37 攣った

「いっ……!!」
 暗がりの中に哲の呻き声と罵声が響き、秋野はベッドサイドの照明に手を伸ばした。
 ぼんやりとした灯りの中に哲の物騒な表情を浮かべた横顔が浮かび上がる。その辺の子供なら泣いて逃げ出しそうな形相だ。
「どうした」
 隣で身体を起こした秋野を一瞥し、哲は眉間の皺を深くして前屈みになった。
「攣った──」
 どうやらふくらはぎが攣ったらしい。上掛けを捲ってスウェットの上から脚を掴んだ哲は、自分の脚に向かって悪態を吐いた。
「攣るって、何で」
「知るか! てめえが無理な体勢取らせるからじゃねえのか!」
「そんな変な格好させてないだろ。ついさっきのことなのにもう忘れたのか」
 言い終わらないうちからすごい目で睨まれた。おっかない顔だが、勿論秋野は怖くないし、どっちかというと可愛くて仕方ないと言うところだ。
 ちなみに、確かにさっきまでそれなりに柔軟性を求められる姿勢を強いていたとはいえ、哲の可動域を無視するような無理はさせていない。そして、その時の哲ははっきり言ってちっとも、今より更に可愛くなかった。
「あー、くそ」
「水分不足だろ。寝る前に水飲んだか?」
「ああ!?」
「飲んでないのか」
「うるせえ、触んな、クソ虎」
「いいから貸せ」
 足首を掴んで無理矢理引っ張ったら唸られたが、秋野を威嚇しているのか思い通りにならない自分の筋肉に憤っているのかはよく分からない。
 足の裏に触れないように哲の足を持ち、踵をマットレスにつけて爪先を上げさせた。膝をゆっくり伸ばしていく。
「痛え!」
「いちいち喚かないで掴め、ほら」
 哲は秋野に促され手で爪先を掴み、自分のほうに引き寄せた。眉間の皺が少し浅くなり、溜息が漏れる。暫くそのままの姿勢で呻いた後、哲はゆっくり足の指から手を離した。
「あー……大分治まったかも」
「よかったな。ちょっと揉んでやる」
「要らねえって──」
 ふくらはぎを手で包み、マッサージする。哲はものすごく嫌そうな顔をして舌打ちした。
「やめろって言ってんじゃねえか」
「要らないとは言ったけど、やめろとは言ってない」
 哲は他人との接触を嫌う質というわけではない。肩を叩いたり掴んだりするのは平気なくせに、優しく──気持ちがどうこうではなく、触れ方の問題──触られるのは嫌らしい。それも女にされるなら構わなくて秋野なら嫌だというのだから、特別だと喜べばいいのか悲しめばいいのか未だによく分からなかった。
「いいから、少しだけ我慢しろ」
 いつもだったら即座に蹴りが出るところだ。しかし不思議なことに、ぶつぶつ文句を言いながらも哲は秋野に脚を預けていた。
 こんな些細なことからそうではないことまで、哲のことで不思議に思うことは意外に多い。一緒に暮らすようになってから寧ろ増えたかもと思うくらいだ。ひどく単純な思考をする男のくせに、読めないことがたくさんある。
 例えば、あれだけ嫌がっていたのにどうしてここに来る気になったのか。一体どういう心境の変化があったのか、とか。
 突き詰める気はないからそのへんは今も謎のままだ。知りたくないなんて嘘は自分自身にも吐かない。だが、藪をつついて飛び出してきた何かに、それが真実なら仕方がないと殊勝なことを言える自信もなかった。だったら何も訊かないほうがいい。卑怯で臆病だと分かっているが、だから何だ。真摯に向き合った結果手放すことになるのなら、目を背けたままいつまでも骨っぽい脛を握り締めていたい。それが本音だ。
「マジでもういい、離せ!」
 我慢の限界がきたのか、哲は秋野の手から無理矢理脚を引っこ抜いた。
「楽しかったのに」
「何がだ、俺は全然楽しくねえ」
「肉がないなとか」
「何か文句あんのか、俺の肉に」
「文句はないよ。ビーフジャーキーも好きだし」
「俺の脚はジャーキーじゃねえわ」
 笑った秋野の顔を数秒眺めたと思ったら、哲は急に膝立ちになった。突然首に腕を回されたと思ったらぎゅうぎゅう抱き締められて息が詰まる。抱き締め、と言っても甘ったるいそれではない。ほとんど締め技だ。
「苦しい! 離せ、哲」
「うるせえ、文句ねえってさっき言ったろ」
「いやさすがにこれは文句──哲、息ができ……!」
 腕を引き剥がそうとした瞬間に解放され、勢いでベッドに仰向けになった。結構本気で酸欠に喘ぐ秋野を尻目にベッドから出た哲は、でかい欠伸をした後溜息を吐いた。
「てめえがつまんねえこと考えてるときはすぐ分かんだよ。標準装備の分厚いツラの皮はどこに消えんだ?」
「失礼な、俺の角質はそんなに厚くない」
 身体を起こした秋野を一瞥し、哲は前髪をかき上げて眉を寄せた。
「カクシツ? 誰と確執があんのか知らねえけどどうでもいい」
「そっちじゃない」
「ああ? とにかく俺は、こむら返りになるような姿勢を強要されんのはむかつくし」
「だから強要してないだろ」
「そんでふくらはぎ勝手に揉まれんのもむかつくし」
「いいだろ、少しくらい」
「でも、それでてめえがぐちゃぐちゃ考えねえなら脚くらい好きにすりゃいいとも思ってる」
「……」
 サイドテーブルに手を伸ばした哲は煙草のパッケージを手に取り、一本銜えて火を点けないままぶらぶらさせた。
「むかつくけど」
「さっきも聞いたよ」
「攣ったときくらいは揉ませてやってもいい」
「毎日ぐちゃぐちゃ考えるほうがお得な気がしてきた」
「馬鹿じゃねえのか」
「そうしたら毎日俺のジャーキーが手に入る」
「何がジャーキーだ、くそったれ。犬かてめえは」
「お手くらいならいつでもするよ」
「まったく……」
 哲は仕方なさそうに笑ってようやく煙草に火を点けた。煙が暗がりの中に吸い込まれるように消えていく。
「確認したきゃすりゃいいだろ」
 哲は煙を吐きながら呟いた。
「何が?」
「どこも行かねえって、言ってほしけりゃ何遍でも言う」
つまらなさそうな顔で言い、哲は秋野に背を向けた。
「哲」
 呼びかけても返事はない。灯りのないほうへ進む哲の背中が半分滲んで見えなくなる。もう一度呼んでみたら、哲はいかにも渋々といった様子で肩越しに振り返った。
「どこにも行くなよ」
「うるせえ、俺は行きたいとこに行く」
「どこにも行かないってお前今言わなかったか?」
「今現在の話じゃねえっつーの。水飲んでくる」
「水?」
 階段を下りながら、哲はでかい声を上げた。
「また無理な体勢させられて攣りたくねえからな!」
「まださせてないって言ってるのに、馬鹿だね」
「聞こえてんぞ、おい、エロジジイ!」
 ドスの効いた声に思わず笑いながら、秋野は煙草のパッケージに手を伸ばした。一本吸いきらないうちに哲は水分補給を終えて戻ってくるだろう。
 ちょっとくらい無理をさせても大丈夫かも。
 また攣ったら、まあそのときは優しく脚を揉んでやろう。