25時 4

 古河の言った通り、外は暑いが昨日よりは多少マシな気がした。風が少し強いせいか。しかし、ビルを出たところにある温度計は、昨日の同じ時間より二度低いだけで、相変わらず高い気温を示している。正に多少、だ。
 しかし、その温度計は直射日光が当たった直後はとんでもない数値を叩き出したりするらしく、会社の女の子たちに言わせると、まったく当てにならないのだそうだが。
 井上は上着を脱いできてよかったと思いながらのんびりと歩き出した。昼休みはどこも混み合うが、この辺りは人出の分だけ昼飯を食わせる店も多い。選択肢は多いし、汗だくになって急いだところで、どうせ一人で食う飯にそれ程の時間は必要ないのだ。
 こめかみに僅かに滲んだ汗を指先で拭いながら、井上は古河の顔を思い出した。
 前髪が濡れていた。汗ではなさそうだと思ったら、顔を洗ったのだという。今時男でもコンビニ辺りで買った洗顔シートを使うのが一般的なのに、便所の洗面台で顔を洗っている古河を想像すると妙におかしかった。
 高木について、同じアパートに住んでいてたまに話くらいはする人、と言った古河の表情は言葉通り気のないものだったが、その程度の知り合いに合鍵を渡す馬鹿はいないだろう。そして、同じアパートに住むただの友人に合鍵を渡している男は一体どのくらいいるのだろう。
 背は高くも低くもなく、痩身。スーツの着こなしも、髪型も、年齢相応に今時の若者風。流行の最先端を追っているというわけではないが、どこか目を引く独特のものはある。風邪をひいているのかと思うくらい掠れた声と、先程初めて気付いたピアスの穴。指先で触れた髪の柔らかな感触を思い出し、井上は掌で湿ってきたうなじをさすった。
 古河の、煙草を銜えて半分開いたままの唇と、微かに覗く歯の先が瞼の裏を何度か過る。
 下世話な想像だとは分かっている。
 それでも、傘の水滴を払いながら足元を睨みつけていた高木の顔に浮かんだあれは、単なる知り合い同士の会話の後には、決して見えるはずのないものだと、そう思えた。

「古河さん」
 井上が掛けた声に、パソコンに向かっていた古河はゆっくりと振り返った。
「はい?」
「今日って何時に上がります?」
「今——六時半ですか? これからちょっとミーティングあるんで、あと一時間くらいですかね。何かありました?」
「……飲みに行かない?」
 古河の周囲が全員席を外していたから衝動的に声を掛けたが、断られるような気がしていた。しかし、古河は何も言わずにじっと井上の顔を見た後、呆気なく「いいですよ」と口にした。
「——いいの?」
「誘っといて何言ってんです」
 呆れたような顔で言い、古河はウィンドウズをロックした。
「いや、何か、断られる気がしてたから。まさか付き合ってくれるとは思ってなくて」
「会社のヤツ飲みに誘うのに、いつもそんな弱気で声掛けてんですか」
 くっ、と笑った古河の目尻の笑い皺。奥二重の目はきつい印象を与えるが、笑顔になると突然雰囲気が柔らかくなる。
 古河はノートパソコンを抱え、立ち上がった。
「じゃあ、七時半に一階——……いや、やっぱ向かいのビルのATMんとこで」
 それだけ言って、古河は足早に出て行った。
 何故一階で待ち合わせないのだろうかと不思議に思いながら自席に戻る。金を下ろすのかも知れないが、確かあそこのATMは会社の取引銀行ではなかったはずだ。資料を挟んだ分厚いファイルをキャビネットに放り込み、鍵を回しながら不意に思い至った。
 高木が、このビルにいるからか。
 この時間だと、一階で鉢合わせするのかも知れない。
 気がついたら、井上は手を止めたままキャビネットを見つめていた。
「井上さん、俺帰るけど、三番のキャビネ閉めていい?」
 同僚の声に顔を上げ、井上は頷いた。
「はい、お願いします。俺も今日は上がりますんで」
 腕時計に目を落とし、井上は机の上を片付け始めた。

 高層階用のエレベーターから降りてくる人の数は、この時間になると流石に少ない。しかし、そうでなくても、多分高木を見つけるのは容易だっただろう。
 ずば抜けて大きいわけではないのだが、背筋が伸びていて頭が小さいから実際より大きく見える。濃紺のスーツが、長身と黒髪によく似合う。ただ、相変わらず男前ではあるのだが、どうしてか目付きが険しすぎ、女の子が気軽に誘える雰囲気ではなさそうだった。
 出口付近の壁に凭れて立つ井上の方に高木の視線が向き、逸れかけてまた戻った。
「——井上先輩?」
「久し振り」
「何でこんなところにいるんですか」
 高木は驚いた顔をしつつも、歩みを変えずに近寄ってきた。こういうところが高木の高木たる所以だろう。十代半ばの子供だった頃から、高木にはいつも確固とした自分があって、滅多なことでは他人に影響されることがない。
「今ここに入ってる会社で働いてるんだ」
「そうなんですか」
 古河が見たら怒るだろう。高木が自分を知らないというのは嘘なのだから。他愛無い嘘だが、嘘には違いない。
「転職?」
「いや、出向のはずだったんだけど、出向休職にするか退職するかで事務処理が違うらしいんだよな。どっちの帳簿に載るかって話なんだろうけど——―で、結局転籍扱いになったんだ。まあどっちでも同じだけど」
「そうですか」
 高木の声には、愛想がない。洒落たスーツを着て見るからにサラリーマンのなりをしてはいても、基本的なところは変わっていないらしい。
「あからさまに興味ないって顔するの、何とかならないの、お前」
「今更何言ってんですか。もう直りませんって」
「まあいいけどさ。あのね、俺、古河さんと同じ会社なんだよ」
 高木の表情はまるっきり変わらなかった。
「はあ」
「今日色々話してて偶然分かったんだけど、お前古河さんと同じアパートなんだってな」
「そうっすね」
 高木は眉を僅かに寄せ、それが何だという顔をした。
 歯噛みして何かを堪え、それでいて泣きそうに歪んでいたあの時の高木の顔。
 あの日、傘を畳みながら高木が浮かべた表情を偶然目にしていなかったら、自分は多分この無関心な態度を信じただろう。
「……また会うこともあるだろうから。よろしくな」
「はい。それじゃあ」
「あ、高木」
 高木が振り返り、井上を見る。真っ直ぐこちらに向けられた視線は眉間が痛くなりそうなほど鋭かった。
「俺、これから古河さんと飲むんだけど、何か伝えておくことあるか?」
「伝えておくこと?」
「帰り遅くなるなら電話しろ、とか?」
 井上の台詞に、高木は小さく肩を竦めた。
「何で古河が俺に電話する必要があるんです? 俺は古河の親じゃありませんよ」
 大股で歩き去る高木の背中を見送って、井上はちょっと息を吐いた。
 吐き捨てるような最後の台詞からは、高木の真意は量りかねた。井上は、高木が去って行った正面玄関に足を向け、自動ドアを潜って外に出た。まだ生ぬるい夜気がスーツを着込んだ身体に纏わりつく。
 遠くに高木の広い背中が見えた。すぐに角を曲がって見えなくなったその背中に、井上は暫く目を向けていた。
「……いじりすぎたかな」
 道路を挟んで向かいのビルの待ち合わせ場所に視線を転じつつ、井上は呟いた。高木のことは嫌いではない。それ程よく知っているわけではないが、好きか嫌いかと問われれば迷わず好きと答えるだろう。
 だが、古河を見ていたら何となく引っ掻き回してやりたくなった。あまりにも自分勝手で傍迷惑だ。分かっているが、その気になってしまったのだから仕方がない。
 余計な事に首を突っ込んでも面倒なだけだというのに。
 濡れた前髪の向こうから見つめてくる奥二重のきつい眼差しと無防備な笑顔の落差に酷く惹かれた。
 分別もそれなりについたこの歳になって、男相手にそんなことを思うなんて自分に驚く。だが、何も考えず本能だけで生きていたような若い頃なら、古河に惹かれること自体、絶対に有り得なかっただろうとも思う。
 どうしても欲しくなってしまったのだとそう言ったら、高木は、大人しく俺に譲ってくれるだろうか。
 それよりも、古河はどんな反応をするのだろうか。