25時 7

 古河の部屋の前で立ち止まり、高木は暫くインターホンのボタンを眺めていた。
 シャワーから出てきたら、なんとなく予想していた通り、古河の姿は消えていた。先に浴びろと言ったのだが、何を警戒したのか、それとも単に面倒だったのか、古河はうつぶせのまま身振りだけでお前が入れ、と伝えてきた。特別慌てて浴びたわけではないが必要最低限の時間で出てきたから、古河が待ちくたびれて帰ったとは思えない。
 手に持ったキーホルダーの重さをまた確かめる。
 何となく古河はまだ寝ていないような気がしたが、結局高木は踵を返して階段を上り、自分の部屋の鍵を開けた。部屋は暗いが、窓の外の街灯の明かりがあるから真っ暗闇というわけではない。電気を点けないまま鞄をソファの端に置き、その上に上着を放りながら腰掛けた。
 会社を出た後、そのまま真っ直ぐ帰る気になれず、高木は目的もなく立ち寄った本屋の棚をぼんやりと眺めていた。
 ただ一緒に酒を飲むというだけの井上に嫉妬するなんて馬鹿げている。
 幾らあの男が意味深な台詞を吐いた気がしていても、常識で考えればそれは高木の自意識過剰に過ぎなかった。
 理恵子から電話がかかってきたとき、高木は古河の番号を表示させた携帯を見つめ、通話ボタンを押す寸前だった。理恵子からの着信を無視しなかったのは、ボタンを押し掛けた瞬間に古河の空虚な表情を思い出したからだ。だから理恵子と約束し、洒落た店で飯を食い、古河ではなくて彼女を抱くつもりでいた。それなのに、古河が目の前に現れた途端どうしようもなくなった。
 抱きながら、何度も好きだと言いかけて飲み込んだ。何も映さない目を向けられるのが怖くてとても言えなかった。
 古河の目の焦点がぶれ始めてから、聞こえていないことを承知で口に出した。聞き取れなかったらしく一瞬訝しげな表情を作った古河は、しかしすぐに喘ぎながら眼を閉じた。どうにもこうにも馬鹿らしく、自分が嫌になって泣きたくなったが、だからと言って涙は出ない。
 ソファの背凭れに頭を預け、高木は煙草を取り出して火を点けた。
 天井だけが広がる視界にぽつりと赤く灯った点が、諦めの悪い自分への警告の色に感じられてうんざりした。

「よう」
 入口の脇に立つ古河は一見いつもと変わらない態度で、しかし高木を一瞬見て直ぐに目を逸らした。
 いつもの電車のいつもの車両。表面上は昨日のことなど忘れたかのように古河は振る舞う。
「お前、昨日ちゃんと寝られた?」
 高木が訊くと、古河は高木を見て眉を寄せた。こんなところでそんな話をするなという顔かも知れないが、通勤中の会社員の会話になど、誰も注意を払っていないだろう。万が一聞こえたとしても、具体的に何かを推測できるようなことを言うつもりはないから構わない。
「——何で」
「俺が帰ったとき、起きてたろ」
「知らねえよ、お前がいつ帰ってきたかなんて。違う部屋に住んでんのに」
 掠れた声は低く、酷く機嫌が悪そうだった。
「へえ」
「——何だよ」
「何でもねえよ」
 電車が止まってドアが開く。古河が乗客をやり過ごすために脇に避け、高木は古河を囲い込むように身体の向きを変えた。誰かの鞄と思しきものが背骨に食い込むようにして当たっている。大きく舌打ちすると、数秒後に鞄らしきものはどこかに消えた。
「……井上さんと」
 古河のつむじを見下ろしてぼんやりしていたら、突然古河が口を開いた。
「ああ?」
 声が尖ったが、古河が気付いた様子はなかった。
「結構付き合いあったって、言ってたろ?」
「ああ、言ったけど」
「それって、どういう感じの付き合い?」
「どういうって」
 何が訊きたいのかよく分からないまま取り敢えず答える。
「榊の姉ちゃんが二年から井上先輩と同じクラスになって、そんで三年なってから付き合い始めたんだよ、確か。その頃は榊ん家遊びに行ったら先輩もいたりしたから、くだらねえ話したり、学校で隠れて一緒に煙草吸ったりとか」
 高木は当時と昨日の井上を思い出しつつ記憶を辿った。記憶の中の先輩は今より子供っぽかったがそれは当然で、全体的な雰囲気は変わっていなかった。
「友達じゃねえし、部活の先輩とかとも違うからな。顔見知りってしか表現できねえけど」
「……そうか」
「何でんなこと知りてえんだよ」
「関係ねえだろ」
 古河は下を向いて欠伸をし、壁に凭れて黙っていた。
 視線は前に立つ親父の背中の真ん中辺りに向いているが、その安っぽい鼠色のスーツに興味があるわけではないのは明らかだ。
「古河」
「あ?」
 古河は高木の方を向かずに声だけ出す。電車の振動が足の裏から伝わって、吊革を握り締める指の先が微かに震えた。
「今日——」
「言っとくけどな、頭に来てっから。俺」
 相変わらず親父の背中を見つめたまま、古河は掠れた声を一層低くして呟いた。
「今日はお前の面は見たくねえ」

「だから言ったろ、サエコとは会うなって」
「何遍言ったら覚えんだ、馬鹿。理恵子だって」
「——あのな、新」
 榊は電話の向こうで溜息を吐いた。
「覚えられないわけねえだろ、幾らなんでも。わざとだよ、わざと。だって覚えるまでもねえだろ、どうせすぐ退場すんだから」
「……うるせえな……」
「その前にお前が退場させられるぞ、古河に」
 高木は溜息を吐いてコーヒーショップのテーブルに肘をつき、頭を支えた。
 丁度お茶の時間というやつだろう。店内はそれなりに混み合っていて、高木のいる店の奥からも見えるテラス席は満席に近かった。平日のこの時間は、若者や、明らかにさぼりのサラリーマン、子供を連れた若い母親などでいっぱいだ。高木は別にさぼっているわけではなくて、ついさっきまで他社の人間とここで打ち合わせをしていたのだが。
「どっちだっていいだろ、お前に関係ねえし」
「どっちでもよくねえ。お前の不機嫌でとばっちり食うのは俺なんだからな」
 午前中、榊は古河に用事があって電話をかけたらしかった。その時の古河の声が硬かった、というだけで、榊は多くを察したらしい。結局理恵子と一緒のところを見られたことからホテルに連れ込んだことまで吐かされて、さっきからこうして説教されているのだ。
「お前さあ、その、古河が何か嫌そうにしてるとか思うならそこはちゃんと解決しろよ。本人に確かめないでふらふらしてたら逆効果じゃねえか」
 まったくもってもっともなことを榊は言う。
「分かってるよ」
「本当に分かってんのかよ? 大体お前の勘違いかも知れねえんだし」
「……そのうち話す」
「そのうちってもう三ヶ月じゃねえか。古河、多分昨日のことも怒ってんだろ? 時間経たないうちに、今日」
「うるせえな、ほっといてくれ」
 押し殺した声で吐き捨て、高木は電話を切ってポケットに突っ込み、トレイと空いたカップを持って立ち上がった。隣のテーブルに一人で座っていた女性の客が、ノートパソコンから顔を上げ、乱暴に椅子を直す高木に眉を寄せた。
 店の自動ドアを出て、庇のつくる影の中に立ったまま溜息を吐く。高木はもう一度携帯を取り出した。
「……悪い。どうしようもねえな、俺」
 かけ直した第一声に返ってきたのは長い溜息だった。
「いいけど。まあ、俺も余計な口出しだったかも知れねえからさ」
「そうじゃなくて」
「いいって。話したいか? 今日暇なら飲むか」
 榊の提案を反射的に断りかけて考え直し、約束をして電話を切った。
 そろそろ次の客先に向かわなければならない。高木は携帯をポケットに仕舞い、重い足を引きずるようにして歩き始めた。冗談のように眩しい陽射しが脳天を灼く。何かを酷く蹴りつけて、めちゃめちゃに壊してやりたい気分だった。