untitled – TBD 1

 何かが膝の上に転がってきて、膝の持ち主と、その向いに座っていた男と、更にその隣に座っていた男は、一斉に「またか」と呟き煙を吐き出した。
 転がってきた物体は人間だ。トイレに行くといって消えていたが、戻ってきたらしい。
 名前は桜澤。面倒くさいからみんなサクラ、と短縮する。
 サクラは膝に頭を擦りつけ、頭を退かそうとして伸びた手を捕まえてがぶりと噛みついた。
 ここでまた異口同音に「またか」と声が漏れ、噛まれた手の——膝も——持ち主はだるそうに「噛むんじゃねえよ」と言って既に噛まれた後の手を、顎が届かないところまで持ち上げた。
「土屋ぁ」
 桜澤は駄々っ子みたいな声を出し、手を寄越せと要求する。面倒くさいから元に戻すとふにゃっと笑い、人の指をがじがじし始めた。
「そろそろ担当変えねえか」
 膝枕の同期に指を齧られながら淡々と煙を吐き、土屋は向いの二人に目を向けた。
「やだよ」
 土屋の向かいに座る江田が間髪入れずに答え、箸の先で赤ウィンナーのケチャップ炒めを摘んだまま首を振った。
「何で毎回飲むと噛むんだろうなあ、サクラは?」
 江田の隣に座る相原は、生のジョッキを傾けつつ首を傾げた。
「接待とか部門の飲みん時はしゃっきりしてんのになあ」
 三人は相変わらず土屋の指を弄んでいる桜澤に目を向けた。
 桜澤の噛み癖は、相手を問わない。とはいえ、彼女でもない女子にやったらまずいという理性は働くらしく、隣に座った不運な野郎が被害に遭うのが通例だった。
 勿論最初の頃は誰と決まっていたわけではない。だがそのうち、どこを齧られても若干うるさそうにするだけで動じず、噛まれても被害が少なそうに身体もでかい——細身だが百八十八センチある——土屋がサクラ係になった。もとい、された。
 そんなわけで土屋は入社して以来、ほぼ一身にその役目を引き受けてきた。折々に担当変えを申し立ててはいる。しかし、その性格ゆえか申請自体に熱意がないから、聞こえなかったふりをされ続けていた。
「痛えって」
 土屋が舌打ちして桜澤の顎から指を引っこ抜く。桜澤は不満げに唸り、顔を傾けて土屋の膝を思いっきり噛んだ。
「……痛えっつってんだろうが」
 銜え煙草で桜澤の髪に両手を突っ込み、頭ごと押さえつけながら土屋はのんびり煙を吐く。
「離せよっ」
 頭を固定され、MRIに入れられた患者のようになりながら桜澤がジタバタする。土屋はしばらくそうして桜澤を見下ろしていたが、暫くの後手を放して煙草を摘み、灰皿で灰を払った。
 桜澤はぶつぶつ文句を垂れていたが、眠くなったらしく少しおとなしくなって転がっている。
「まあ、担当変えはねえかなあ」
 江田はハイボールのグラスを空にし、煙草を銜えてにやにやした。
「だってさあ、俺もそうだけど、普通は一応遠慮するだろ。土屋ほどサクラを粗雑に扱えねえもん」
「確かに」
 これは相原。
「部屋も近いし」
「今日もお持ち帰りだなあ」
 相原は同情の色を見せたが、土屋が口を開きかけたら、「要らねえから!」ときっぱり言った。

 そんなわけで、入社してから一体何度目になるのかもう分からないが、タクシーの中でも人の手をがりがりやっている桜澤を持ち帰り、スーツを引っぺがし、ソファに叩き込んで上掛けを放り投げ、一息ついた。
 一服してシャワーを浴び、部屋に戻ると桜澤は眠っていたが、気配を感じたのか目が開いた。近づいて見下ろす。完全に酔っ払い、潤んだ瞳が土屋を捉え、瞬きした。
 黙ってゆっくり覆いかぶさり、キスをする。
 顎を掴み、角度を変えながら、桜澤が鼻にかかった甘い声を漏らすまで時間をかけた。離れた時には桜澤の目蓋はすでに閉じていて、穏やかで深い寝息を立てていた。

 誰にも言ったことはないが、これもいつものことだった。
 ただ、これに関してはずっとではなく、ここ半年かそこらのことだ。酔っ払った桜澤を連れて帰ったときにはほぼ毎回。他の誰かと帰った時にも同じことをしているのか、確認したことがないから分からない。
 土屋が始めたわけではない。最初にキスしたいと言ったのは桜澤だ。
 だが、他人を齧りまくることもほとんど覚えていない桜澤は、キスのことも覚えていない。最初はフリかと思ったが、どうやら本当に記憶にないらしかった。
 部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んで目を閉じる。聞き慣れた桜澤の寝息を聞きながら、土屋もいつの間にか眠っていた。