33 幸せ 服部Ver.

 ある晴れた平日の午後だった。
 俺は客先での打ち合わせを終えて、取引先の事務所に寄ろうと中道を通っていた。
「あ、服部です。お世話になっております──はい、はい。あと五分くらいでお伺いしますので。では、後ほど」
 そのあたりは昼間も夜も人通りが少なくて、そのときも誰もいなかった。周囲には戸建ては勿論マンションやアパートもほとんどなく、駅からも近いというのに、表通りとはまるで別世界だ。
 騒がしくないのはいいなと思いつつ、通話を切ったスマホで地図アプリを立ち上げながら歩いていたら、前方のコインランドリーから人が出てきた。
 こちらに背中を向けていたけれど、すぐに分かった。佐崎さんだ。
 俺は学生のときから居酒屋でバイトをしていたが、社会人になった今も週に二度ほど同じ店でバイトを続けている。ダブルワークが認められている会社を選んだからだ。
 佐崎さんとはシフトが同じになることが多いし、そうでなくても何年も見ているのだから、間違うわけがない。
 佐崎さんの自宅ってこのへんだったっけ──と頭の隅で思いながらも声をかけようと足を踏み出しかけ、俺はその場で立ち止まった。建物と建物の間から秋野さんが出てきたからだ。
 角度が悪くて顔は見えないものの、こちらもまた間違えようがない。大抵の男なら羨ましく思う身長に長い脚、小さい頭。どこからどう見てもアジア人の体形ではない。
 秋野さんは佐崎さんの知り合いで、佐崎さんの仕事が上がった後飲みに行くときなんかには迎えに来ていることがよくあった。
 本人が気づいているのかどうかわからないが、佐崎さんは秋野さんに対して、俺には決して見せないような顔をする。
 ひとことで言えば、怖い顔。
 顔が怖いのではなく雰囲気が怖い。まるで今にも包丁をふりかざして秋野さんを追いかけまわしそうな感じと言ったらいいのだろうか。それではなんだか殺人鬼みたいだし、佐崎さんがサイコパスっぽいとか言いたいわけではないのだけれど。
 今も佐崎さんはそういう顔だった。
 遠いからはっきりは見えないけれど、嬉しそうにしていないのは何となく分かる。秋野さんが店に来たら、いつもああいう感じだから。
 秋野さんが何か言い、佐崎さんが言い返して秋野さんの足を蹴っ飛ばした──と思ったら秋野さんがさっと避け、佐崎さんに手を伸ばした。
 ただ、腕に触れただけだ。それから、佐崎さんが持っていた袋を受け取っただけ。
 それ以外はいつも見る二人と何も変わらない。それ以上の接触はなく、二人はそのまま角を曲がって見えなくなった。

 

「佐崎さん?」
「ああ?」
 生姜を切っている佐崎さんは、目を俎板のほうに向けたまま、低く答えた。
「何だ」
「結婚って、どういうもんでしょうね」
「はあ?」
 今度は手を止め、横に立つ俺を見つめて眉間に皺を寄せる。いつもの佐崎さんの、佐崎さんらしい顔だ。
「俺に訊くんじゃねえよ」
「や、そうなんですけど! 今佐崎さんしかいないですし」
 仕込みのときの人数は日によってまちまちだ。今日は半休を取った俺と佐崎さん、それからちょっと休憩中の店主だけ。もう少ししたらまた誰かが来るだろう。
「結婚すんのか?」
「いや、違います! 俺じゃなくて、会社の同期が」
「ふうん……今時だったら早いほうだよな」
「そうなんです。俺、友達もまだ誰も結婚してないんですよ。それで、なんか……誰かとずっと一緒に暮らすってどういうことかなって」
 詮索するつもりはなかったけれど、あれからずっと考えていた。
 佐崎さんと秋野さんの仲がよさそうに見えたことは一度もない。秋野さんはともかく、佐崎さんの秋野さんへの態度はいつもああいう、冷たくはないけどそっけない感じ。それなのに、あの日コインランドリーから歩き去る二人を見て、多分一緒に暮らしているんだろうなと何となく思ったのだ。
「何ていうんですか、ほら、一緒に住んでみたら色々気になるとか言いますよね」
「何が」
「うーんと、価値観……じゃないな、何でしょう。生活習慣の違いとか──」
「癖とか?」
「ああ、そうです! ほら、食器どこから洗うとか、濡れたタオルどうするとか、あと朝ごはん食べるかとか、和洋どっちとか!」
 俺が熱心なのがおかしかったのか、佐崎さんは少し笑った。
 この人は時々こういう優しい顔をする。
 俺にとって佐崎さんは何がどうであっても佐崎さんで、秋野さんとどういう関係でも全然関係ない。でも、だからこそ、どんなかたちでもいいから幸せでいてほしかった。
「さあ? そういうの我慢すんのが結婚なんじゃねえの。何もかも違和感なく合う相手なんか自分しかいねえんだし」
「そうですよね……じゃあ佐崎さんは」
 細い針みたいな生姜が包丁の刃の上に載せられバットに移される。新しい生姜を手に取った佐崎さんは、俺を見て首を傾げた。
「俺?」
「佐崎さんが誰かと一緒に住むとして──」
「嫌なんだよな、面倒くせえから。一人がいい」
 生姜の薄い黄色が白いバットの上で鮮やかだ。俺は生姜から佐崎さんに目を戻して問いかけた。
「だけど──」
「だけど、もしそうなったら」
「はい」
「癖とかそういうことは気にしねえ、と、おもう」
「なるほどー」
 誤魔化すように付け足された最後の部分。そこに躊躇があったことに、今までだったら気づかなかった。
 俺はわざと軽く返して、目の前にあった笊を手に取り、水道から水を出した。
「俺は相手に直してほしいとか思っちゃいそうですね、俺は食器はこうやって重ねて、この順番で拭きたいんだ! とか。佐崎さんは大人ですよねえ」
「そうじゃねえよ」
「そうですかあ? すげえ、寛容な感じしますよ!」
「いや、寛容っつーわけじゃなくて」
 佐崎さんの声は、笊を洗う水音に紛れそうで紛れない、ぎりぎりの音量で低く響く。
「そいつが何をどうするかはもう今更どうでも──ただ、そこにいるのが重要っていうか」
 その後何かを言いかけた佐崎さんは、結局黙ってまた生姜を剥き始めた。
「……もし佐崎さんが誰かと暮らすとして、そうなったら、佐崎さんは幸せですか?」
 蛇口を捻る音。水が流れ、シンクに当たって跳ね返る。排水口に流れていく水と生姜の皮と、俺の言葉の端切れ。店主がカウンターのほうで何か作業をし始めた音がする。
 答えてくれなくても構わないけど、嫌な気分にさせたらどうしよう。そう思って横目で佐崎さんを窺うと、佐崎さんは手を止めて俺を見た。
「幸せってどういうことかよく分かんねえし、俺の人生は後悔だらけだし、これで間違ってなかったとか思うこともねえと思うけど」
「──はい」
「でも、もし誰かんとこに行くとしたら、それは俺がそうしたいからだ」
「……そうですか」
「おーい、服部! ちょっとこっち来てくれねえか!」
 絶妙なタイミングで店主の馬鹿でかい声が響いて、俺は思わず笑ってしまった。佐崎さんは笑う俺を不思議そうに眺めた後、さっさと行ってこいと肘で俺の腕を軽く押した。
「はーい。あ、戻ったら豚肉の下処理しますから置いといてくださいね!」
「分かったから行けって」
 そっけない声を聞きながら、俺はこっそりヨシ、と呟き頷いた。自分でもよくわからない。だけど、よかった。
 俺は今、だいすきな人が多分幸せで幸せだ。