彼女」
「え?」
 棒読みになってしまった古河の台詞に振り返り、ああ、と言って井上は歯を見せた。
「あれは嘘。俺も風俗はあんまり好きじゃないから。彼女は四月に別れてから作ってないし」
「……」
「だから、今夜も特に予定はないよ」
 高木とはまるで違う優しげな物言い。どうしてここで高木を思い出すんだ、と自分に腹が立つ。
 そうして、昨日の高木の態度を思い出して高木にもまた腹が立った。
「訊いてねえよ、あんたの予定なんか」
 古河が吐き捨てて立ち上がると、井上は椅子を回し、古河を見て微笑んだ。
 榊が少女漫画の王子様なら、井上は同年代の女性にとって、現実の世界における王子様なのかも知れないとふと思う。勿論本当のところどんな男かは分からないが。
 高木のような鋭さがない分、万人受けする男前。精悍さと甘さが丁度よく混じり合ったような、大人の男。優しさと一歩引いたスマートさに、女が憧れても無理はない。
「俺は訊いてほしいな、本当は。だから言ってるんだけどね」
「……」
「高木と付き合ってるの?」
「付き合ってねえよ。何言ってんの、あんた」
 古河は鞄を抱え、井上から遠いところを通って出口に向かった。井上は腰を上げはしなかったが、古河の方へ身体を向けた。
「ねえ、古河さん。これから、予定あるの」
 思わず足を止めてしまった理由は、自分でも分からなかった。
 井上は脚を組んで椅子に腰掛け、古河の目を見つめて静かに言った。
「高木と付き合ってないなら、俺と付き合って」
「——は?」
「今片付けるから、待ってて」
 相手にしなければいい。それなのに、何故か古河の足はそこから動かなかった。
 以前なら、金曜ともなれば高木から電話が来て、飲んで、そして抱かれた。けれど最近、高木とは何となく疎遠になりつつある。
 高木は今頃、緑のワンピースの彼女に埋め合わせをしているのだろうか。
 もしも今、高木から電話が来たら。
 そうしたら?
 無意識に抑えた掌の下、電話は鳴り出しそうもなかった。