25時 1

 彼は、強くなってきた雨脚を呪いながら足を速めた。
 出先での打ち合わせが長引いた上、帰り際に雨が降ってきた。天気予報通りだ、と取引先の担当者は言っていたが、今日に限って彼は天気予報を見ていなかった。
 傘は先方が貸してくれたが、グレーのスーツの足元が跳ね返った水滴に黒く濡れる。気に入っている革靴の先が雨で変色していくのに思わず溜息が出た。
 どこかでクラクションが鳴っている。何となく音の方に目を向けなければ、彼が古河の家を知ることは、多分その先ずっとなかっただろう。

 古くも新しくもない四階建てのアパートの入口に、上着を脇に抱えた男が一人で突っ立っていた。
 クラクションの音を聞くために何となく首を巡らせて、そのせいで男が視界に入ったのだ。男がこちらに顔を向けてまたすぐによそを向く。
 向こうは気がつかなかったようだが、彼はそれが同僚だと気がついた。
 彼が先月転籍した関連会社の先輩、古河。
 転籍先では基本的に誰もが先輩だ。社会人になった年度は同じらしいが、彼自身は一浪しているため、古河は彼の一歳下の『先輩』である。
 部が違うから、親しくはない。古河は気さくという印象ではあるものの、付き合いやすそうなのかそうでないのか、彼にはまだ掴めていない部分が多かった。
 だから、その時も声をかけるか一瞬迷った。
 そう言えば、歓迎会で少し話した時にこの辺に住んでいると聞いた気がする。ということは、ここが古河の家なのだろうか。何故、入口に立っているのだろうか。
「んなとこで何やってんだ、古河」
 声がして、傘をさした男がアパートの入口に立つ。
 特別でかい声を出しているわけではないが、案外近いところに立つ彼には話の内容がはっきり聞こえた。
 角を曲がりかけて立ち止まっていた彼の姿は向こうからは街路樹と電信柱の陰になっていて見え難いらしく、二人ともこちらに注意を向けていない。
「会社に鍵忘れた」
「はぁ? 何やってんだよ」
 男は傘を畳みながら古河を振り返る。
「傘持ってねえし、会社まで取りに戻んのも億劫だなと思って」
「電話しろよ。そしたらもう少し早く出たのに」
「別に急いでねえし」
「急いでねえとかそういう問題かよ。ほら」
 男は鞄に手を突っ込み、キーホルダーを取り出した。
「お前んとこ開けてからでいいけど」
「傘の水切ってくから先に行けよ。取りに行く」
「分かった」
 古河は、素っ気なく言って踵を返し、アパートのガラス戸を押して中へ消える。傘をばさばさ降っている男はこちらに身体を向けていて、姿かたちがはっきり見えた。
 その場を離れて駅に向かいながら、彼は今見たことを反芻した。
 古河が自宅の鍵を忘れたというのは理解できるが、その後の会話の意味が分からない。
 古河の部屋の合鍵を、あの男が持っているということなのか。
 傘を持った、長身の男。
 あれは多分、高木新だった。

「何してんの、お前」
 古河は高木の手元を見て首を捻った。
 先程鍵を取りに来た高木はすぐに自分の部屋へ戻って行ったが、十五分程でまた古河の部屋の戸口に立っていた。しかも、手には何やら色々抱えている。
「何って、明日の準備」
 確かに、抱えた荷物の中に、スーツやワイシャツも見えている。
「何で」
「何でって、お前」
 言いながら既に靴を脱ぎ——靴は革靴だったが、着替えた高木が着ているのはジーンズとTシャツだった——持ってきたものをソファの上に纏めて置く。
「鍵ねえんだから、明日の朝閉めるのだって無理だろうが」
「だから?」
「だから泊まる」
「……俺が出かけるとき、お前を呼べばいいんじゃねえの」
 高木は横目で古河を一瞥し、何も言わずにスーツを吊るし始める。古河はソファの前の床に腰を下ろし、煙草を銜えて火を点けた。
 高木に合鍵を渡したのはいつだったか。欠勤させられた日のすぐ後だったと思うのだが、実際に役に立ったのは初めてのことだ。
 セックスの途中か後——多分後だ——に何だかうまく言いくるめられて渡す羽目になってしまった。正直、高木はそれを有効活用するんだろうと漠然と思っていたが、予想に反して高木が古河の部屋に勝手に上がり込んだことはない。
 訪ねてくればきちんとインターホンを鳴らすし、だからと言って鍵を眺めて悦に入っているというのでもないようで、何をしたいのか今一つ分からないというのが本当のところだ。
 冬の終わりに無理矢理欠勤させられて以来約四ヶ月、同じような関係が続いている。
 すぐに返事なんかできるわけがないのは分かっている。いきなり好きになってもらえるとも思わない。
 勝手にそうやって一人完結した高木は、今までと特段態度を変えなかった。
 もっとも年度初めはお互いに忙しく、最初の一ヶ月間は顔を合わせる機会がほとんどなかった。四ヶ月経ったと言っても正味三ヶ月、というところか。
 当初高木は好きだ好きだと盛んに口にしていたが、最近は飽きたのかそうでもない。
 身体の関係から入ったのだからそちらから攻めるとか言った割には、セックスの頻度もそう変わらなかった。その代わり内容が濃くなったと言えば確かにそうだが、ここのところは寧ろ間遠になっている気がする。
 押しまくっても効果がないと判断したのか。
 それとも、時間が経って熱が冷め、それほどまでして欲しがるものではないとようやく気付いたのか。
 どちらでも別に不思議はない。そもそも男同士で恋愛するには、二人とも細やかな情感に欠けていると思わずにはいられない。
 最近の、以前より疎遠ともいえる関係を胸の内で総括し、無駄と知りつつ高木の内心を推し量ろうとして諦めた。
 肩越しに振り返ると、高木はシャツとネクタイを丁寧にハンガーにかけていた。
 視線を戻し、灰皿の縁に穂先を擦りつけて灰を払う。自分の吐いた煙があっという間に部屋の向こうまで押しやられ、消えていった。

「あ……っ、高木、やめ、あんま動くな……!」
 久し振りに迎え入れる高木の硬さに腹を裂かれそうだと錯覚する。勿論、そんなことはない。
「そんな動いてねえよ」
 高木の手が汗ばむ古河の内腿を掌で覆うようにして揉む。そうしながら再度突かれて古河は思わず掠れた喘ぎを漏らした。
 皮膚の薄いその部分をいじられるとどうにも弱い。弱さは耳朶といい勝負で、高木は当然それを分かっていてこうしているのだ。高木が腰を動かすと腹の底でローションが音を立て、それと同時に頭の奥で何かが騒いだ。
「動いてんじゃねえか……っ!」
 刺激に仰け反り、脳天を突き抜けるようなそれに怯えて目を瞑った。暗闇の中、網膜に焼き付いた残像なのか、光が弾ける。
「だってお前、動かなきゃ終わらねえだろ」
「そりゃそう、だけど——ああっ」
「よくないわけじゃねえんだろ」
 甘やかすように言う高木の声に、古河はびくりと肩を震わせた。
 高木はそれ以上何も言わずに古河を揺さぶる。快感に涙が滲み、自分の酷く切羽詰まった声を遠くで聞く。
 よくないどころかよすぎて意識が飛びそうで、古河は唇をきつく噛み締めた。

 散々古河を泣かせておいて、高木はさっさとシャワーを浴びに風呂場へ消えた。
 そう言えば今日も言わなかったな、と煙草を吸いながら古河は思う。
 高木は、今日も「お前が好きだ」と言わなかった。