25時 3

 サウナのような屋外からクーラーの利いたビルの中に入ると、突然額に汗が噴き出した。
 代謝がいい方ではないから外回り後にはワイシャツが汗びっしょり、ということはないが、それでも流石に身体中がべとついている。
 トイレの洗面所で顔を洗った古河は前髪の滴を払いながらリフレッシュルーム——という名の喫煙室——に直行した。このまま総務の前を通って自席に戻ると、女の子たちに「また顔を洗ったんですか、おじさんみたい」とからかわれる。
「——あー、お疲れさまです」
 空気清浄機の向かいのベンチ型の椅子に、井上が腰を下ろしていた。こちらを見上げ、挨拶する顔には薄い笑みが浮かんでいる。
「お疲れさまです」
 高木と古河の中間くらいの身長に整った細面。高木ほど鋭さはなく、榊ほど甘くもない。どっちつかずの印象は見せかけなのかそうでないのか、古河にはよく分からないがそれなりに男前ではある。
 井上は関連会社から転籍してきた男である。彼が独身と知るなり女子社員は色めき立ったが、今のところ誰かが井上を勝ち取ったという噂は聞こえてこなかった。会えば挨拶くらいは交わすが、特別親しくはしていない。井上の歓迎会以来、まともに口をきくのも久々だ。
 古河は井上の斜め向かいの椅子に腰掛けて煙草を銜え、火を点けた。
「暑かったですか、外」
 古河は手元に落としていた視線を井上に向けた。
「ああ、そうっすね。でも昨日よか少しマシかな。ほんとにちょっとだけど」
 古河が笑うと井上も口元を緩める。井上は右手の煙草の灰を払ってちょっと黙り、古河さんてね、と言ってもう一口煙草を吸いつけた。
「古河さんて、高木新さんと同じアパートに住んでる?」
 予想外の内容に、古河は思わず井上の顔をまじまじと見つめてしまった。右目の目尻の際、下睫毛に隠れて気付き難いが黒子ある。まったくもってどうでもいいことだが。
「え——井上さん、高木のこと知ってるんですか」
「うん。友達とかじゃないけど」
「高木から聞いたんですか?」
 もしそうなら、高木が何も言わないのはおかしい気がしたが、続く井上の答えに納得した。
「いや。この間出先からの帰り道に見かけたんですよね」
「あ、マジですか。いつ?」
「ほら、雨の降った日。何曜日でしたっけ。アパートの入口で話してるの見えたから」
 先日の雨の日だ。気付かなかったが、合鍵を高木に借りているのを見られていたらしい。見られたからといってどうということもないはずなのに何となく顔が強張り、何でもない顔ができたかどうか心配になった。
「遠かったから声は聞こえなかったですよ。古河さんはすぐアパート入ってってよく見えなかったし。でもそうかなって思ってね。友達なの?」
「あー……つーかまあ、単に同じアパートに住んでる人っていうか」
 実際はそれどころではないのだが、何も正直に答えることはない。
「あいつこのビルにいるでしょう。だから何となく話はするかなっていう程度で」
「え、高木さんってこのビルにいるの?」
 それは知らなかったらしく、井上は目を瞠った。
「へえ。そういう偶然ってあるんだ。俺は、高校が同じなんですよね。俺が三年の時高木さんが一年だった」
「あ、井上さん俺のいっこ上っすよね、確か」
 井上は自分の煙草を灰皿の縁に乗せ、椅子の座面に置いてあった烏龍茶のキャップを捻って一口呷った。
「部活とか一緒じゃなかったら普通は一年の顔と名前なんて知らないけど、高木さんって有名だったんで。高木さんの方は俺のこと知らないと思いますけどね」
「そうなんですか」
 高木のいないところで高木の話をするというのはおかしな気分だった。
 今までも、榊のように高木を介して知り合った人間と二人で会うことはあったし、その時は当然高木の話も出る。しかし、明らかに噂話に分類されるこの会話には、妙な後ろめたさを覚える。
「当時うちの高校って結構偏差値高くて」
「今も高いんじゃないんですか? 有名ですよ」
「さあ。そうなのかな。知らないけど」
 井上は、煙草を取り上げて吸いつけ、暫くの間口を噤んでいた。
 催促するような仕草も顔もしなかったつもりだが、興味があるのは事実だった。立ち去ることもできずに煙草を灰皿に放り込む古河に、井上が何を考えているのか今一つ分かり難い笑みを向ける。
「聞きたいですか?」
「どっちでも」
 欠伸を噛み殺しながら言う。眠かったわけではなくて、多分生欠伸のようなものだ。だが、井上は素直に古河が退屈していると受け取ったらしい。少々拍子抜けした顔をしつつ、逆に話す気になったのか、井上は椅子に深く腰かけ直した。
「——あいつ、入学してきたときからああいう、何ていうのか、不遜な感じだったんですよ。物怖じしなくて、年齢よりずっと大人で。家庭の事情が色々あったみたいだけど、知ってる?」
 知らない、と殊更投げやりな口調で古河は答えた。
「何かそれでぐれてたみたいでね。進学校だから、不良なんていないんですよ、基本的に。だからちょっと制服いじったりするだけでもそれなりに目立つのに、他校の生徒と喧嘩はするわ、喫煙はしょっちゅう見つかってるわ、補導はされるわ、警察にあの高校の生徒補導したのは初めてだなんて言われたって」
「へえ」
「それにあの面であの背丈でしょう。不思議と成績もよかったから、俺の学年にもすごく熱いファンの女子とかいてね、だから何かすごく覚えてるんですよね」
「——あいつらしい」
 思わず漏らした古河の呟きに、井上がちょっと首を傾けた。
「そうなんですか?」
「え?」
「どこらへんが、高木らしいの?」
 さん、を付けなかったなと思ったが、指摘するほどのこともない。それより、親しくもないと言ったそばから失言した自分に内心舌打ちする。
「いや……何となく、イメージっつーか」
「そうなんだ」
 それ以上突っ込もうとはせず、井上は煙草を灰皿に捨て、烏龍茶のペットボトルを手に立ち上がった。
「なんかどうでもいいことで時間取らせちゃいましたね。じゃあ、お先に」
「はい」
 出て行きかけ、井上はふと動きを止めて古河に向き直った。古河が煙草を銜えたまま見ていると、井上がゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
 伸ばされた指先を見上げる。それは古河の前髪に触れ、一瞬留まると酷く優しく額から髪を払った。
「——濡れてる」
 低く、妙に甘い声に、シャツの下の二の腕が一瞬粟立った。
「……さっき、顔洗ったんで」
「ああ、そうなんですね」
 にっこり笑い、井上は古河を振り返らずに出て行った。
 嗅ぎ慣れないトワレと、自分とは違う銘柄の煙草の香り。どれも決して不快ではないが、だからと言って慣れ親しんだものではないから落ち着かなかった。
 井上が高木の話題を持ち出すのに不自然なことは何もない。学校の後輩が会社の同僚と同じアパートに出入りしているのを見かければ、古河だって同じ質問を同僚にするだろう。もしも二人が男と女であったなら、敢えて訊かずにいるかも知れないが。
 古河の前髪に触れた井上の指先。
 井上の声を頭の中から閉め出してゆっくり煙草を吸い終えると、古河は煙と溜息を同じ量だけ吐きながら、のろのろと立ち上がった。