28 ご飯かお風呂かそれともあたし

「ただいま。起きてたのか」
「よう」
 その日秋野は予定よりかなり遅く帰宅した。もっとも、伝えたからと言って哲が秋野の予定に行動を左右されることはない。だからとっくに眠っているだろうと思ったが、哲はまだ起きていて、でかいダイニングテーブルに座っていた。飲みながら飯を食っていたようで、煙草を銜え片手にグラスを持っている。
「珍しいな」
「なにが?」
 呂律が怪しいとまではいかないが、普段より若干舌が縺れるような話し方で、哲は隣に腰を下ろした秋野を一瞥した。
「いくつかある」
「いくつかっていくつだ、はっきり言いやがれ」
「四つ」
「あっそう」
「まず、ダイニングテーブルで食ってるのが珍しい」
「あー、カウンターだと狭いからよ」
 哲が指したのは料理だった。だし巻き玉子、鱚の天ぷら、ししとうの焼き浸し、他にも、量は少ないが何種類もの総菜があった。
「こう、横に並べて置くとな、遠くて箸が届かねえんだわ。食いにくいじゃねえか」
 しかし、食べやすさを求めてダイニングテーブルに座っているという割に、料理はあまり減っていなかった。秋野は手を伸ばし、哲が半分齧ったらしいだし巻き玉子をつまんで口に放り込んだ。
「おい、勝手に食うんじゃねえよ。しかも食いかけを」
「食いかけを食いたいんだよ。お前が作ったんだよな?」
 訊ねた秋野から興味なさげに目を逸らし、哲はグラスを傾けながら頷いた。
 珍しい点の二つ目は、哲が自分で食うために真面目に料理をしたこと。三つめは飲んでいる酒──テーブルには一升瓶が鎮座している──が日本酒であること。
 そして四つ目。
「哲?」
「ん?」
「煙草な」
 さっきから指に挟んだままの煙草を取り上げてやる。億劫そうに秋野に顔を向けた哲は、目の前に突き付けられた煙草をぼんやり見つめ、少し経ってから瞬きした。
「火が点いてない」
「……ん?」
 四つは、哲が結構酔っ払っているということだった。

 

「鱚をな、もらったんだよ」
「お前が? 誰に」
「あー、いや、俺ももらったけどそうじゃねえ。おやじさんが、知り合いから」
 哲が言っているのは、バイト先の居酒屋の店主のことだ。秋野は個人的に話したことがないが、店には何度も行ったから、彼の顔は知っている。
「店でも天ぷらにして出したけど、そんな山ほど出るわけでもねえし。さすがに量が多くて、余るっていうんで持たされた」
「へえ」
「ただ駄目にすんのも勿体ねえし、そしたらたまに飯でも作るかと思って何となく」
「それで、酒は?」
 酒の味や種類にはこだわらない哲だが、唯一あまり飲もうとしないのが日本酒だ。体質と合わないのか、いつもではないが悪酔いすることがあるらしい。
 焼酎だろうがワインだろうがウォッカだろうが、アルコールなら度数に関わらず平気な顔をして飲むのに、おかしなものだ。
「それももらった。なんか知らねえけど、よくやってくれてるからとか。別に何もしてねえって思ったけど、断んのも悪ぃかなと」
「そうか」
「そう」
「よかったな」
「あー? いいの? いいのか? 知らねえよ!」
 そう言うなり、哲は突然秋野の方に傾いた。支えきれないなんてことはないが、予想していなかったから驚いて咄嗟にちょっと身を引いたら、バランスを崩した哲が更に傾いだ。哲は悪態を吐きながら、途中からは自分の意思で無理矢理身体を預けてきた。
「何だよ?」
「何か真っ直ぐになれねえ! 何でだ! 酔ってんのか俺は!」
「誰に訊くまでもなく明らかに酔ってるな。ところで辛くないのか、お前」
「ああ?」
 哲の尻は勿論元の椅子の上にある。上半身だけ秋野の膝の上に乗りかかった体勢は、見ているこちらの脇腹が攣りそうだった。
「その無理な姿勢」
「だったら楽になるようにてめえが何とかすりゃいいじゃねえか!」
「起きろよ」
「面倒くせえ!」
「ああ、分かった分かった」
 消防の職員にでもなった気分で哲の身体をダイニングチェアから引きずり出す。足で哲の椅子を蹴っ飛ばし、無理矢理持ち上げた身体を腕の力だけで抱き上げるのは、さすがに結構大変だった。
「重たいな」
「うるせえ、てめえよりは軽い」
 幼児みたいに抱きかかえられてはいるものの、錠前屋は錠前屋だ。眉間に刻まれた深い皺、半分閉じかけた目はいつもどおりの可愛くなさで、不機嫌そうに秋野を睨んでいる。
「待ってたわけじゃないよな?」
「ああ? 誰が、誰を」
「言ってみただけだ」
 天変地異でもない限り、哲が飯を作って秋野を待っている、なんて事態は起こりえない。分かっているし、期待しているわけでもなんでもない。哲が嫌な顔をするのが面白いから言ってみただけだ。
 錠前屋は予想どおり嫌そうに顔を顰めて低く呻き、そうして秋野の鎖骨のあたりに顔を埋めた。
「待ってねえ」
「分かってるよ」
「戻ってくんならそれでいいし」
「そうだな」
「つっても、」
 酔っぱらった犬──犬にアルコールは毒だから、そんなものはこの世に存在しないが──みたいに秋野の首を甘噛みしながら、哲は秋野の耳の後ろに鼻をこすりつけて溜息を吐いた。
「そわそわするときもあんだよ、俺だって」
「……酔っ払いめ」
 酔っ払いの戯言。そういうものだ。分かっていても引っ掻き回される胸の内を宥めながら溜息を吐く。
「ああ? 知らねえよ、酔ってんのかどうか、つーか、え? お前が酔ってるっつーこと?」
「お前だろう、酔ってるのは。馬鹿だね」
「うるせえ、そわそわしながら天ぷら揚げてたときは素面に決まってんじゃねえか! 火気厳禁だろ酔ってたら!」
「まったく──」
 うなじを掴んで哲の唇に噛みつき黙らせた。
 何を言ったか、酔いが醒めたら忘れるだろう。忘れないかもしれないが、どちらでも構わない。哲は黙っていることはあっても嘘は吐かないし、駆け引きもしない。だったら、今ここで吐き出されたそれは真実だ。
 いつもと同じように不穏な威嚇の唸り声を上げる哲の掌は、素面の時より少しだけ強く秋野の背を引き寄せた。
「俺が飯食い終わって風呂から出てくるまで、そわそわしながら待ってられるか? 酔っ払い」
「天ぷらと風呂と俺を同列にすんじゃねえてめえ、くたばりやがれ、くそったれ」
 すぐそこにある美味そうな料理と、筋張り骨ばっていかにも美味くなさそうな野犬みたいな目をした男と。
 飯か風呂かそれとも俺の錠前屋か。
「──冗談だよ」
 そんなのは、考えるまでもない。