34 あたたかくして、食って寝ろ

 一週間で戻るつもりが十日、二週間と仕事が延び、十七日目にして秋野はようやく自分の住まいに辿りついた。
 自分が責任を負う荷の手配だけなら予定どおり一週間で済んでいた。それなのに、依頼人の手違いから発生した諸々の問題がでかくなり、なぜか尻ぬぐいにつき合わされたのだ。
 その分の報酬は上乗せされたものの、他人の後始末ほど面倒でやる気の出ない仕事もない。
 腹立たしい記憶が蘇ってしまい、つい溜息を吐きながらドアを開ける。中二階のドアの前は吹きっさらしだ。秋野が吐いた息は、冷たい突風にかっさらわれてあっという間に飛んでいった。
 室内は暗くて、誰もいなかった。バイトの後飲みに行ったりしなければ、そろそろ哲が戻る頃だろう。照明を点け、秋野は部屋の中を見回して首を捻った。部屋が冷え切っている。
 ここ数日は冷え込みが厳しかったらしい。建物自体でかいから、日中留守にすれば冷えても当然ではある。しかし、それにしても随分と寒い。まるで数日留守にしていたような冷え方だ。
 空調のスイッチを入れて設定を確認していたら、階段を上るスニーカーの足音が聞こえ、ドアが開いて、哲が入ってきた。
「お帰り」
「ああ──今日戻る予定だっけか?」
「いや、明日だ。なんとか一日前倒した」
「ふうん」
 哲は相変わらずの素っ気なさで秋野の横を通り抜けた。しかし、どこかいつもと違う気がして思わず腕を掴む。普段なら払いのけるか蹴っ飛ばすかしてくるはずが、哲は立ち止まり、緩慢な動きで秋野を振り返った。
「何だよ」
「大丈夫か?」
「ああ? 何で」
「いや、部屋が冷え切ってるだろう。暖房をつけなかったのかと思って──」
 哲が眉間に深い皺を刻んだのを見て、まるで外泊を責める親みたいだっただろうかと思う。しかし、哲は秋野の質問をほとんど聞いていないようだった。
「これ、あれか。やっぱり俺か?」
「……うん?」
「なんか──すげえ、なんか」
「なんか、何だ」
「まわる」
「は──哲!?」
 秋野の手に掴まれたまま、哲は糸の切れた人形みたいにがっくりと膝をついた。

 

「ただの風邪だね!」
 手塚は秋野の隣に腰を下ろし、脚を放り出して大きく伸びをした。
 哲は意識を失ったわけではなかった。眩暈がして真っ直ぐ立てなくなっただけだったが、そんなことすら珍しい頑丈な男だ。顔色はどちらかというと青かったものの、どうやら熱が出ていたらしい。寝てりゃ治ると言い張るのを無理矢理タクシーに押し込んで、自宅で寛いでいた手塚を引っ張り出したのがついさっき。
 秋野は暗い待合室のソファでひとりぽつねんと待たされていた。かえでとのビデオ通話を邪魔された手塚のささやかな嫌がらせだ。
「高熱だったから一応検査しといたけど、インフルエンザじゃなかったよ」
「高熱?」
「うん、三十八度以上あった」
「珍しい」
「丈夫そうだもんねー、佐崎くん」
 以前にも一度インフルエンザに罹ったことがあった気がするが、風邪を引いたという話もほとんど聞かない。年に数回訪れる不眠のときも眠れないだけで元気そうにしている。秋野が知る限り、それ以外で体調不良だったのは一度だけだ。
「一応薬、はいこれ」
「飲まないと思うけどな。寝てりゃ治る、が得意だから」
「昭和のお年寄り?」
「中身はじいさんなんだ」
 手塚はげらげら笑い、それでも秋野に紙袋を押し付けた。処方箋薬局が主流の昨今珍しく、手塚医院は院内処方だ。
「季節の変わり目だし、疲れが溜まってたんじゃないかな」
「そうか」
「あと三十分くらいで点滴終わるから、また来るね」
 そう言って出て行った手塚を見送り、薬の袋をポケットに押し込んでスマホを取り出す。仕事のメールを数通やりとりしていたら手塚が戻ってきて処置室に入っていった。
「あったかくして、栄養とって休んでね」
「はい」
「ちゃんと食べて、寝るんだよ。分かった?」
 手塚が子供に言い聞かせるようにして繰り返す。哲は渋い顔をしたものの、諦めたように頷いた。

 

 部屋は手塚のところに行っている間に暖まっていた。胃の調子は悪くないというので、食事は知り合いの店に連絡してデリバリーしてもらうことにした。
 その間に嫌がる哲をベッドに押し込み、シャワーを浴びる。
「ちゃんと食えよ」
「お前のは?」
「下で食う」
 秋野はちょうど届いた食事をナイトテーブルに置き、自分の分だけ持って一階に下りた。ソファだと食いにくい。それしか考えていなかったが、カウンターに腰を下ろし、一人になりたかったのだと気が付いた。
 哲が風邪を引こうが怪我を──右手は別だが──しようが、命にかかわらないなら心配はしない。子供ではあるまいし、哲にとっても余計なお世話だろう。
 しかし、眠れない、食えないというのは別物だ。
 冷え切った部屋。眠れなくなり、食えなくなった哲。
 今更、とも思うし、今でも、とも思う。哲がそうなったときのことを思い出して胃がぎゅっと引き攣れた。
 考えるのはなるべく止そう。自分があの頃より弱くなったような気がするのは気のせいだろうか。気のせいだったらいいと思うが、多分そうなのだとも思う。
 手にしているものが多いだけ、重いだけ、取り上げられたら途方に暮れると分かっているから。
 ぺたぺたと音がしたから背後を見ると、裸足の哲が階段を下りてきた。
 髪はボサボサ、毛布を肩からかけて花嫁のベールかというくらい背後に引きずり、手には置いてきた食事の容器を持っている。
「……どうした」
「ベッドで食べこぼしたら、後が面倒くせえだろ」
「起きて大丈夫なのか?」
「点滴で熱下がったし、何ともねえよ」
 スツールによじ登る姿は何ともねえというにはやや頼りなかったものの、倒れそうには見えなかった。
「食って寝ろよ。手塚にも言われてたろ」
 案外普通の声が出たと安堵する。秋野の動揺に気づかなかったらしい哲は、引きずっていた毛布の端を引っ張り、膝とカウンターの間に突っ込むと、盛大に溜息を吐いた。
「分かってるって、お前は俺の親かっての。あー、それより聞けよ。ここんとこ鴨井っつー奴──あ、高校んときの知り合いな。その鴨井の弟んちに泊まり込んでたんだけどよ」
 よほど変な顔をしていたのか、哲は眉間に皺を寄せて秋野を見た。
「なんだよ、ガキじゃねえんだからどこに泊まろうと自由だろうが」
「……ああ……」
「なんかそいつの弟がヤクザと揉めたとかで……まあ詳しいことはいいんだけど、とにかくその弟のボロアパートっつーのがエアコンも壊れてて寒いの寒くないのってお前、しかも布団もねえんだぞ。鴨井と身を寄せ合ってガタガタ震えてたんだぜ。雪山遭難者の気分だっつの」
 飯の容器に箸を突っ込み、焼いたオクラをつまんだ哲は溜息を吐いた。
「色々あって飯食う時間も全然ねえし、隣の部屋の赤ん坊が夜泣きする上、鴨井弟も思い出したみてえにギャン泣きすんだよ。そんなこんなで全然眠れねえしでマジ──おい、笑いすぎじゃねえか?」
 頭を抱えて笑う秋野を気味悪そうに眺め、哲はオクラを口に突っ込んだ。
「挙句の果てに熱出して、えらい災難だぜ、まったく」
「ああ──ほんと、そうだな」
「まったく、ひとの不幸を笑ってんじゃねえ」
 裸足で蹴っ飛ばされても痛くない。秋野はスツールから立ち上がり、背後から毛布ごと哲を抱きしめた。
「邪魔くせえ! こぼすじゃねえか、離れろクソ虎!」
「ちょっとくらいいいだろう」
「ちょっともよくねえ!」
「いいから黙って食ってろよ」
 ぶうぶう言いながら、哲はもりもり飯を食い、結局食い終わるまで秋野を背負ったままでいた。

 
 翌朝、たっぷり眠ってすっかり回復した哲は、目覚めるなり秋野を蹴り飛ばし、シャワーを浴びると言ってベッドから出ていった。
 明り取りの窓から差し込む陽射しは夏と違って薄く、弱い。外は多分寒いだろう。それでも腕の中に残る哲の体温は、秋野を十分に温めた。