27 満員電車

 満員電車で通勤したことなどない人生だったし、これからも絶対にないだろう。
 絶対、なんていう言葉を軽々しく使うことはないが、こればかりは断言できる。日本国籍どころかどこの国籍もない、そもそも存在しない人間なのだから、まともな会社に勤めることなどありえない。
 だが、通勤ではなくて単に用事がその時間に重なることなら可能性はある──今日のように。

 

 哲を連れ解錠の仕事のために移動するのに、どうしてもこの時間、この電車に乗る必要があった。先方の都合だから仕方がない。
 いわゆる朝のラッシュのピークは過ぎていたが、それでも、秋野にとっては十分満員電車の部類に入った。何事も経験だとは思うが、こんなものは経験しなくても生きていける。幸い大抵の日本人よりは背が高いので息が苦しいということはないが、それでも見知らぬ他人と身体が触れ合いっぱなしの状態で狭い空間に閉じ込められるというのは、短時間であっても結構なストレスになった。
 両手は見えるところに出しておけ、という耀司の忠告もなるほど、用心しすぎとは言えない。これだけ隙間なく詰め込まれていれば──鮨詰め、という言葉はまさに言い得て妙だ──痴漢の嫌疑をかけられても、罪を晴らすのは至難の業と言わざるを得なかった。
 秋野の眼前には哲の頭のてっぺんがある。ほとんど秋野の鎖骨に頬を摺り寄せて寄り添っている状態だが、勿論これも哲の意思ではない。
 まあ、この点に関してはストレスどころか、不機嫌、不本意、苛立っている、という雰囲気を全身から発散している錠前屋がかわいくて仕方ないが、それでもやはり早く解放されたいことに変わりはなかった。
 ようやく目的の駅名がアナウンスされ、少し経ってブレーキがかかった。車両全体の重心が傾き、乗客全員が少しずつ傾ぐ。吊革を両手で掴んでいる秋野の胸に哲の重みがかかって革が軋む。あちらこちらで同じように音が聞こえ、すべてに倦んだような微かな溜息や、イヤホンから漏れる音楽の断片が交じりあって、そうしてまたすべてが真っ直ぐになった。
 狭い乗降口から吐き出され、押し流される小石みたいに改札を出て、ようやく秋野は息をついた。
「あー、マジで無理」
 哲の低い呟きが背後から聞こえて振り返る。眉間に皺を刻んだ哲は、髪をかき上げながら小さく舌打ちした。
「これでもピークは過ぎてるっていうんだからよ。尊敬に値するよな、毎日これで通勤してるやつら全員」
「ああ、そうだな」
 秋野は哲を眺めて首を捻った。言っていることも様子も別におかしくはないが、不機嫌な表情は混みあった電車移動を我慢していただけではなさそうに見える。
「どうした?」
「……何が」
「さあ? それを訊いてる」
 足早に行き過ぎるスーツの会社員を避けながら秋野の前に立った哲は、数秒躊躇って、諦めたように溜息を吐き、ひどく低い声でぼそりと呟いた。
「ケツ揉まれた」
「──は?」
 思わず訊ね返すと、哲は更に眉を寄せ、だからよ、と歯噛みしながら繰り返した。
「ケツを、揉まれた、っつったんだよ──おい、笑うの堪えてんだろうけどな、隠せてねえからな」
 ものすごい目つきで睨まれたが怖くない。それより、噛み締めた頬の内側が痛かった。
「痴漢か?」
「……いや、女」
 地を這うような声で錠前屋は言った。
「見たのか?」
「見えるわけねえだろ、てめえにべったり押し付けられてよ!」
「じゃあ何で分かるんだ」
 素朴な疑問だったが、哲は視線で殺すぞと言わんばかりに秋野の顔を睨みつけた。すれ違った人のよさそうな中年の会社員がぎょっとした顔をして立ち止まり、哲を大きく避けて逃げていく。
「……でかさ」
「え?」
「だから……手のでかさだっつの! 野郎の手のでかさならすぐ分かんだよ、慣れてっから!」
 最後はやけくそのように吐き捨てて、哲は秋野の脛を蹴っ飛ばした。まったくもって八つ当たりだ。
「あのサイズは絶対女の手だし、爪がなんか長えから刺さりそうで、つーか、爪の先でなぞりやがったあの女! 急ブレーキでもかかって入ったらどうしてくれんだマジで!?」
 どこを、どこに、とは聞かなかったが推して知るべし。吹き出しそうになったが何とか堪え、しかし哲の鬼の形相を見たら堪え切れずに最終的に思い切り吹いた。
「笑うんじゃねえ!」
「いやだっておま──、すまん、でも、はは!」
「はは! じゃねえわ! 俺はなあ、今までもあれだぞ、痴漢ってのは許せねえと思ってたし、被害者はすげえ災難だって思ってたぜ、本気でな。けどな、今はもうそうじゃねえ、共感してるからな!?」
 まだぶつぶつ言っている哲を促して歩き出す。何か答えたらその度に笑ってしまいそうだから、秋野は口を噤んでいた。勿論これが女性だったら──いや、性別にかかわりなく、他人だったらまったく笑いごとではないのだが、哲だとつい笑ってしまう。
「くそ、そんなに俺のケツが気に入ったなら同じ駅に降りて正々堂々誘えばいいじゃねえか、いくらでも揉ませてやんのによ!」
 鼻息も荒く言うから、思わず哲の腕を取って無理矢理引っ張った。
 建物と建物の間の狭い隙間。誰も覗き込まない狭い通路に押し込んで、平らなケツを掴んで引き寄せる。
「それは駄目だ」
「ああ!? うるせえな! てめえが決めることじゃねえ!」
「よく言うよ、俺の手の大きさまできちんと覚えてるくせに」
 哲は歯を剥いて唸りながら秋野を睨みつけたが、さっきのように蹴っ飛ばそうとはしなかった。
「……爪の先?」
「退け」
 笑った秋野を思い切り押しのけて、哲は大きく舌打ちした。
「どこ行きゃいいんだよ? さっさと案内しやがれくそったれ」
「ああ、そうだな」
 大股で歩く哲の後頭部を眺めながら言ってみる。
「なあ、哲」
「ああ?」
「覚えてるのは手の大きさ──だけじゃないよな?」
 聞こえなかったのか、聞こえなかったふりなのか。
 哲は何も言わずにさっさと先を歩いていく。
 だが、早く済ませて早く帰ろうと言ってみたら、不機嫌そうに、しかしはっきりと頷いた。