25時 11

 顔色が悪い。まず初めにそう思った。
 もしかしたら痩せたかも知れない。今頃そう気がついて、こいつは一体いつからこんな顔をしていただろうかと記憶を手繰る。しかし、思い出すことはできないまま、古河は高木の前に立っていた。久し振りに本気で走ったせいか、膝が笑う。シャワーを浴びたばかりなのに、身体が汗ばんで気持ちが悪かった。
「——しつけぇよ、お前」
 荒い息を何とか抑えようと努力しながら古河が言うと、高木はちょっと肩を竦めた。
「出ねえからだろ。お前が。電話に」
 単語を繋ぎ合わせたようなその言い方に笑いがこみ上げたが、本当はおかしくもなんともなかった。緊張から来る発作、みたいなものなのだろう。
 古河が何も言わずにいると、高木の指が伸びてきた。目にかかった古河の湿った前髪を、指先が乱暴に避ける。
「……濡れてんな」
「出たじゃねえか」
 声が掠れているのは生まれつきだ。だが、今、掠れているのは、多分それとはまた別だ。
「出るまで、すげえ鳴らしたけどな」
「でも——だから、来たじゃねえか」
 高木が身を屈め、古河の襟元に手をかけて整えた。適当に留めてきたボタン。引っ掴んだまま、右手からぶら下がっているネクタイ。多分かなり強烈な、ホテル備え付けの甘ったるいベリーの香りのシャンプーとボディソープ。
 黒いソファに座らせたまま、文字通り放り出してきた井上。
「——馬鹿みてえ」
 今度は口に出して呟き、古河はきつく唇を噛んだ。

 二人でタクシーに乗るのは、想像通り馬鹿みたいに気まずかった。
 別に初めてのことではないのだが——飲んだ帰りなら何度もある——その時とは状況がまるで違う。
 高木は、古河がホテル仕様のボディソープとシャンプーの匂いを振り撒いている理由はまったく追究しようとせず、ずっと無言だった。もっとも、改めて訊かなければ分からないことでもないだろうが。
 アパートの前でタクシーを降りる。高木が運転手に金を払う間、古河は手持無沙汰で突っ立っていた。
「金——」
「要らねえよ」
 素っ気なく吐き捨て、高木は先に階段を上がって行く。二階をそのまま通り過ぎて上に向かう高木について行くか行くまいか、一瞬迷う。古河の逡巡を足音で察したのか、高木が足を止めて振り返った。
「何もしねえから、来いよ」
 そう言ってさっさと上がっていく高木の背中を暫し見つめ、結局古河はその後について行った。高木が部屋の鍵を開けて電気とクーラーを点ける。カーテンを閉めて歩く高木をぼんやり見ながら、古河は蒸し暑い居間の真ん中に突っ立っていた。
「座れば。何か飲む?」
「……腹いっぱいだから要らねえ」
「あ、そ」
 高木は古河を放ったまま寝室に入って行った。鞄を置く音。スーツの上着を脱ぐ衣擦れの音がする。古河はいつまでも右手に握り締めたままだったネクタイを床に落とした。絹が擦れる音とともに、ネクタイがフローリングの上に小さな山を作る。滑らかな布地の立てる密やかな音に、腹の底が不穏に疼いた。
 ネクタイから目を逸らし、古河は足を踏み出した。
 鞄もそのまま床に放る。大して何も入っていないビジネスバッグが床に当たって、ばさりと雑誌が落ちたような音を立てた。上半身を捻ってスーツの上着を脱ぎ、寝室に向かって歩きながらそれも落とす。ワイシャツの袖のボタンを外しながら、古河は寝室の中に入った。
「今日、榊と——」
 ネクタイを解きながら振り返った高木の肩を掴み、うなじに手をかけて引き寄せたが、高木が一歩下がって身体を離した。
「何してんだ」
「何もしてねえから。言っとくけど」
「は?」
「もう少し遅かったら、してたけど」
「……」
 高木は無言で古河の顔を眺めていたが、古河の肩をゆっくり押しやった。明確な拒絶ではないにしろ、更に距離が開いたことは確かだ。広げられた距離を詰め、もう一度手を伸ばす。高木の肩に投げ出すように両腕を預け、顔を傾けて喉に噛み付いた。
 高木が小さな呻きを漏らす。顔をずらし、ワイシャツの上から高木の肩を噛んだ。腕を外そうとした高木の手を振り払って布越しに鎖骨をしゃぶり、濡れた生地の上から思い切り歯を立てた。
「古河」
「んあ?」
 鎖骨に食らいついたまま返事をし、高木の肩を掌で撫でおろしながら喉元へと唇をずらす。高木の首筋に舌を這わせながら、古河は自分のワイシャツのボタンをひとつずつ外した。シャツの裾を引っ張り出し、ベルトを抜いて床に捨てる。金属がフローリングに当たる硬い音がした。
「止めろ」
「やだ」
 身体を寄せ、充血した部分も隠すことなく全身を押しつける。高木が小さく「くそ」と吐き捨て古河の腕を掴んだ。
「いいから。話をさせろよ。古河、お前迷惑してんじゃなかったのかよ」
「——は?」
「俺が、好きとか言って」
「何のことだよ」
「お前最近、俺の前であんまり笑わねえだろ。抱いた後も、虚ろな面しやがって。だから俺はてっきり」
 掴まれた腕が痛かった。古河を自分から引き剥がそうとする高木の顔は、自分が痛みを感じているかのように歪んでいる。
「何言ってんのか全然分かんねえんだけど」
「……」
「それ、いつの話だよ一体? 俺のこの面は生まれつきだ」
「顔のつくりの話じゃねえだろうが。この間の」
「この間?」
 ホテルのことかと思ったら、そうではなかった。
「お前が部屋の鍵、忘れた日」
 ぼんやりとではあるが、高木が何かを誤解していることは理解できた。セックスが間遠になった理由も、好きだと口にしなくなったわけも。そして古河自身、自分で思っているよりずっと、そのことに気を取られていたことも。お互い、相手の表情にその本心とは違うものを見ていたのかも知れない。人間なんてそんなものだ。例え家族だったとしても、他人の考えを完全に理解することなどできないのだ。
「虚ろとか、知らねぇけど。自分の面なんか見えねえし」
 高木がぴたりと動きを止めた。腕を掴む力が緩み、古河は高木の手から腕を引き抜く。赤くなった手首が痛い。
「けど、迷惑なら迷惑って言うに決まってんじゃねえか。俺、そんな遠慮しねえし慎み深くもねえし。大体、何で俺が唯々諾々とお前に従ってるとか思っちゃうわけ? ありえねぇだろ、それ」
 高木のワイシャツの襟元に手を差し込む。頸動脈は力強く脈打っていて、今、それはかなり速かった。
「なあ、やりたいんだけど」
 それこそ慎み深さもクソもない。下品な言いように我ながら呆れた。
「あのな、俺が邪魔したせいでさっき——……誰かとできなかったって言いてえならそれは」
「やりてえ。今。他の誰かとじゃなくて」
 古河は、高木の股間に手を伸ばし、布越しにそれを掴んだ。馬鹿な高木が、一人で悩まないように。誤解の余地がないように。
「お前のが欲しい」
 高木が低く唸り、古河の腕を捻るように掴み直した。
 抱き寄せられて、噛み付くようなキスをされる。実際噛まれていたし、噛み返した。舌を突っ込まれて掻き回され、呼吸困難に身体が引き攣る。興奮に眩暈がした。
 壁に背中が当たったように感じたが、それが壁ではなくて床だと気付くのに、結局かなりの時間がかかった。
「言いたいことあんなら、今言えよ——高木」
 唇が離れた僅かな隙間に、古河は喘ぐように絞り出した。
「あ?」
「……始まったら俺、わけわかんなくなるし、何も聞こえねえから」
 高木は数度瞬きし、そしてゆっくりと笑みを浮かべた。
 不遜で、酷薄で残忍そうな。四ヶ月前に見たのと同じ顔。
「好きだ」
 背中を這い上がるものの正体が何か、古河には分からない。分からなくてもいいと思った。
 最初に拒まなかったことを、あの冬の朝に抱かれたことを、今も悔やむ。後悔しないわけがない。こんなふうになるはずではなかったのだから。
「俺に好かれて迷惑か? 嫌か? 走って逃げ出してもう顔も見たくないか? まあ、答えはどうでも構わねえけど」
 耳を舐めながら言葉を押し込まれ、古河は高木の下でのたうった。弱い耳を弄られる感覚に、背骨が蕩けて流れ出しそうだ。
「何だっつーんだよ今更……、あ……っ」
「お前が嫌だっつったら、今度は縛り上げて連行してやる」
 声が漏れかけ、腕時計を嵌めた左手の甲で口を押さえた。
 一瞬目に入った時刻は午前一時少し前。二十五時。一日は二十四時間、二十五時なんて言い方は好きじゃない。何の脈絡もなくスパイク・リーの映画を思い出す。あれは、時刻ではなく二十五時間、ではなかったか。
 あるはずのない時間、二十五時。
 あるはずのなかった何かが、遠くに見える。まだ、掴めるほど近くはないけれど。
「……っ、後悔してんだぞ、俺はぁ!!」
 思わず喚くと、高木は喉の奥で低く笑い、古河の耳朶を噛みワイシャツをむしり取るように脱がせながら、知るかよ、と意地悪く囁いた。
「お前の意向なんか、もう聞いてやらねえ」