30 雨音

 雨が激しく屋根を叩き、秋野は思わず天井を見上げた。
 この建物は元々工場で、その後はダイニングバーに改装されるはずが頓挫したものを地べたごと買い取ったものだ。
 工場だっただけあって堅牢だし、住居としての機能も必要なだけは足してある。元々住む場所にこだわりはないから、内装が中途半端なままで殺風景にすぎる中二階も気にならない。
 総じて気に入っているこの建物の唯一といっていい瑕疵は、激しい雨のときの喧しさだった。
 二階建てではなく平屋に中二階がついている構造なので、屋根に当たる雨音が直接響く。それでも一般の平屋に比べれば天井が高いだけマシなのか、それとも響く分だけうるさいのか、そこまでは分からない。
 ちょっと強いくらいの降りなら気にならないが、今、急激に強さを増した雨脚は土砂降りと言ってもいいくらいになっていた。
 この音を聞くと落ち着かない気分になるのは多分、あれ以来だ。土砂降りの中、びしょ濡れで秋野を待っていた錠前屋。欲しくもないくせに、自分ではない誰かがそれを掻っ攫うと聞いて動揺した哲の顔が、激しい雨の音を聞く度に思い浮かぶ。
 辛い記憶ではない。腹は立った──それも、かなり。だが、本当の意味で哲が腹を括ったのは多分あのときだったのだろうし、そう考えればいい思い出に分類するのが正しいのだと思う。実際、嫌な気分になるわけではないのだが、とにかく落ち着かないとしか言いようがなかった。
「すっげえ降りだぞ、オイ!」
 破城槌でも叩きつけたような音とともにでかい声がして、中二階のドアが勢いよく開いた。水気と雨に濡れたアスファルトの匂いが流れ込み、ドアが閉まる。
「熱帯雨林かっつーの!」
 雨の音で足音が聞こえなかった。錠前屋は一瞬秋野の脳裏をよぎったあの日の姿を再現するかのように、ずぶ濡れでそこに立っていた。
「あー、口に雨入った……お前雨当たった?」
「──いや」
 ソファに座ったまま振り返った秋野を見て、哲は前髪をかき上げた。露わになった顔は普段と変わらない。いつもどおりの鋭い目つきのせいで、濡れた野良犬か何かにも見える。
「早く着替えてこい」
「下着まで濡れてるからシャワー浴びてくる」
 哲が歩く度にスニーカーががぼがぼと音を立てる。そうだった、その音もあの日聞いた音のひとつ。
「……ああ」
 シャワーの水音が微かに聞こえ始めてようやく手元に目を落とす。さっきまで読んでいた本をまだ手にしていたことに気づいたが、どんな内容だったか咄嗟には思い出せなかった。

 

「何やってんだよ?」
「見てわからんのか」
 ベッドに寝転がっている秋野の背に膝蹴りが当たった。手加減はされているようだが、それでも痛い。
「痛っ」
「悪ぃ悪ぃ、横倒しだから見えなかったぜ」
 哲がベッドの端に勢いよく腰を下ろしたらしく、スプリングがぎしぎし軋む。秋野は溜息を吐き、渋々目を開け寝返りを打った。
「寝てるんだよ」
「見りゃわかる」
「──お前ね」
 秋野を見下ろす洗い髪の哲は、さっきとはまた違って、自分の意に反して人の手で洗われ乾かされた野犬のようだ。適当に乾かしたせいで、髪が一束おかしな方向に跳ねている。
 どうやったって可愛らしくは見えない男の顔に指先を伸ばしてみたら案の定噛みつかれたので、おとなしく手を引っ込めた。
「痛いよ」
「痛くしてんだよ」
 勢いを増したように思える雨が屋根に当たり、哲の声がところどころ途切れて聞こえた。
「……おい、何かあんのか」
 微かに首を傾げ、眉間に皺を刻んだ哲を眺めながら首を横に振る。哲は片眉を上げて秋野を見ていたが、不意にベッドに横たわり、秋野を足でぐいぐい押しやった。
「狭いな、でけえからマジで邪魔。そっち寄れ!」
「お前がそっち側に行けばいいだろうに」
 文句を言いつつ押されるまま片端に寄った秋野の目の前に哲の顔がある。
 一緒に暮らすようになっても、哲の目に浮かぶ剣呑さや鋭さは以前のままだ。あの雨の日より前も、後も、そして今も。変わったものもあるが変わらないものも確かにあって、理由は自分でも分からないが、そのことがひどく貴重に思えた。
「……またてめえはなんか、俺が出てくんじゃねえかって不安だとかそういう」
「違うよ」
 笑ったら、哲は秋野を仔細に検分するかのように目を眇めた。
「ほんとかよ」
「ほんとだよ。これでいいのかって思うだけだ」
 哲は僅かに眉を寄せて瞬きした。何か言いかけ口を噤んだその様子に、誤解を招く言い方だったと気がついた。
「ああ、違う。そういうことじゃなく……俺はいいんだ。望んだとおり。俺はな」
 迷ったことも足掻いたことももう遠い。後悔しっぱなしだと哲は言うが、秋野自身は後悔なんかひとつもなかった。
「雨が降る度──」
 例え嘘でも、俺の一部を誰かにやったと言えばよかったのか。
 誤解したままのほうが、哲の中の何かは圧し潰されずに済んだのだろうか。
 後悔とは違う何かが去来して、その度自分勝手にねじ伏せる。今までだってそうだった。哲の内心を忖度したことなんかなかったはずだ。今更いいひとぶったって、雨の音に刺激されるのが罪悪感だと気づいたからってやり直せることなんかひとつもないし、やり直したいとも思っていない。
「雨が降ると、何だよ」
「……俺は幸せだって思うだけだ」
「てめえは馬鹿なのか?」
 哲はどこかの仁王像を彷彿とさせるおっかない顔で秋野を睨みつけて起き上がった。
「アホくせえ。さっさと寝やがれ、くそったれ」
「寝ないのか」
「わけわかんねえ話で目が覚めた。一杯飲んでくる」
 勢いよく起き上がった哲がつっかけたサンダルが階段に当たる音がする。少しだけ弱まった雨の音を上書きするように、バタバタと喧しく響き遠ざかった。

 

 人の気配がして目を開けたら、哲がベッドの脇に立っていた。
 左手にぶら下がっているのは酒の瓶。秋野がどこかからもらったうちの一本だろう。間接照明だけではよく見えないが、中身はほとんど残っていない。開封済みでいくらか減っていたとは思うが、それでも半分以上あったはずだ。
「一杯じゃなかったのか」
「……あ?」
 瓶を掲げた哲は、ちょっと首を傾げたかと思うといきなり残りの酒をラッパ飲みした。上下する喉仏が照明に照らされ浮き上がって見える。硬そうな鎖骨、指や腕の輪郭の鋭さに目を奪われた。
 瓶の中身を空けた哲は、手の甲で口を拭ってにやりと笑い、空き瓶を床に投げ捨てた。
「あー、一本?」
「まったく……その辺に捨てるな」
「後で拾う。なあ」
 乾いた前髪の先が秋野の瞼に微かに触れる。錠前屋は凶暴な犬みたいな笑顔を浮かべ、低い声で囁いた。
「──雨、止んだぜ」
 暗がりの中、瓶が転がり止まる音がした。秋野に覆いかぶさる哲の呼吸音、それから自分の鼓動の音。
 屋根を叩く雨音はもう聞こえなかった。