25時 2

「で? どうなってんだよ、新。その、美恵子とは?」
 榊の質問に、高木は思わず顔を歪めた。
「でかい声出すなよ」
「別にでかくねえし。つーか誰も聞いてねえよ、俺らの会話なんか」
 確かに、榊の言うとおり居酒屋の店内は酷く騒がしい。多分、店内のどこかに学生グループがいるのだろう。
「そうだけど」
「古河もいねえし」
 高木は榊を睨んだが、長年つるんできた相手には、高校時代に培ったガンタレもまったく通用しなかった。
「そんな面すんならさっさと振っちまえばいいじゃん、美恵子」
「理恵子だよ」
「あれ、そうだっけ。別にどっちでもいいけど」
「どっちでもよくねえだろ」
 乱暴に箸を置き、高木は煙草をパッケージから取り出した。何故か折れていた一本を灰皿に放り込み、もう一本を摘まみ出す。苛立ちの滲んだ仕草に榊が肩を竦めた。
「古河のこと、好きなんだろ」
「——だから?」
「古河に言ったんだろ、それ? まさか言ってねえとか言わねえよな」
「言ったよ」
「いつ」
「結構前」
「結構前っていつだよ」
「……三月」
 榊は口を開けたまま高木の顔を見ていたが、眉を下げ、まるで叱られた犬のような顔をした。
「諦めんの?」
「そうじゃねえけど」
 高木は煙を吐き出して、昨晩の古河の顔を思い浮かべた。
 抱いているときの顔ではなく、鍵を忘れたと言ってアパートの前にぼんやり突っ立っていた時の顔だ。奥二重の眼が空中を見据えていた、酷く虚ろな古河の顔。あんな顔をする男だったかとどきりとした。
「……迷惑してんのかな、とか思って」
「今更だろそれ。お前、気付くの遅えよ」
 世に言う親友というやつは、まったく容赦ない。
「うるせぇなあ」
「でもさあ、そんなの想定内じゃねえの? あいつがお前に恋愛感情持ってねえっていうのはさぁ。分かってて落とすつもりなんだと思ってたけど。めげるの早くね?」
「好かれてるとか好かれてないとかそういうんじゃなくてよ」
 高木は思わず吐いた溜息の重さに項垂れ、煙草を持っていない方の手でうなじをさすった。
「……あいつ、最近全然笑わねえから」
 榊がライターを擦る音がした。
「——だから、古河の代わりになるかと思って、女とも付き合ってみてるって?」
「理恵子とはそういうんじゃねえよ。あっちも遊び。彼氏と別れたばっかで、俺と付き合う気なんかねえのは見え見えだし、本人もはっきり言ってるしな」
「ふうん。まあ、お前が誰と遊ぼうが、俺の女じゃなきゃいいけどさ。で? その女は古河の代わりになりそうなのかよ」
「だから、そういうつもりじゃねえんだっての」
 下を向いたまま吐き出した煙が、ここのところ沈みがちな高木の気分とは裏腹に勢いよく天井に向けて上って行く。
「そういうんじゃねえけど」
「でもお前、古河と寝てんじゃねえのか」
 高木は火を点けたばかりの煙草を灰皿に放り込んだ。燃えさしから細い煙が立ち上る。ビールで一杯の盆を持った店員がテーブルの横を通り、煙がくにゃりと折れ曲がった。
「最近は、あんまりやってねえな」
「…………」
「なんかちょっとこう、上の空っつーか。嫌そうにされるんでもねえし、最中はいいんだけどよ……終わったら、人形みてえな面になって」
 昨晩も、高木は事を終え、古河の顔を見るなり耐えきれず風呂場に逃げ込んだのだ。
 虚脱したような、表情が丸ごと抜け落ちた古河の顔。以前は、あんな顔はしなかった。腹を立てるにしても、面倒くさそうにするにしても、とにかくそこには感情というものがはっきり表れていたのは間違いない。
 天井を見上げる古河の虚ろな目、それが自分のせいだと思ったら怖くなった。
「——新さあ」
 榊の吐いた煙が流れてくる。自分の煙草の匂いと違うそれが、鼻腔の奥を刺激した。
「古河のこと好きだっつんなら、止めろよ、それ」
 高木は右手で触れていた煙草のパッケージを思わず握り潰して榊から目を逸らした。
「美恵子とはもう会うな」
「…………」
「新? おーい、しーんちゃん」
「……うるせえよ。俺の勝手だろ」
「けど、美恵子が」
「美恵子じゃなくて理恵子だっつってんだろ」
 吐き捨てると、榊は困ったように眉を寄せ、もう一度煙を吐き出した。

 

 翌日もまた、風は生ぬるく、湿っていた。まるで高木を苛立たせることが目的であるかのように、じっとりとしたそれはワイシャツの襟元に触手を伸ばす。実際には存在しない何かがまとわりついているような気がしてならず、高木は首筋を手で払った。
 晩飯を買ってくるべきだったと今更思ったが、コンビニは既に後方で、戻る気にはなれなかった。冷蔵庫に何かあったかと考えながらアパートに向かってだらだらと歩く。ようやく見えてきたアパートの入口で煙草を吸う古河の姿を認め、思わず歩みが遅くなった。
 古河はまだこちらに気付いておらず、誰かと携帯で喋っていた。煙草を銜えたまま笑っているその顔には何の屈託もない。
「マジで」
 喉を鳴らして古河は笑う。目尻の笑い皺が、古河の痩せた、ともすればきつい印象を与えかねない顔に柔らかさを加えていた。
「うん、いいけど。分かった。ああ——え? 金曜? 結構忙しいんだけど、俺。ええ? うるせえよ! 来週とか……やっぱ来月にすっかぁ?」
 高木が近付くと、古河はまだ笑みを浮かべたまま視線を動かし、人影が高木だと認識した途端口を噤んだ。
 ほんの一瞬。
 本当に僅かな時間、古河の笑顔が強張って、すぐに元通りになるのが高木にはよく分かった。
 手を上げ、古河の横をすり抜ける。
「……え、あ、いや何でもねえよ。知り合いが通って……え? 俺今アパートの入口」
 高木が階段を一歩上がるごと、話し声が遠くなり、古河の声から緊張の色が抜けていくのは間違いなかった。
「——何なんだよ」
 四階まで上がりきると高木は低く呟いて、自分の部屋のドアを思いっ切り蹴飛ばした。隣の部屋の住人——学生らしき男だ——が何と思おうと関係ない。
 乱暴にドアを閉めて鍵を掛ける。ネクタイを解いてソファの上に放り出し、上着を脱いだところで携帯が鳴った。
「——もしもし」
「お前さぁ、飯食った?」
「まだだけど」
「これから食いに行かねえ?」
 古河の独特の掠れ声は、普段と何も変わらない。先程まで、誰かと電話で笑いながら話していたのと同じ調子だ。
「……珍しいな、お前から飯行こうとか」
 皮肉っぽい口調になったが、古河は気付かなかったのか無視することにしたのか、とにかく呑気な調子を崩さない。
「忙しかったから昼も食ってねえんだよ。流石に一日に一食は食わねえと」
「いいけど、俺今日は飲む気分じゃねぇんだけど」
「あ、そ。じゃあファミレスでいい」
「……着替えてから行く」
「んー」
 切った携帯を暫く見つめ、テーブルに置いて寝室に向かう。一度帰宅してしまったら、スーツのまま出掛ける気にはなれない。どうせ古河も着替えるだろうと勝手に予想し、ジーンズと黒いポロシャツに着替えて部屋を出た。
 ビーチサンダルをずるずる引き摺って階段を下りる。古河はまだ部屋にいるかと思いインターホンを鳴らしたが、返事はなかった。階段を下りきってアパートの入口に出ると、スーツのままの古河が煙草を銜えて立っていた。
「何だ、着替えてねえのか」
「何だよ、一人だけリラックスしやがって」
 そう言いながら、古河はネクタイに手をやった。
「取るかな」
「取っちまえよ。業後なんだから関係ねえだろ」
 世の中クールビズが市民権を得たとはいえ、営業職にはあまり関係がない。ネクタイは窮屈だが、ぶら下げていないと不安になる。
「だよな」
「何食うかな。しかし暑いな。こういう日はやっぱ冷やし中華とかか」
「いいな、涼しそうで」
 ネクタイの結び目に指を掛けながら古河が高木の襟元に目をやった。
「首筋がセクシーだろ」
「どこが? 同意を求めるなら俺じゃなくてお姉ちゃんにしろよ」
 他愛無い冗談に古河は低く笑ったが、向かい合って飯を食っている間——自意識過剰でないとすれば——古河は高木の喉元に一度も目を向けようとしなかった。