29 死神

 哲がシャワーを浴びて脱衣所から出てきたら、ちょうど中二階のドアが音もなく開いたところだった。
 哲がいないと思っているとき、秋野はほとんど音を立てない。音楽をかけないとかそういう意味ではなくて、ドアを開閉するような当たり前の物音や、足音を立てないのだ。これは、当然だが同じ部屋に住むようになって初めて気が付いたことだった。
 部屋にいるときに限らず、誰かがそばにいるときは当たり前に音を立てる。「誰か」には当然哲も含まれるので、過去数年に亘るつき合いの中でも気づくことはなかった。
 その時一緒にいる相手を驚かせないようにしているからなのか、それとも他の理由があるのかまでは訊いていないから知らなかった。
「いたのか」
 ちょっとだけ驚いた顔をした秋野は、常識的な音を立ててドアを閉めた。
「飲んでくるとか言ってたと思ったんだが」
「言ってたし飲んできたけど、途中で抜けた」
「何かあったのか?」
「いや、別に。途中で合流してきたのが喧しいやつでよ。別に嫌いじゃねえんだけど、今日はなんか相手すんのが面倒になったつーか……」
 コートを脱ぎながら近寄ってくる秋野を見て、哲はバスタオルを被ったまま思わず眉間に皺を刻んだ。黒いコートの下から現れた真っ黒いスーツはどうせハイブランドで、冗談みたいな値段のものだろう。喉元までしっかりボタンが留められた白いシャツ、きっちり締められた黒いネクタイ。
 アパレル関係にはごく一般的な興味しかない哲でも分かる。断じて安物ではなく、それどころか多分一流品。だが、哲が眉を顰めたのは服の質や値段のせいではない。
「それはどうでもいいけどよ、お前──それはまずいだろ」
「何が?」
 秋野は眉を上げて哲から自分の身体に視線を移し、首を傾げた。
「おかしいか?」
「おかしくはねえ。そうは言ってねえ」
「言ってることが分からんよ。酔ってるのか?」
「いや、ほろ酔いくらいだけど。んなことはどうでもいい。葬式だったんだよな?」
「お別れの会とかいうやつだから、正確には葬式ってわけじゃないが──何がまずいんだ。確かに喪服として売ってるスーツじゃないが」
 秋野は本気で不思議そうな顔をしている。カラーコンタクトのせいで瞳の色は黒に見える焦げ茶色。大半の日本人と似たような色合いで、威圧感はあまりない。だが、だからこそ。
「それじゃまるで」
「うん?」
「──死神じゃねえか」
 はっきり言って、似合いすぎている。
 本来の目の色で同じ格好をしてもそういうふうには見えないだろう。隠し切れない存在感が目玉という小さな器官に凝縮し、人は──哲は、ついそこに引き付けられる。
 だが、目が黒い今は違う。黄色人種そのものとは言えないが、白人でもない淡い肌色や黒い髪。長身痩躯を包むフォーマルな黒衣はなぜかやけに禍々しく、かといって陰鬱さはないのに、冴え冴えとして冷たかった。
「死神呼ばわりか」
「そんなんで葬式に行くってお前、まずくねえか? いかにもお迎えにきたって感じで」
「俺がお迎えしなくてももう誰かが連れてったと思うぞ」
「お前より適任がいたとは思えねえ」
「失礼なやつだな」
 言葉のわりに気に障ったふうでもなく、秋野は小さく笑ってコートをベッドの上に放り投げた。
 バスタオルが床に落ちる。踏んづけた端っこが裸足の裏でよれ、蹴り飛ばされて捲れ上がった。
 踏みしめた床の感触、足の甲に当たった生地のざらつき。布地一枚隔てた秋野の脛の骨の硬さに、蹴ったこちらの足に痛みが走る。構わず突っ込んで拳を振りかぶったが、気が変わって右手の軌道を力任せに捻じ曲げた。打ち下ろすのではなく突き上げた拳の小指が秋野の顎を掠める。肉の薄い頬の皮膚がタオルみたいに一瞬よれたがそれだけで、まともな打撃にはならなかった。
 顔の前を横切った肘を躱して、舌打ちしながら飛びすさる。そうしたつもりが魔法みたいに目の前に現れた手の甲にぶっ叩かれて吹っ飛びかけ、悪態をつきながらどうにか両手を床につき、倒れずその場に踏ん張った。
 そうか、こいつはこういうときも音を立てない。まるで体重が、そもそも肉体なんてものがないみたいに。
「くそ──」
 哲は無造作に伸ばされた腕を掴んで思い切り引き、秋野ごとベッドに転がった。素早く身体を反転させ、腹の上に跨って見下ろしたら呆れ顔の秋野と目が合った。
「何なんだ、一体?」
「痛えじゃねえか。顔面ど真ん中殴りやがって、てめえ」
「俺のせいじゃないよ。正当防衛だろう」
「うるせえ、死神」
 秋野は目を瞬き、仰向けのまま僅かに首を傾けた。
「さっきから……確かに黒ずくめだからまあ言ってることは分かるが、それが何だよ」
「あー、ええと、死神なら退治しなきゃなんねえだろ」
「退治」
「そう。ぶん殴りたくて気が狂いそうだ」
「うん? 何か言ってることがおかしいぞ」
 おかしいのは言われなくても分かっている。
 音を立てない、黒い目の秋野。
 何かが、或いはすべてが。ぱっと消えてしまいそうな気がしたのは、ただの錯覚だと分かっている。目の前に立つそれを殴り倒し、折り畳んで縛り上げてでもこの手に掴んでいなければと思ったのは、酔っ払いの見た夢みたいなもの。まったく、馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
「お前ねえ。俺は疲れてるし眠いんだ」
「あっそ。知るかよ、んなこと」
「腹の上から降りてくれ」
「やだ」
「哲」
「やりてえ」
「……」
「何だよ」
「そういうことを口にするときに、本当にその気だったことなんてないだろう」
 俺のものだと思った。
 あたたかな血も冷えたそれも、骨も水も肉も灰も。生も死も。
「──何にだって最初はある」
「──マジで?」
「似合わねえからやめろ、笑っちまうだろうが」
「何にでも最初はあるんだろ?」
 笑いながら秋野が起き上がったから後ろに倒れそうになった。秋野の唇に噛り付きながら低く囁く。
「本当に生きてんのか確かめてえ」
 削げた頬を指先でたどる。さっきぶん殴り損ねたその頬にもう一遍拳を叩き込んでやりたくてうずうずするが、今は先にすることがある。
「あったかくて濡れてりゃ多分、生きてんだろ」
「ただ触ったって分かるだろうに」
 背を支える掌がするりと腰まで下りてくる。潜り込んできた指先は、確かに、想像上の死を司る存在のように冷えてはいなかった。
「まったく……どうしてお前は不意打ちで心臓に悪い甘ったれ方をするんだよ。お前のほうが死神みたいだ」
 呆れた声を出した秋野は、哲の顔を荒っぽく掴み、真正面から哲を見据えた。悪魔みたいに真っ黒な目を眇めて。
「──泣いても知らんぞ」
「誰が泣くって、ふざけんじゃねえ。それより、それ取れよ」
 カラーコンタクトがなくなれば、多分いつもの秋野に見えるだろう。秋野はひとつ瞬きして、嫌だね、と呟き唇の端を曲げて笑った。
「お前な──」
「せいぜい不安に身悶えろ、錠前屋」
「てめえ、この」
「喪服の人妻みたいで興奮したか?」
「はあ!?」
 陽気な死神みたいにげらげら笑う秋野に押さえつけられ、哲は音高く舌打ちした。