25時 5

「てかさ、最初はビールじゃねえ?」
 古河は井上の顔を見て思わず言った。
 体質的にアルコールを受け付けない人はいる。特別身体に問題がなくとも今日は飲みたくないという人もいる。そんな人たちが一杯目からソフトドリンクを頼んでも古河は別に気にしない。
 女の子が一杯目からカルアミルクを頼んでもそんなものかと思うだけだ。
 だが、間違いなく飲む気の男が一杯目からウーロンハイなんて頼んだ日には、思わず眉を顰めてしまう。
 何を飲もうがそんなの個人の自由だし、間違っているのは自分の価値観だということに異論はない。
 分かっているが、学生時代から『一杯目はビール』だと刷り込まれてしまっているので残念ながらこれは今更治らない。そういうわけで反射的に批判めいたことを言ってしまったが、本当のところは井上が何を注文しようが興味はなかった。
「あんまり好きじゃないんだよね」
「はあ」
 井上は古河の気のない返事に微笑み、少し首を傾ける。榊のように少女漫画に出てきそうとまでは言えないものの、こうして柔らかく微笑んでいると井上もなかなかに華がある。
 もっとも、男に華があろうがなかろうが、古河には何の意味もないが。
「酒、あんまり飲まないんすか」
 自分の発言から発生した会話なので一応訊ねてみると、井上は笑って首を横に振った。
「そうじゃないですよ。多分人より強い方だと思うなあ。ただビールって腹いっぱいになるじゃない。あれが好きじゃないんですよね」
「そうすか」
「——敬語止めません?」
 井上はメニューをテーブルの端のスタンドに戻しながら静かに言った。
 居酒屋は混んでいるが、うるさくはなかった。食べ物の匂いと食器が立てる音が妙に解放感をもたらすのはいつものこと。一週間も明日で終わると思えば何を聞いても基本的には楽しくなる。
「俺はどっちでもいいですけど、俺の方が年下でしょう」
 煙草に火を点け、煙を吐き出す。井上は古河の煙の行く先に眼をやりながら軽く肩を竦めた。
「年上って言ったってひとつだし。古河さんのほうが会社では先輩ですから」
「それは別に……」
「じゃあ、止めましょう」
 井上の言葉を合図にしたように、ビールとウーロンハイ、そして突き出しの小鉢が運ばれてきた。
「古河さんは、お酒、好き?」
「え? ああ、まあ。普通に」
「普通にってどのくらい」
 井上は笑いながら小鉢に箸をつけた。
「いやだから、普通? どうやって帰ったのか覚えてねえとか、そんなふうにはなんねえっつーか。気付いたら店の便所で便器抱えてたとかはあるけど、帰るときには復活してるし。朝起きたら見知らぬお姉ちゃんが隣で寝てたとかそんなこともねえし」
 ジョッキをテーブルに置いて顔を上げると、井上がちょっと驚いたような顔でこちらを見ていたので面食らう。
「何」
「いや」
「何ですか」
「やっぱり、古河さんって面白いなと」
「はぁ?」
 下唇にひっかけたままの煙草をぶらぶらさせる古河を見て、井上は心底おかしそうに笑い出した。
「敬語使ってないだけなのに、さっきまでと全然イメージ違うよね」
 そんなことを言われても自分ではよく分からないが、第三者が見てそう思うならそうなのだろう。
 井上は散々笑った後、話題を仕事に切り替えた。
 女同士のお喋りが尽きないように、男も仕事の話なら尽きないものだ。何だかんだと話は続き、二時間程飲んで店を出た。また飲もうね、という井上に手を上げて、古河は真っ直ぐ駅に向かった。

 飲む店というのは案外決まってしまうもので、古河も例に漏れず、大体同じ界隈の、同じ店で飲む。それ程気に入っているのかと訊かれれば別にそういうことではなくて、新規開拓するのも面倒だというのが一番の理由だ。
 井上が選んだ今日の店は古河にとっては初めて行く店で、駅まで行くのに何度か辺りを見回した。別に迷っているわけではないのだが、こちら側から駅に向かった場合、出入り口がどの辺にあるのか、今一つ把握していなかったのだ。営業だから歩き回ることが多いとはいえ、繁華街はまた別だ。古河は周囲に目をやって、いつも利用しているところとは反対側になる出口を見つけて歩き出した。
 自分が店を選んでいたら、見かけることはなかっただろう。
 グリーンのワンピースを着た女に何か言われ、軽く笑った高木の顔が古河を認めて強張った。駅の周囲は残念ながら昼間のように明るくて、背が高い高木は人混みから頭ひとつ飛び出ている。古河もできることなら気付かないふりをしたかったが、これだけしっかり眼が合ってしまったら、今更出来ない相談だった。

「古河」
 硬い声で古河の名前を呼んで、高木はその場で固まっている。
 高木の顔を見た瞬間に古河が思ったのは、そんな顔をしなくたって構わないのに、ということだった。
 確かに高木は古河のことが好きだと言った。だが、それだけだ。古河自身は高木を好きだと言った覚えはないし、付き合っているというわけでもない。高木が好ましい相手を見つけ、古河への気持ちを撤回したくなったところで、誰に負い目を感じることでもない。
「デート?」
「…………」
 高木は答えず、女が最初の笑顔を訝しげな表情に変えて高木を見つめ、古河と高木の顔を交互に見た。
「高木くん?」
「あ? ああ、友達で、古河——」
「どうも」
「こんばんは。あの、私別に高木くんの彼女じゃありませんから」
 彼女が何故言い訳しているのか一瞬分からず古河は戸惑ったが、その顔を見て何となく理解した。古河が、高木の彼女か元彼女か、とにかくそういう女性の関係者だと思っているのだろう。
「隠さなくてもいいんじゃない? 羨ましい」
 笑ってやると、女の子は少しだけ肩の力を抜いて微笑んだ。ワンピースのグリーンと、首にかけたネックレスの渋い金。なかなかセンスのいい組み合わせだ。
「えっと、でもほんとに彼女じゃないんです、私。友達っていうか」
「そうなんだ。じゃあ今からなっちゃえばいいんじゃない、彼女」
 古河の台詞に女の子は楽しそうに笑ったが、高木は相変わらず黙っていた。
「デートじゃないのかも知れないけど、とにかく邪魔してごめんね。高木、そんじゃあな」
 古河は高木に顔を向け、それだけ言って踵を返した。駅は高木たちの向こう側だが、取り敢えずはここから去ったほうが向こうも気まずくないだろう。
 そんなことを思いながら上の空で暫く歩いていたら、いきなり肘を掴まれてつんのめりかけ、古河は咄嗟に腕を振り払おうと身体を捻った。
「な……!?」
 肘を掴んていたのは高木だった。
「何だ、お前か! びっくりさせんじゃねぇよ、追剥かと思ったじゃねえか!」
「山ん中でもねえのに追剥が出るかよ」
 仏頂面で吐き捨て、高木はゆっくりと古河の手を離す。古河は高木の後ろを見てみたが、ワンピースの女の姿はどこにも見えない。
「何だよ、何か用? 彼女は? さっきの」
「彼女じゃねえよ」
「何だよ、別に誤魔化す必要ねえだろ。不倫ってわけじゃあるまいし。人妻じゃねえだろうな? 一応訊くけど」
 高木は忌々しげに舌打ちしたが、そんな顔をされる謂われはない。
「んなわけねえだろ」
「ならいいじゃん。早く行けよ」
「彼女じゃねえんだって」
「分かった分かった。彼女でなくてお友達でも何でもいいけど、待たせんなって。早——高木!?」
 一度離した腕を力いっぱい引っ張られて、古河は半ば引き摺られるようにして歩かされた。
「痛え、離せってっ」
 酔っ払いがあちらこちらで大声を出している。古河もまた、そんな一人と思われているのだろう。誰も古河と高木には目を向けない。周囲も、自分たちも、夜の繁華街という風景のひとつのパーツだ。
「離せっつってんだろ、高木!」
 見上げた高木の横顔は酷く強張っていて、こめかみに青筋が立っている。食いしばった顎に浮いた筋肉の畝に、何故かうなじの毛が逆立った。
「高木——」
「うるせぇ、黙れ」
「…………」
 どうして逆らうことができないのか分からない。もしかしたら、高木は俺を流され易い人間だと思っているかも知れない。だが、普段は決してそんなことはない。
 高木以外の誰か相手には。