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 うんざり。
 哲の気分を表すには、その一言が相応しかった。
 酒があって飲み食いできるのはいい。しかし、まず立食というのが気に食わない。じいちゃんに立って飲み食いしていいのは縁日とかなんとか、そういう場所だけだとしつこく言われた。立食パーティーが「そういう場所」に含まれるのは分かっているが、それでもやはり落ち着かない。
 それから、パーティーと名の付く催しは性に合わない。華やかなのはまあ目の保養になるからいいとして、自分もめかしこまなければいけないのは億劫だし、何より愛想笑いを浮かべなければいけないのが面倒くさい。
 だから、まさにうんざり。
 着飾った大勢の客、立ったまま食いやすいように作られた小さくてしゃれた食い物。さすがにイブニングドレスやタキシードというわけではないものの、男も女も一張羅だ。哲自身も普段は着ないスーツを着せられ──自分のものではないという意味でもあるし、実際に自分ではなく他人に着せられたという意味でもある──、尻の据わりが悪いと言ったらなかった。
「このねちょっとしたやつ、原材料は何だよ」
「さあな」
 小さなクラッカーに乗った得体のしれないペースト状のものと秋野を交互に見比べ、哲は長い溜息を吐いた。
「イカゲソ揚げ食いてえ……」
「あとで食わせてやるから我慢しろ」
 哲がねちょっとしたものを秋野のスーツの背に擦りつけないで我慢しているのは、仕事が絡んでいるからだった。
 秋野の知り合いから頼まれた仕事は、この宴会が開催されているホテル内での解錠だった。ホテルに併設されたアンティーク家具ミュージアムの展示品で、依頼人はホテルとミュージアムのオーナー。お礼として新年パーティーに招待するとか言われた。新年会ならまだしも、新年パーティーって何だ。そんなものには出たくなかった。一秒も待たずに固辞したのに結局参加させられているのは、秋野の嫌がらせに他ならない。
 仕事は終わったし、オーナーとその妻にも可能な限り愛想よくしていい加減義理も果たした。そろそろ抜け出そうとそっと一歩下がった哲の背が誰かの背にぶつかった。
「すみません」
 謝りながら振り返ったら、哲の目線より高い位置にものすごい美人の顔があった。
 ほとんど爪先立ちと言っていいくらい細くて高いヒールを履いているにしても、背が高い。靴を脱いでも多分哲より大きいだろう。高い頬骨に、まさに透き通るような白い肌。きめが細かすぎて、陶器のようだ。金髪は地毛か染めているのか定かではないものの、明らかにスラヴ人と思われる顔立ちだった。
 数年前までは海外のコレクションモデルによくいた、痩せすぎてまるで丸みのない身体つき。胸はでかいが、スカートのスリットから覗く脚も、剥き出しの腕も白い棒きれのように細い。
「こちらこそ、すみません」
 日本語のイントネーションも若干おかしい。彼女は哲に笑顔を向けて立ち去りかけ、突然顔を輝かせた。
「アキノ!」
 おお、さすが。すげえ羨ましい人脈。そんなことを想いながら振り返った哲の視界に飛び込んできたのは、真っ青になった秋野だった。珍しい。それを口に出す前に、哲はさらに珍しいものを見た。
 脱兎のごとく逃げ出す仕入屋。
 何と、今年はいい年になりそうだ。

 

「お前が一目散に走って逃げたのって、初めて見たかもしんねえ」
 だらしなく脚を投げ出してソファに座った秋野は、哲を睨み、煙突みたいに煙を吐き出した。
「……うるさいよ」
 秋野が逃げ出した後、哲は見知らぬ酔っ払いの男に捕まり、思春期の娘が口をきいてくれないとかなんとか泣いて愚痴られ、しばらくその場から動けなかった。ようやく男を振り切って部屋に戻ったら、スーツを着替えるついでに愛想も脱ぎ捨てた秋野の不機嫌ヅラに出迎えられたのだ。帰り際に依頼人夫妻に持たされたシャンパンボトル二本は渡したものの、その程度で上向く機嫌ではないらしい。
「だってお前、女から逃げんのも珍しいってのに、マジで走って逃げんだからよ」
 全速力で走っているのは見たことがある。もちろんそのときよりは遅かったものの、恐らくパーティー会場で見られる疾走のうち──そもそも、普通はパーティー会場で走らない──最高速度だったことは間違いない。
 哲は秋野のデニムの脚を蹴っ飛ばして避け、ネクタイを引っ張って緩めながらソファの反対側に腰を下ろした。
「お前がどこで何しようと気にしねえ俺もさすがに気になる」
「少しは気にしてくれ」
「面倒くせえ」
 秋野は腕を伸ばして灰皿で穂先を払った。
「まったく、俺は愛されてるな。あいつは男だ。名前はミハイル」
「相変わらずいかれてんな──って、ああ?」
「お前が言ってる女は、女じゃない。女装した男だ」
「ああ……そうなのか」
 哲は女に見えた男の身体のパーツを脳裏に思い浮かべた。確かに、あの丸みのなさは男のものとも言える。胸はあったが、服に隠れていたから詰め物でも分からない。
「つーか、それ、お前の知り合いにだって結構いるだろ」
「勝とか?」
「そう、エリとか、アイーダの子とか。しつこく迫られたとか?」
「……昔な」
「だったら避けたくなるのは分かるけど、だからってあんなふうに走って逃げるほどのことかよ」
 秋野が女装する男やトランスジェンダー、とにかくどんな種類であってもマイノリティに偏見を持っていると感じたことはなかった。もちろんわざわざ話題にしたこともないから思い込みかもしれない。それでもやはり腑に落ちず、哲は喉元のボタンを外しながら首を捻った。
「あのな」
 秋野は不意に身を起こし煙草を灰皿に放り込むと、両手で哲の肩をがしっと掴んだ。
「痛えな、つーか顔が近え」
「哲。勝は、女になりたい男だ」
「知ってるし。それが何だよ」
「ミハイルの女装はただの趣味だ」
「ああ、そう」
「で、あいつはバイだ」
「……ああ?」
「相手が男でも女でも、ミハイルは抱くほうだ」
「……ああ……っ」
 思わず吹き出したら掴んだ肩を思い切り押され、ひじ掛けに勢いよく頭がぶつかった。ソファそのものは滑らかな革張りの高級品、それでも内部の枠は安物と変わらず硬い。それなりに痛かったが、面白かったからどうでもよかった。
「お前ね、笑うけど笑いごとじゃないんだぞ」
 本気で憤慨した秋野の様子がまた笑いのツボを刺激して、こみ上げる笑いが止まらない。
「いや、だってお前──っ」
「あんな細さだから誤解するけどな、アスリート一家であいつも合気道とかなんとか色々やってるんだ。甘く見たら一遍押し倒されて、やばかった」
「マジかよ、すげえ! 記念に握手してくりゃよかった」
 腹に軽く拳を入れられ、笑いながら咳き込む。秋野は呆れ顔と不機嫌ヅラを同時に出現させるという器用なことをやってのけ、哲の頭を押さえつけ、鼻の頭に噛みついた。
「痛っ! 痛え、齧んな、馬鹿」
「いつまでも笑ってるからだ」
「だってお前、笑うしかねえだろ」
「うるさいよ」
 緩めたネクタイを引き抜かれ、喉元に歯を立てられる。普段なら蹴りながら押し退けるところだが、逃げ出す寸前の秋野の顔を思い浮かべたら笑えてしまって抵抗できない。もしかしてそれが狙いかと一瞬思ったが、渋面の秋野を間近で見る限り、そんなことはなさそうだった。
 きれいなドレスを着たきれいな男──見た目は女──に追いかけられ、必死の形相で逃げる秋野を思い浮かべる。どんなときでもほとんど動じず、涼しい顔をしている男の慌てた顔ほど面白いものはない。
「ああ、つーか」
 笑いに噎せながら秋野の髪に手を突っ込んだ。いつの間にかシャツのボタンは全部外され、中に着ていたTシャツの裾が捲れて腹が剥き出しになっていた。まったく、どんなときでも手が早くて恐れ入る。
「なあ、おい、ちょっと顔上げろコラ」
 髪を掴んで無理矢理顔を上げさせた。眉間に刻まれた皺。相変わらずご機嫌斜めだ。
「いや、何つーんだ、えーとアレだ」
「何がだ」
「逃げるしかないお前ってのも、可愛いな?」
 数秒の間の後、秋野の形のいい眉が徐々に寄る。縦皺は鑿で彫ったみたいに深くなって、薄茶の目に物騒な色が滲んだ。秋野は物も言わずに哲の手首をきつく掴んでソファに縫い留め、はだけたシャツの上から哲の鎖骨に食らいついた。
 陶器の肌のドールみたいなやつに迫られて、困り果てて逃げ出す様子は確かにちょっと笑えて可愛らしい。だけど、そんなのは趣味じゃない。
 哲には平気で同じことを言うくせに、自分が言われた途端、腹を立てて圧し掛かってくるろくでなし。
 つまんねえ雄のプライドとか何だとか、馬鹿な男──哲自身ももちろん含めて──が、後生大事に抱える何か。いつもなら、賢明にもそんなものは捨てたと言わんばかりにしれっと笑ってみせるくせに。
 この男が、うまく隠しているものを剥き出しにしているのを見ると胸が躍る。開けたい、こじ開け中身を掴んで引っ張り出し、全部見てみたい。そうして全部咀嚼してしまいたいと思う自分にうんざりするが、今更だ。
 それに、きらびやかな立食パーティーで立ち尽くすより、己のいかれ具合を突きつけられるほうがまだマシに違いない。
 哲は自由なほうの腕を突っ張り、押し退けた秋野の顔を掴んで無理矢理自分のほうを向かせた。
「おい、おっかねえ顔すんじゃねえよ」
「……」
「んな顔したってしなくたって、乗っかってるのはお前じゃねえか」
 哲がにやりと笑ったら、秋野は不意を衝かれたような顔をして、そうして思い切り舌打ちした。
 もう一度、今度は両手首を捕まえられる。食われるみたいに口づけられ、哲は笑った。
 ああ、マジで。
 俺の馬鹿な男は、すげえかわいい。