36 黒いうさぎ

 哲の居所を探し当て、その姿を見つけて、秋野は思わず立ち止まった。
 秋野から離れること数メートル。
 哲は、床にしゃがんで陳列棚の商品を眺めていた。眼光鋭く、ヤンキー座り。一体どんな物体に因縁をつけようとしているのだろうか。
 秋野が眺めていると、前方から近づいてきた学生らしき男が哲を見て、直角に方向転換して去って行った。怖がられていることには無頓着な錠前屋は、男に気付きもしなかったが。
「何に喧嘩を売ってるんだ?」
「ぁあ?」
「チンピラ感がすごい」
「驚いてんのか? やたら棒読みだな、おい」
「俺は驚いてないけどな、善良な一般人がお前を避けてたの、知ってるか?」
「知らねえよ、うるせえなあ」
 顎を上げてこちらを睨みつけてくる表情は、面倒くさそうだ。しかし、それは秋野が哲を知っているからそう思うのであって、知らない人間だったら威嚇されていると思うかもしれない。
「どうしてそんなに可愛いんだ」
「馬鹿なのか?」
「まあな。それで、何を見てたって?」
「ああ? あー、これだよ、これ」
 眉間に皺を寄せた怖い顔の哲が指さしたのは、透明なテトラパックだった。屈んでパックをひとつ手に取ってみる。三角形の透明なパックの中にはうさぎの形をした世界的に有名なキャラクターの人形が入っていた。
 その仕切りの中の本体はどれも白。着ている服の色や形──立っているとか座っているとか──は何種類もあるようだ。隣の仕切りのほうには本体が黒や茶色のものが入っていて、そちらは服の色も本体と同じだ。
「このうさぎに喧嘩を売ってるのか」
「いや、喧嘩は売ってねえ。見てた」
「というか、睨んでたよな」
「睨んでねえっつーの。思い悩んでたんだよ」
 懊悩より乱暴という言葉がよっぽど似合う男は、溜息交じりにそう言って頭を抱えた。
「何をそんなに悩んでたんだ。どの色を買うとか?」
「そう」
 意外な回答に思わず哲の後頭部を二度見したが、当然ながらそこには何も書かれていない。秋野は手にしたテトラパックをもう一度見て、哲の隣にしゃがんだ。万引き犯だと思われたら困るので、手を伸ばしてパックを陳列棚に戻す。無表情なうさぎたちは戻って来た仲間にはちっとも関心がなさそうだった。
「昨日の夜、おやじさんがよ」
 哲の言うおやじさんとは、バイト先の店主のことだ。
「ああ」
「なんか孫がSNSで見て欲しがってるとかっつって。でもほら、普段百均なんか行かねえから探せねえって、そんでなんか気づいたら頼まれててよ──」
 女子供とお年寄りには弱い錠前屋は、居酒屋の店主にも弱いらしい。
「孫は女の子か男の子か、どっちなんだ」
「女。さすがに俺もそれくらいは聞くわ。つってもよ、女子だからピンクってわけにいかねえだろ」
「そうだな……」
 秋野は思わず隣の哲を見た。
「見るんじゃねえ」
 哲はうさぎを睨んだまま舌打ちして低く吐き捨てた。怒られたから、というわけではないが、秋野は素直に目の前のうさぎたちに目を戻した。知り合って数年。今では同じ部屋で暮らしているというのに、哲には未だに驚かされるときがある。
 今時、性別で色を決めつけることはともすれば失礼に当たるだろう。男は青、女は赤。そんなふうに分けても許されるのはトイレや温泉の表示くらい、それだって不快に思う人はいるはずだ。だから、誰もが──そうでないやつも世の中にはいるにせよ──発言に気を遣う。
 女の子だからといってピンクというわけにはいかない。
 しかし、哲の発言はそういうのとは少し違う。
 哲はどちらかと言わなくても保守的で、若いくせに年寄くさい発言が多い。そのくせ、差別や区別とは無縁なのだ。
 今時そうすべきだから、と思っているわけでは多分ない。他人への興味が極端に薄いせいかもしれない。それでも、理由はどうあれ、そうやって枠の中に嵌めずに扱ってもらえることがどれだけありがたいか。多分哲には理解できないだろうし、どうでもいいと思っているのだろう。
 それでも。
 秋野は片腕を伸ばして哲の肩を抱き寄せ、頭のてっぺんに額を押し付けた。
「何だ! 何しやがるてめえ!!」
「どうしてそんなに可愛いんだ」
「馬鹿なのか!?」
 さっきと同じ台詞をまったく違う勢いで吐き出して、哲は野良犬のようにぐるぐる唸った。
「防犯カメラに映るだろうが!!」
「万引きしてるわけじゃなし」
「離せ! まったく」
 秋野を押し退けた哲は、今度は紛れもなく威嚇のひと睨みを投げて寄越した。立ち上がりながらうさぎの群れの中に手を突っ込み、左手で全身が黒っぽいうさぎたちをいくつか、右手で緑や青の服を着たうさぎをいくつか掴んだ。哲が選んだ中に、パステルカラーはひとつもない。
「それでいいのか」
 頷いた哲は両手の中のテトラパックを一瞥した。
「結局全然分かんねえから、俺が好きなやつを選ぶことにした」
「そうか」
「どうせ正解なんかねえし」
 しゃがんだままの秋野を見下ろし、哲はそう言ってレジに向かった。会計をしている哲の背から目を逸らして腰を上げ、たくさんのうさぎたちをもう一度眺めてみる。透明なフィルムに包まれた彼ら──彼女ら?──はどれも無表情で、同じ顔。それでも多分ひとつひとつにほんの僅かな違いがあって、誰かの手に掴み取られるのを待っている。

 

 秋野を置いてさっさと百均を出た哲はそのままバイト先に直行したらしい。メッセージを送ったら、文章の返信はなかったものの、居酒屋のカウンターにずらりと並んだテトラパックの写真だけが送られてきた。背後に少しだけ写り込んでいる店主の顔は嬉しそうだが、孫が喜ぶかどうかは分からない。
 秋野自身も仕事に向かい、深夜に部屋に戻ったら、哲はすでに眠っていた。
 ナイトテーブルにスマホを置きかけ、何かがあるのに気が付き手を伸ばす。灰皿の横に置いてあったのは、テトラパックから出された全身黒いうさぎだった。
「ただいま」
 ベッドに上がり、哲の上に覆いかぶさって声をかけると、ものすごく嫌そうな呻き声で返事が──多分──あった。
「なあ、哲」
「……重てえ……」
「失礼な。なあ、何だこれ」
「何だよ……」
 哲は何度か目を瞬いてようやく瞼を持ち上げたが、半眼だ。眉間には深い縦皺。目の前に突き出されたうさぎとは大違いだ。さすがに秋野も可愛いとは言い難い顔でうさぎを何秒か睨んだ後、哲はまた目を閉じた。
「……うさぎ」
「それは見れば分かる」
「黒いやつ」
「それも分かる」
「じゃあ何だよ……」
「何でうさぎがここに?」
「……お前に似てたから」
 そう言い残して、哲はあっという間にまた眠りに落ちた。
 口がバッテンになった無表情な小さなうさぎ。どこらへんが自分と似ているのか、さっぱり分からない。腹黒だから黒だとか、そういうベタな理由なのか。それとも単なる寝言なのか。
 暫しうさぎと錠前屋を見比べて、諦めてうさぎを元に戻す。
 考えたって分からないから、明日改めて訊ねることにしよう。どういう理由か知らないが、たくさんの中から掴み取られたという意味では多分似ているのだと思うから。
「哲」
 眠っている哲の耳殻に噛みつき、振り上げられた手を掴んでベッドに押し付ける。
「てめえ──眠いっつってんのに……」
「言われてない」
 空いている手で錠前屋の顎を掴み、無理矢理口を開かせる。舌を突っ込んだら齧られたが、寝ぼけているせいなのか、ほとんど甘噛みみたいなものだった。
 半分眠っているときの哲はいつもと少しだけ違う。少しだけだが、柔らかくて、甘ったるい。
 そうは言っても、パステルカラーからはほど遠い。お前のほうがよほど黒いうさぎに似ていると思いながら、照明のリモコンに手を伸ばした。
 うさぎの身体みたいに暗くなった部屋の中、手探りで哲の存在を確かめる。選ばれるのを待っているつもりは毛頭ない。こじ開け、押し入り、内側に触れて掻き回す。目に見えるのは黒っぽい影、曖昧な輪郭。しかし、感じるものは遥かに多い。濡れた粘膜を擦る感触、それだけでは決してない。
 秋野の動きに合わせて途切れ途切れに上がる喘ぎ。いつもより甘く掠れた哲の声が尾を引くように長く響いて、そして、消えた。