25時 10

 二日間連続して男とホテルに入るなんてどうかしている。しかも二日とも違う男だなんて尚更だった。
 男が好きというわけでもないのに、思えば靖人とあんなことになって以後、女性とセックスしたのは二回だけだ。いや、三回だったかも知れないが、要するに大した回数ではない。
 靖人のことは弟のように可愛くて、だからこそ突っぱねられずに暫く続いた。
 高木は元々興味本位で古河に手を出してきて、その時もその後も、とにかく拒むことを考えさせないくらい強引だった。
 それなら、井上とのことは一体何だ。自問して、古河は自嘲の笑みを漏らした。はっきりしている。
 これは所謂、ヤケクソ、ってやつだ。
 壁に手をつき頭を下げる。凝った首筋に湯がかかるように僅かに身体を前傾させる。首から傾けた顔へと湯が流れ、口の中に入り込んだ。

 会社を出た後、古河は井上に連れられて、分かり難い場所にあるイタリアンの店に行った。隠れ家風、というやつなのか。内装には金がかかっていて、メニューを見る限り料理も本格的だ。イタリアンなんて女と行く以外では殆ど足を踏み入れない。そう言ったら井上は笑い、落としたい女の子以外連れてこない店だと言ったが、本当かどうかは分からない。この手の店は閉店も割と早いが、ここはバーを併設しているので深夜まで営業しているらしく、そこも気に入っているのだというのは多分本当なのだろう。
 別にイタリアンが嫌いなわけではないが、男二人で食ったって面白くもなんともない、と思う。イタリアのビールだとかいうやつを飲んではみたが、小さくて洒落た瓶に入ったそれをいちいちグラスに注いでいたら、何だかイラついて癇癪を起しそうになった。
 友好的とは言い難い雰囲気——少なくとも古河のほうはそうだった——で黙々と食事する無言の二人連れをどう思っていたにせよ、店員はみな慇懃で、飯は流石に美味かった。
 店を出たところで古河の携帯が振動し始めた。古河が足を止めたのに気がついて、井上も振り返る。携帯に表示されていたのは高木の名前。出ようか出まいか躊躇っているとさっと電話が取り上げられた。
 表示された名前を見て、井上は古河を見つめた。何を言えばいいのか分からない。返せ、と言うべきか、出るな、と言うべきか。それとも出てくれ、と言えばいいのか。
 引き伸ばされたように長く感じる数秒の後、井上は携帯を耳に当てた。
「もしもし?」
 柔らかい返答の後に少しの間。
「昌浩。久し振り」
 井上が発した言葉に、榊がかけてきたのだと分かった。
 高木ではなかった。そのことに安堵し、そして、自分でも驚くくらい落胆した。
 井上は幾らか説明めいたことを口にした後、じゃあね、と言って通話を終わらせた。
「はい」
 差し出された電話をぼんやり眺める。
「昌浩——榊昌浩からだったけど。友達と飲んでるから、来られそうだったら電話欲しいって」
「——ああ」
「友達って、高木のことだろうね、多分」
「そうなんじゃねえの……高木の番号だったし」
 古河は、携帯を取ろうと井上の方へ手を伸ばした。掌の上の携帯を掴むはずが、逆に井上に掴まれる。携帯ごと掌を覆われて、井上の体温に喉が詰まった。
 生ぬるい夜気より熱い掌の温度。決して乱暴ではなく、強く握るその仕草の中にも優しさがほの見える。別にそんなものに惹かれはしないが、それが自分に向けられたことに戸惑った。
「行く?」
 どこに、と訊ねたつもりの声が掠れて、ただの呼気が地面に落ちる。井上は古河の手を掴んだまま、促すように首を傾げた。
「あいつと、付き合ってないって言ったよね」
 高木と付き合っていない、と井上に言ったのは嘘ではない。好きだとは言われたが、付き合ってくれと言われたわけでもないし、付き合いたいと思ったこともない。そもそも男同士で付き合うとか言われても、何をどうすりゃいいのか想像もつかないのだが。
 それに、好きだというそれだって、高木の行動を見る限り今はどうか怪しいものだ。
「自分で電話もかけてこないってことは、俺がつけいる余地があるってことだと思っていいかな」
 掴まれた手を引き寄せられて、たたらを踏む。
「——古河さん、このまま流されてよ」
 距離が近い。色素の薄い虹彩と、目の際の泣き黒子がはっきり見える。
「行こう」
 見上げた井上の顔は酷く真剣で、引き結ばれた口元が硬く強張っていた。

 結局は、流された、というわけではなかった。ヤケクソだろうが何だろうが、自分の意志でここにいることは間違いない。
 何だか、何もかもどうでもよくなったのだ。井上がやってみたいと言うならやればいい。多分、すぐに気が済むだろう。
 高木が女と付き合うなら、それも好きにすればいい。今までも、ずっとそう思っていた。ただ、だったら俺を解放してからにしろと言いたいだけだ。気紛れみたいに好きとか言って、抱きながら出て行けなんて言いやがる奴なんか知ったことか。
 確かに、一番初めに本気で抵抗しなかった自分も悪い。高木となんか寝なければよかった、と強く思う。そうして浴室のドアを開けながら、だったら井上とも寝なければいいだろうと自分に自分で突っ込んだ。高木と関係したことをこんなに悔やんでいるくせに、何故自分は井上の目の前に、間抜け面を晒して半裸で突っ立っているのだろうか。
 拭き取りきれなかった水滴が前髪の先から滴った。
 井上は上着を脱いで、黒いソファに座っていた。腰にタオルを巻いただけの古河を見上げて微かに微笑む。
 ——馬鹿みてえ。
 胸の内で呟いて、古河は井上から視線を逸らす。滴が幾つか床に垂れた。
「——!?」
 突然がたがたと音がして、古河も井上も飛び上がった。硬いものが硬いものに当たる音。音源を探して部屋を見回すと、古河の携帯がキャビネットの上で震えている。シャワーを浴びる前にポケットから出し、無意識にそこに乗せたのだろう。
 誰だろう、と思いながら電話を手に取る。表示されていた名前に、顔が強張った。
 高木新、という文字が、電話番号と交互に表示されている。反射的に井上を振り返る。井上は僅かに眉を寄せ、しかし立って来て電話を取ろうとはしなかった。
 電話は随分長い間震えていたが不意に静かになった。湿った手で握り締めていたせいで、携帯の表面が曇っている。黒くなった液晶画面にぼやけた自分の顔が映っているが、表情までは見えなかった。
「古河さん」
 酷く静かにゆっくりと、名前を呼ばれて振り返る。
 握り締めた携帯が、体温で温められていくのを頭の隅で意識した。柔らかい照明に照らされて、井上の髪の先が茶色に透けて見える。
「……おいで」
 欲望を滲ませて語尾を微かに掠れさせた甘い声が、古河を呼んだ。

 一旦止まった携帯の振動は、すぐにまた始まった。古河は井上から視線を外し、手の中のプラスチックの塊を穴があくほどじっと見つめた。また鳴り止んだと思ったらすぐに鳴りだす。マナーモードのバイブ機能のせいで、手まで震え、痺れたようになった。
 井上は何も言わずに同じ姿勢で座ったまま古河を見ていた。視線は感じたが、携帯から目が離せない。何度か止まっては動きしていた携帯が突然沈黙し、数秒が過ぎ、更に数秒、また数秒と時間が過ぎた。
 自分の喉から小さな息が漏れたことに気がついて古河は密かに狼狽した。理由なんて分からない。分からないが、正直今にも泣きそうだった。
「古河さん——もし……」
 突然、携帯がまた動いた。
 今度は、途切れることなく延々と動き続ける。古河は留守電機能を使っていない。だから、掛けてきた相手が切らない限り、鳴動は続くのだ。
 どれくらい経ったのか、古河にはよく分からなかった。
 十五秒だったのか、一分だったのか、三分だったのか、それ以上か。
「さっさと出ろ、馬鹿」
 とうとう耳に押し当てた携帯から聞こえる高木の低い声が耳朶を打つ。
「迎えに行くから今いる場所がどこか言え。早く」
 偉そうな物言いは、普段の高木そのままだった。

 高木は思いの外近くにいて、五分で来いと居丈高に言って電話を切った。切れた電話を放り出し、服を拾い集めて浴室に逆戻りする古河に、井上は声をかけようとはしなかった。
 まだ湿っている身体に、脱ぎ捨てたばかりの服をもう一度着けていく。ネクタイを結ぼうとしたら手が震えた。二度試したが結局諦め、手に持って出た。鞄と携帯を拾い上げて、穏やかな表情で見上げる井上の前に立つ。
「帰る。ごめん。許してくんなくていい」
 井上の返事は待たなかった。
 何とも最低な行動だと自分に呆れたが、くどくど説明したところで同じだし、説明できる自信もなかった。
 ドアから飛び出し静かな廊下を走る。エレベーターが待てなくて、五階分の階段を駆け下りた。
 金を払わなかったと思い出して止まりかけ、今度にしようと思い直す。今払われても、井上も嬉しくないだろう。
 井上と寝なかったことに、後悔はなかった。そして、もしあのまま寝たとしてもまた、後悔しなかったに違いない。
 身体の関係を持とうが持つまいが、一度きりで終わろうが続こうが、この先自分が井上に今以上の感情を持つことはないだろう。世間一般的な意味での好意は勿論ある。だが、それだけ。それならば、たかがセックス。悔やむ理由など、どこにもない。
 だから、高木とのことは後悔するのか。
 階段を駆け下りながら頭に浮かんだ結論に、古河は一瞬息を詰めた。