31 お日様の匂い、洗濯物

 これは幻だろうか。
 秋野は困惑し、子供がするようにぎゅっと目を閉じた。確かに疲れてはいる。仕事で数週間留守にしていたからだ。哲に伝えた予定より数日遅く戻ったのだが、幻覚を見るほどのひどい疲労でもない。
 もう一度ゆっくり開けてみたが、やはりそれはそこ──ベッドの上に、さっきと同じ状態で転がっていた。
 錠前屋と布の山。素材──素材?──はそれだけだ。
 哲が秋野のベッドにいること自体はおかしくない。哲が越してきて数ヶ月、ここに住んでいるのだから当然のことだ。布だって別に珍しいものではないのだが、それが大量の秋野の服らしきものだというのがまったくもって謎だった。
 哲は秋野の服に執着を見せたりしない。というか、そもそも秋野がその日何を着ていたかも覚えていないに違いない。色柄くらいならなんとか答えられるかもしれないと思うものの、恐らくそれも希望的観測だろう。
 俯せになっている錠前屋の顔は布に埋もれていて見えないが、眠っているようだ。音を立てずに近づいてよく見ると、やはり肩が規則正しく上下していた。
 やはり、布は秋野の服らしい。ドライクリーニング必須のニットや何かの類はなく、綿のシャツやカットソーのようなものばかりだ。だが、よくよく見てみると服だけではなくタオルやシーツも混ざっている。
 洗濯物を取り込んで力尽き、そのまま行き倒れた人のようだ。そんなことがあるのかどうかは知らないが。
「哲?」
 声をかけたら、哲が布の中でもぞもぞ動いた。
「おい、具合でも悪いのか?」
 今日戻ることは事前に連絡していなかった。だから、哲の体調が悪かったとしても、それも事前に聞いてはいない。
 秋野はベッドに腰を下ろし、ちょうど哲の顔に被さっていたシャツを捲ってみた。可愛らしい寝顔とは程遠い、見慣れた哲の顔が露わになった。顔色は悪くないし、具合が悪そうという感じでもない。
 シャツを持ち上げた拍子に鼻先を掠めた匂いに首を捻る。洗剤でも柔軟剤でもない匂いが漂っている。それが外で干した洗濯物の匂いだと気づき、秋野は再度首を捻った。
 基本的に洗濯は業者に任せている。哲が喜ぶから──そしてコインランドリーには脅威ではないが気に入らない男がたまに現れるから──洗濯機は買ったが、業者と哲どちらが洗濯したとしても、外に干すことはないはずだった。
 哲の睫毛が微かに震え、ゆっくりと持ち上がる。まっすぐ下を向いた直線的な睫毛は日本人に多い。特に珍しくもないはずなのに、そういうところも哲らしいといつも思う。
 薄く目を開けた哲は、くあ、と犬みたいな欠伸をした。
「……なんだ、いたのか」
「ああ、ただいま。なあ、一体何があったんだ?」
「……あ?」
「これ」
 手近なタオルをつまみ上げたら、哲はのろのろと手を伸ばして秋野からタオルを奪い返した。ぐしゃりと握り締めたふわふわのタオルに顔を押し付け、喉の奥をぐるぐる鳴らす。なんというか、捕まえた小動物を食う前の捕食動物に見えなくもない。
「──天気よかったから」
「どこに干したんだ」
 建物の裏手には少しスペースがあるものの、物干し竿がある素敵な庭とは程遠い。
「あー、こう、ワイヤーを適当に渡して」
「ワイヤー」
 思わず復唱してしまう。元工場の素っ気ない建物の裏手、ワイヤーにぶらさがる洗濯物。映画でよく見るスラム街みたいな絵面だったのではなかろうか。
「一体また何で」
「だから、天気よかったから、なんとなく」
 不意に肘を掴んで引かれ、倒れ込む。身体の下になった布の山から太陽の匂いがした。
 秋野の白いシャツに押し付けられた哲の顔。眠そうだが普段と変わらない鋭い目が秋野を見つめ、瞬きする。
「いい匂いしねえ?」
「いや、それはそうだが、だからって洗濯物の上で寝るな」
「うるせえな……」
「それに何で俺の服ばっかり──」
「うるせえっつってんだよ」
 布の中から伸びた手が秋野の腕を掴んで引っ張った。そんな適当に引っ張ったって、秋野の身体が動くはずもないというのに。
 仕方がないから身体を起こして哲のほうに寄ってやる。哲は真面目な顔で秋野の胸のあたりにタオルやカットソーをまとめて重ね、そうやって洗濯物で作った即席枕に頭を押し付け目を閉じた。
「なあ、おい。せっかく洗ったのに皺になるだろ」
「んー」
「哲」
「眠い」
「あのな」
 哲は集めた布を抱えて満足げな溜息を吐き、目を閉じた。
「寝る」
「……」
 暫く経って寝息が聞こえ始めてから、秋野は静かに起き上がった。
 いつもと変わらず、可愛らしさの欠片もない顔で眠る錠前屋。洗濯槽の中でぐるぐる回る洗濯物をじっと眺め、風にはためく洗濯物を眺めてこいつは何を考えていたのだろう。
 俺の匂いなんか少しもしない、太陽の匂いの服に埋もれて、一体、何を。
 哲が微かに身じろぎしたが、目が覚めたわけではないらしい。タオルらしきものを抱えていた手が動き、秋野の服の端を掴んで握り、また離れる。
「まったく──」
 俺の錠前屋は、まったく、いつでもどうしようもない。
 屈み込んで哲の頭のてっぺんに口づけた。どうして泣きたくなったかは分からないが、考えたって仕方ない。
 秋野は不機嫌ヅラで眠る男と布をまとめて抱え、お日様と哲の匂いに包まれ目を閉じた。